サイン
いつものように辺奈商事本社ビルの二階で、書類の受け渡しが滞りなく終了した。
このところハルコが反抗期だとかで、瑞希は常に忙しそうにしている。今日も真純がコーヒーを飲み終わるのを待たずに、先にカフェを出て行った。
残された真純は、のんびりとコーヒーを飲み干し、トレーを持って席を立つ。何気なく出入口に目を向けると、そこにいた男と目が合った。
社内で一番会いたくない奴、高木だ。
気付かぬフリをしてやり過ごそうにも、バッチリ目が合ったことを相手も把握している。
その証拠に、こちらを向いてヒラヒラと手を振りながら、ニヤニヤと笑い出した。
こいつが自分に対して、友好的な態度を取る理由などない。おそらくシンヤと付き合っていることを、からかうつもりだろう。
不愉快きわまりないが、出入口はひとつしかない。真純は腹を括って、出入口に向かった。
店の外へ出た途端、高木が親しげに話しかけてきた。
瑞希はもう上に上がったのかと訊かれ、それに答える。こいつがそんな事を訊くために、わざわざ声をかけたとは思えない。
警戒心を露わにしたまま、真純が見上げていると「ところで」と高木は切り出してきた。
「須藤さん、舞坂と付き合ってるそうですね」
「それが何?」
今さらとぼけても無意味だし、挑発に乗ってはいけないと思いつつも、言葉がトゲを持つ。
高木は真純の態度など気にした風でもなく、ヘラリと笑った。
「いやー。よかったと思ったんですよ」
何がよかったんだか、意味が分からない。
「なんでおまえに喜ばれなきゃならないの?」
思い切り怪訝な表情をする真純に、高木は言葉を続けた。
「須藤さんって、男はみんな敵だとでも思ってそうだったから、ちゃんと男を好きになれる人だったんだ。よかったなぁって」
そういえばこいつは、ヒマさえあれば合コンを仕切っているような奴だった。
シンヤも誘われたらしい。真純も友人に年上好きがいるからと紹介されそうになり、激しくお断りした事を思い出す。
男と女がいれば、そこには必ず恋愛感情が芽生え、誰もがパートナーを欲していると決めつけている。
彼氏がいないのに紹介を断る真純を不思議がっていたが、「男は敵だと思っている」と結論づけていたらしい。
こいつの思考回路は、やっぱりよく分からない。
真純は思いきり肩を落として、大きくため息をついた。
「私を敵だと思っているのは、おまえの方でしょ?」
高木は意外そうに二、三回まばたきをした後、顔の前で激しく手を振った。
「いやいやいや、嫌われてるのはオレの方でしょ? 須藤さん、ひどく怒ってたし。そのまま自宅勤務になっちゃって、飲み会にも全然来なくなったし。敵どころか仕事頼めなくなって残念に思ってるんですよ。だって須藤さんって、仕事早いし正確だし」
今度は真純の方が目を丸くした。高木は真純の仕事を軽く見ていると思っていた。だから、いくら注意されても遅刻癖が直らないのだと。
仕事の出来を高評価されている事が意外だった。そしてそれは多分本当の事なのだろうと思い至る。
自宅勤務にしてもらった時、瑞希が「高木くんが残念がるわよ」と意味不明な事を言っていたのだ。当時は本当に意味不明だった。高木に残念がられる要素は何もない、と思っていたからだ。
高木は飄々として調子のいい奴だが、案外仕事の出来る奴だと真純も認めていた。そうでなければ、瑞希がチームリーダーという責任のある仕事を任せたりはしないだろう。
システム開発の仕事について真純はよく分からないが、高木が真純に与える指示は、簡潔で的確で分かりやすかった。
ただ遅刻癖だけが、どうしても腹に据えかねたのだ。
互いに勘違いしていた事がおかしくて、真純はクスリと笑った。
「私もおまえが嫌いなわけじゃないよ。ただ一緒に仕事したくないだけ」
真純がそう言うと、高木は頭をかきながら笑う。
「相変わらず手厳しいなぁ、須藤さんは」
一応、高木も努力はしていると言う。
目覚まし時計を十分間隔で鳴るように、部屋のあちこちにセットしてあるらしい。それでも三日に一度は寝過ごしてしまうというから、かなりな強者だ。
他人の世話ばかり焼いてないで、自分が毎朝起こしてもらえる嫁さんをもらえばいいのにと言うと、そんな心の広い女の子はなかなか見つからないらしい。
寝過ごしてデートや記念日の約束をすっぽかしてしまい、過去何度も破局したと苦笑混じりに白状した。
光景が容易に想像できるだけに、真純は思わず吹き出した。
「たまには飲み会にも来て下さい」
そう言い残して、高木は笑いながらビルの奥に消えていった。それを見送り、真純も家路につく。
高木とのわだかまりがなくなり、高かった会社の敷居が、少しだけ低くなったような気がした。
キッチンで夕食の支度をしていると、玄関でコトリと音がした。
そろそろシンヤが帰ってくる時間だか、シンヤはいつも大声で挨拶しながら、久しぶりに主人に会った子犬のようにバタバタと駆け込んでくるので、家のどこにいてもすぐ分かる。
シンヤにしては静かすぎるので、何か落ちたのかと思い、真純はキッチンを出て玄関の様子を見に向かった。
リビングを素通りして玄関へ続く廊下の扉を開けた途端、目の前にいたシンヤにぶつかりそうになった。思わず声を上げて一歩退く。
さっきの物音はシンヤだったようだ。シンヤも驚いたようで、一瞬目を見張ったものの、すぐに真顔に戻って、じっと真純を見つめた。
「びっくりした。おかえり」
シンヤは真純の声にも反応がなく、ただじっと見つめている。
様子がおかしい。冬に風邪をひいて熱を出した時でも、ここまでおとなしくはなかった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
首を傾げながら、真純はシンヤを見上げる。するとシンヤは、持っていた荷物をポトリとその場に落とし、いきなり真純を抱きしめた。
いきなり抱きしめられるのはいつもの事だが、今日は様子が違う。痛いほどに強く抱きしめられ、足が宙に浮いたところを壁に押しつけられた。
そして真純が抗議の声を発する前に、シンヤは自らの唇で口を塞いだ。
唐突なキスもいつもの事だが、あまりにも唐突で激しすぎて、真純の頭は混乱する。
掴まれた肩が痛い。なんだか怒っているようにも思えるが、何を怒っているのか見当もつかない。
息苦しくて、わけが分からなくて、真純はシンヤの胸を拳で叩いた。
シンヤがハッとしたように唇を離した。
「なんなの。いったい」
困惑に眉を寄せて、睨み上げる真純に、シンヤは目を逸らしポツリとつぶやいた。
「……ごめん」
手を離したシンヤは、俯いたまま黙り込む。
やはり様子がおかしい。具合が悪いわけではなさそうだが。
真純が問い質そうとした時、キッチンからカタカタと音が聞こえて来た。
「あ! 鍋を火にかけたままだった」
真純はシンヤをその場に残し、慌ててキッチンに駆け戻る。幸い吹きこぼれてはいなかった。
「うーん。底の方がちょっと焦げちゃったかなぁ」
鍋の中をかき回していると、後ろからシンヤの声がした。
「今日はカレーなんだね」
振り返ると、少し笑いながら、シンヤが鍋の中を覗いている。さきほどの暗い様子はなくなって、いつもより少しおとなしめのシンヤがいた。
ホッとした真純も、笑顔を返す。
「うん。おまえ、好きだし。明日の方が絶対おいしいから、今日全部食べないでよ」
「さすがにこれ全部は無理だよ」
おどけたように笑うシンヤは、すっかりいつもの犬かぶりシンヤだった。
――とはいえ、やはり帰ってきた時の様子が気になる。
夕食の後、一緒にテレビを見ながら、真純は意を決して尋ねた。
「会社で何かあったの?」
「ん? 別に……」
平静を装って、シンヤは否定する。
あれだけあからさまに様子がおかしかったのに、ごまかそうとしてもそうはいかない。
「何もないなら、どうして帰ってきた時変だったの?」
「変って……」
黙って互いを探るように見つめ合う。少ししてシンヤが観念したのか、目を伏せて大きくため息をついた。気まずそうにチラリとこちらを見て白状する。
「笑わないでよ……」
そう前置きをして、シンヤは会社であった事を話し始めた。
客先での打ち合わせに向かう途中、偶然、高木と話している真純を見たという。高木の事を嫌っていると思っていた真純が、楽しそうに笑っているのを見てモヤモヤしたらしい。
それが子供じみた嫉妬だという事は分かっていたし、真純が高木に対する恋愛感情を持っていない事も分かっていたが、どうしても気持ちが収まらなかったようだ。
「真純さんの気持ちは信じてるし、オレって心が狭いなって思うけど、気に入らないんだよ。あんな笑顔が僕以外の男に向けられるのは。真純さんが自宅勤務でよかったって心底思った。会社に通ってたら、毎日こんな思いしなきゃならないなんて、それこそ気が変になりそう」
ふてくされたように口をとがらせるシンヤが、なんだかかわいい。
真純はソファの上に上がり、ひざ立ちになって、横からシンヤの頭を抱きかかえた。
「大丈夫だよ。いくら楽しそうに話をしても、他の奴なんて眼中にないから」
シンヤは真純の腰にそっと腕を回し、身体を引き寄せる。
「真純さん。たまにそういう事して、僕を煽るのはやめてくれる?」
煽っているつもりはなかった。安心させたかっただけだ。それに”真純さん”だし”僕”だったから油断した。真純が気付いた時には、ソファに押し倒され、シンヤにのしかかられていた。
デジャヴを覚える。以前もここで、こんな事があったような――。
黒シンヤは長い腕を伸ばし、ローテーブルに置かれたリモコンを取って、素早くテレビを消した。
そして真純に顔を近付け、邪魔者はいなくなったとばかりに、ニヤリと笑う。
「今すぐ真純をオレだけのものにしたくなった」
「えぇ?! ここ、ソファだし」
あまりに唐突な展開に真純はうろたえながら、シンヤの肩に手を置いて身体を押し戻した。しかしシンヤは余裕の笑みを浮かべながら、あっさり真純の手を外して言う。
「じゃあ、ベッドに行こうか」
「いや、待って。まだお風呂に入ってないし、心の準備が……!」
わめきながらも自分でツッコミを入れたくなる。一緒に住んでいながら、互いの気持ちも確認しているのに、いまさら心の準備など間抜けすぎる。
今日は彼の家にお泊まりだから、もしかして……という乙女心の機微とか、事前の覚悟とかありえない。
元々黒シンヤは唐突なのだから、唐突にその時がやってくる事ぐらい、常に意識して然るべきだ。
ただでさえシンヤには長い間、お預けを食らわせている。わざとではないにしても、あんまり長引かせては、瑞希が言ったようにかわいそうな気がする。
でもお風呂ぐらいは入らせてもらえないだろうか。この時期、半端なく汗をかいているのだ。
そんな事を考えながら、真純が必死に覚悟を固めようとしていると、目の前でシンヤがクスリと笑った。
「冗談だよ。そんな顔しないで」
(あれ? もしかして犬が帰ってきた?)
シンヤはソファに座り直し、真純の手をとって身体を引き起こした。
拍子抜けして唖然とする真純に、シンヤは苦笑する。
「そんなにホッとされても複雑だけど、でも僕、真純さんがその気になるまで、何年でも待つよ。だってもう二度と泣かせたくないし、失いたくないから」
どうしてそういう事をサラリと言うのだろう。胸の奥が甘い痛みに疼いて、今すぐにでも許してしまいたくなるではないか。
でもそれを口にするのは恥ずかしいので、グッと踏みとどまる。
シンヤはイタズラっぽく笑いながら提案した。
「そうだ。真純さん分かりにくいから、その気になったら僕に合図してよ」
「合図って、どんな?」
「キスして。真純さんから」
「え……」
それは強引に押し倒されて、なし崩し的に許してしまうより、ハードルが高いような気がする。
顔を引きつらせる真純を見て、シンヤが吹き出した。
「唇じゃなくてもいいよ。ほっぺでも手でも」
「……うん。それならいい」
真純はホッと息をつく。奥手な真純にシンヤが最大限気を遣ってくれているのが嬉しくて、思わず彼の腕にしがみついた。
「だから、そういうかわいい事しないで」
不満そうにそう言うと、シンヤは真純の手をほどき、肩を抱き寄せた。
見上げる真純を見つめて、シンヤは微笑む。
「我慢できなくなるでしょ?」
そして唐突に口づけた。
今度のキスは、いつものように唐突だけど、いつものように優しくて甘かった。
(完)
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