胸像を動かしたお前なら(下)
日曜日の、午後十一時過ぎ。
僕と鈴木は学校前に自転車で乗り付けると、近くの茂みに自転車を隠し、閉ざされた校門を乗り超えた。
思った通り、宿直はおろか、警備員の一人すら見当たらない。まぁ、しがない田舎町の高校だ。当たり前と言えば当たり前か。
それでも僕たちは、出来るだけ目立たない経路を選択し、グラウンドに向った。
その間、鈴木は興奮のためか、狂った猿のように動物的な笑い声を上げていた。
僕も自分がやろうとしていることの滑稽さ、無意味さを思うと、腹の底から叫びだしたい興奮にかられ、自然と口角が上がっていた。
胸像の前には、驚くほど簡単にたどり着いてしまった。
僕がリュックから必要な物を取り出している間、鈴木が胸像の頭を叩いた。
――ペシッ!
禿げ頭から、乾いた音が響く。
すると鈴木は地面に転がり、腹を抱えて笑い出した。
「うは! ふははははは! ふはははははは」
「く……お、おい! ボリューム! ボリュームを落とせ!」
僕は注意しながら、必死で笑いをかみ殺した。
鈴木の笑いが収まると、胸像を動かす為の準備に取り掛かった。胸像を倒す方向に毛布を敷き、続いてロープで胸像を固定する。
そして胸像の後側に回り込み、足場の土をほじくり出した。添え木を充て、用意しておいた伸縮可能な物干し竿を伸ばして、穴に突っ込む。
「よし、いいぞ!」
僕の声を合図に、鈴木がてこの原理で胸像を浮かせ、僕がそのままロープを引っ張っる。
ずし~ん。
大地を地味に揺さぶる音を立てながら、胸像があっけなく倒れた。
「敵将ぉ! 打ち取ったりぃ!」
「アホなことやってないで、さっさと動かすぞ」
胸像を踏みつけ、勝鬨の声を挙げる鈴木に、僕は呆れ顔の中、笑いを滲ませて言う。
そして僕たちは、ロープで絡めた胸像を毛布ごと引きずり、校庭の中央を目指して引っ張っていく。
夏を目前に控えた夜の風は、時折僕たちに涼感を運ぶが、それでも三百キロ近い胸像を引っ張るという肉体労働の中、じっとりと汗が染み出る。
運ぶ途中、僕は毛布がめくれていないか気になり後ろを振り向いた。
するとそこには、胸像の後頭部、つまり禿げ頭が鈍く光り……。
「くっ!」
僕は俯いて、笑いをこらえた。
「小林? 何? どうしたん?」
尋ねてくる鈴木に、僕は無言で胸像の禿げ頭を指さした。
すると奴は禿げ頭に視線を向け「ちょっとゴメン」と、ロープを引く手を休め、
――ペシッ!
再び禿げ頭から、乾いた音が響く。
「ふは! ひひひひ! ひひ、あは! あはははははは!」
「おまっ、いい加減に! なんで、なんでたた、ふは! ふははははは」
そのまま二人で、憚ることなくグラウンドに笑い声を振りまく。
笑いが収まると、鈴木が思いついたように言った。
「な、なぁ小林」
「はぁ、な、なんだ?」
「この胸像さ、校庭の真ん中じゃなくて、野球場のマウンドに置かね?」
「は? マウンド?」
突然のプラン変更に、一瞬、僕は訝しんでみせたが……。
校庭の隅。野球場。ピッチャーマウンド。胸像。禿げ頭。
「ぶはっ!」
想像するだに可笑しくて、僕は思わず吹きだした。
「おまっ、おまえ天才! その案、採用!」
「うははは、了解了解!」
僕たちは予定を変更し、物言わぬ胸像を、校庭隅の野球場まで引きずる。そしてピッチャーマウンドにたどり着くと、胸像を置きあがらせようと試みた。
当たり前だが、倒すより起き上がらせる方が、何倍も力がいる。腰をあまり落としすぎないように注意しながら、胸像に張り付くようにして、胸像を浮かせた。
その隙間に、先程の物干し竿を滑り込ませる。
後は胸像を挟んで左右対称に並ぶと、オルタネイトグリップと呼ばれる左右の手を互い違い(右手の甲を上に、左手の甲を下に向ける)にして持つ方法で、物干し竿を握った。
「よしいくぞ! せ~の!」
男二人、滝のように汗を噴き出しながら、胸像を起き上がらせることに成功する。
が……。
――どし~ん。
胸像は、勢い余って反対側に倒れた。
僕と鈴木は、思わず顔を見合わせた。
そして――。
「ふは! ひ、ひひひひひひひひ! ふひひひひひ!」
「く、おま……笑う、く、くは! くははははははは!」
鈴木が悶絶し地面に転がると、僕もその場にへたり込み、腹を抱えて笑ってしまった。アホだ。男二人、夜の学校に忍びこみ、禿げ頭の胸像相手になにやってんだ。
呼吸困難になるほど笑った僕たちは、その後、胸像を立ち上げることに成功した。
僕は計画が順調に運んだことに満足を覚え、足早にその場を去ろうとする。すると鈴木が、どこからか砂ぼこりにまみれた野球帽を見つけてきた。
それを無言で胸像の禿げ頭に被せる。
「ほら、これで頭隠せよ。それにピッチャーは、ちゃんと帽子を被らなきゃな」
「……ぶっ!」
僕が噴き出したのをきっかけに、それから僕たちは、再び狂ったように笑い声を上げた。
そして何十年の時を経て(?)、マウンドに登板した学校の創立者を、得意げな表情で眺めた僕たちは、その場を去った。
帰り道。僕たちは自転車を漕ぎながら、不審な笑いをそこら中にぶちまけた。
「きょ、胸像が! どしんって、反対に、反対に倒れて! あは! あははは!」
「ぼ、帽子! そ、創立者、や、やる気満々! ぶははははは」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
翌日。俺が登校すると、学校は胸像の話題で持ちきりになってた。
なにせ、野球部が朝練をしようとしたら、胸像がマウンドに登板しているのだ。しかも野球帽を被って。話題にならない方がおかしい。
だがその日の放課後には、胸像は野球部の手によって元の位置に戻されてしまった。俺と小林は、黙ってその光景を眺めていた。
「学校側としては、問題をあまり大きくしたくないんだろうな」
この事件は後に「胸像登板事件」と名付けられることになるのだが、犯人探しが行われることもなく、有耶無耶の内に終わってしまった。
だが、いつもつるんでるメンバーだけは、「あれやったの、お前たちだろ?」と尋ねてきた。
俺と小林は顔を合わせると、答える代りに、
「「どし~ん」」
と、二人だけに通じる暗号を言って、笑い合った。
小林とは腐れ縁なのか三年もクラスが一緒になった。
その後、あいつは地元の国立大学に、俺は私立大学に進学した。
大学生になっても、俺と小林は時々俺の部屋に集まって、色んな馬鹿話をした。あいつは、高校の頃に比べて表情が豊かになった。色んなことから自由そうだった。
だが俺はと言えば……。
小林といる時以外、高校の頃に比べ表情が乏しくなった。
大学生活が上手くいってなかった。友だちを作るタイミングを逃して、いつの間にか一人で……。
大学に行くのが嫌で、単位を落として留年が決まると、大学を止めた。
フリーターになったことに対して、小林は特に何も言わなかった。
大手チェーンの酒屋でバイトして、家でゲームして、週末は時々小林が来て。
そんな生活を、三年程送った。
だけど酒屋が潰れると……俺は何だか新しバイト先を見つけるのが億劫になって、家に引きこもるようになった。ニートって、簡単になれるもんだなと思った。
小林はいつの間にか国家公務員になって、東京で一人暮らしを始めたらしい。
昔から地元の市役所に勤めると言っていたのに、どういう風の吹きまわしなのか、俺には分からなかった。あいつはいつも一人で、無言の内に、色んなことを決めちまう。
だけど小林は、お盆や正月には、決まって俺の部屋にやってきた。ちょっとだけヤツレていたけど、俺がニートをやってることを特に詮索もせず、酒を飲み、俺に付き合ってゲームをやった。
俺たちは、高校の頃と同じ口調で、同じように下らないことを話した。その時だけが、俺は俺でいられた。多分、小林もそうなんじゃないかと思う。
遊んでいる最中、御盆や正月にも関わらず、仕事先からあいつに電話がかかってくることがあった。
その時の小林は、俺が聞いたことも無いような、冷たい口調で何かを受け答えていた。
だがある時から、小林はお盆や正月になっても、俺の家に寄らなくなった。
ひょっとして、俺のことなんて忘れちまったのかな……と、寂しい気持にもなったが、ネットゲームで友人を見つけたりして、寂しさを紛らわせた。
ニートは相変わらず続いていた。
どこかに就職するなんて、まるで考えもつかなかった。
初めはそうじゃなかった。手元の百万。この金がなくなったらアルバイトか、就職活動をしようと思っていた。
だけど実家暮らしで、衣食住の全てを親に賄ってもらってる俺に、金は必要なかった。ブックオフに行けば本は百円だし、ネットがあれば娯楽にも困らない。
一か月を一万円で過ごすなんて、余裕だった。
それ以下でも、全然、全然……。
親も、俺に対しては特に何も言わなかった。
「あなたは、あなたはやれば出来るのよ」
そういうことを、母親が最後に言ったきり。
そして最後に小林が来てから四年後のお盆。フリーメールに小林から連絡がきた。携帯を解約した日、あいつにだけはフリーメールのアドレスを教えていた。
「○月○日の、十九時頃に遊び行っていい?」
小林が来る前日、部屋を綺麗にした後、俺は眠れなかった。
あいつが来たら、どんな話をしようか……心を躍らせていた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
鈴木がニートになっていることに、僕は少なからず心を痛めていた。
奴はお調子者で、空気が読めて、気のいい奴だ。
だが時にそのキャラが、空回りすることがある。
また僕は、奴の心に時々純粋すぎる物を見て、危ぶんだりした。
あいつは……人間の汚さを知らない。
社会と言うのは、僕たちが高校生の頃に思い描いていたようなものじゃない。
具体的な社会に立脚せず、幼い万能感に包まれていた頃には気づかないが……絶望したくなるような、醜い面を孕んでいる。
鈴木は何も言わないけど、大学という一つの社会で、そんな思いを味わったんじゃないかと思った。
でも鈴木は、僕と一緒の時は、高校の頃の鈴木のままに朗らかに笑っていた。僕がいない時、こいつはどうしてるんだろうなと思うと、締め付けられるように心が痛んだりもした。
だが、鈴木にばかり構っていられない事情が出来た。
大学三年生を迎えた頃、僕の身辺にも俄に変化があった。
「君は、就職はどうするのかね?」
居間で新聞を読んでいた僕に、祖父が尋ねる。
「ん? 前に話した通り、地元の市役所を受けようと思ってるけど」
新聞を折りたたみ、祖父の顔を見ながら答えた。
「そうか……君は、国家公務員に興味はないかい?」
「え? まぁなくはないけど……でも地元を離れるのはちょっと」
僕がそう言葉を濁すと、珍しく祖父は厳格な調子で言った。
「地元の市役所は、君には小さ過ぎる。君はいつもそうだ、どうして小さく纏まろうとする? その能力を生かしきるべきだ」
それから一週間、僕は呆けたように、何も手につかなかった。そんな厳しい言葉を彼の口から聞いたのは、生まれて此の方初めてだった。
その中で、祖父は祖父なりに、心を痛めていたんじゃないかと思い至った。僕の気遣いを見抜いて。
決意した僕は、国家公務員となるべく勉強に励んだ。そして希望とは違うが、なんとかある省庁に入庁することが出来た。
だけど……そこで僕は、現実に押しつぶされた。
日本の最高学府の学閥に所属していない僕は、出世も望めず、あるのは膨大な事務処理仕事ばかり。
勤め始めて二年後、鬱を発病した。
同僚に、何人も僕と同じ病状の奴がいた。
そしてある日、あぁ……僕はゆっくりと、ここで生命を萎ませていくんだなと、ぼんやり思っていると、不意に鈴木と馬鹿をやった日のことを思い出した。
「どし~~ん」
僕は虚ろな思考のまま、そう口にした。
デスクワークをしている同僚が、ぎょっとした目で僕を見たのを、視界の隅で捕えた。
なんだろう、やけに瞳が熱いなと思って目元を拭う。
指先についた、僅かな水滴を見て、初めて気がついた。
あぁ、僕は悲しいんだ。
結局、体調不良を原因に仕事を辞めた。そのことを祖父に告げると、彼は電話口で何回も「すまなかった」と言った。
彼が謝る理由なんて、どこにもなかった。僕にも自尊心があって「国家公務員」という肩書に踊らされ、つい飛びついてしまっただけのことだ。
地元に戻ることを決めたら、急に色んなことが楽になった。
一体、僕は東京で、何を頑張ろうとしていたのだろうか。
地元に帰る新幹線の中、鈴木に連絡を取った。
心の片隅で、ずっと奴のことが気になっていた。
だが忙しさにかまけ、ろくに連絡を取ることをせず、また正月や盆に実家に帰っても、死んだように眠る生活を続けていた為、奴とは数年会っていなかった。
「○月○日の、十九時頃に遊び行っていい?」
「おk!」
久しぶりにメールを送ると、直ぐに返事が返ってきた。
鈴木は生きてるみたいだ。そんな当たり前のことに、思わずホッとして、懐かしいやり取りに笑みが零れた。
「よっ」
当日、昔と同じように近隣のスーパーで酒のツマミを揃えた僕は、奴の部屋を訪れた。
玄関でお母さんに「ありがとうね、ありがとうね」としきりに言われたが、そのことは奴には黙っておく。
初めてあった日、「蟹食べる?」と尋ねてきた彼女は、疲労をその顔に滲ませ、少しだけ老けて見えた。
「うっす!」
鈴木は、十年来の友(事実そうだ)に接するように気軽に応じた。そして僕は、奴との関係性の中でしか、立ち現われることのない僕になった。
再会した瞬間から昔の自分に戻れるのが、僕らのいい所だ。
僕らは早速、馬鹿話を始めた。
粗雑な若者風の言葉づかい。馬鹿じゃねぇの、等と普段では使わない言葉も、平気で口を衝いて出てくる。どうでもいい話題で笑い転げる、高校生の頃、そのままの僕たち。
『マグロアッパー!』
酒を飲みながら、奴がゲームをやっているのを眺めていると、画面の中の女の子が突如叫んだ。
昔から僕は、奴がゲームをやっている横で、あれこれと口を出すのが好きだった。しかし、流石にその攻撃(?)には驚いた。
「最近のゲームは、なんかこう、色々とんでもないな」
「あぁこれな、レベルアップすると『本マグロアッパー!』に変わるんだぜ」
「ぶはっ! く、くだらね~~」
その後もくだらない話に花を咲かせていると、不意に話題は高校時代へと移り、胸像の話が持ち上がるのに、時間はかからなかった。
「ははっ、今でもよく覚えてるよ。本当、懐かしいな」
「まったく、あの時は参っちまったよ。いきなり小林が訳わかんないこと言いだすからさ」
僕はその声に、憮然とした調子で抗議の声を上げる。
「おいおい、最初に言い出したのはお前だろ?」
「いや、小林だって! 俺は胸像を爆破しようって言ったんだけど、小林がそれは無理だから動かそうってことになったんじゃん――」
その瞬間、急にあの日のことが質量を伴って僕に降りかかってきた。ロープを握った時の痒いような熱いような感触も、叫びだしたくなるような、不思議な興奮も。
そして、あることに気づく。
今、目の前で笑っている鈴木の笑顔は、あの日の笑顔に比べると……どこかに陰りが……。
「で、でも、胸像をマウンドに置こうって言いだしたのは、お前の――」
僕はその寂しくて泣きだしたくなるような感慨を隠すと、話を茶化した。
それからも色んなことを話し、気づくと時刻は十二時を回っていた。
「じゃ、そろそろ帰るわ」
言うと鈴木は、ちょっと気落ちしたような顔で「お、おう」と言葉を返した。
「あっ、そうそう……僕、地元に帰ってくることにしたから。実は体調崩しててさ、丁度タイミング良く地元の市役所の試験もあって、来年度から働くことが決まったんだ。だから……その、またちょくちょく遊びに来るわ」
すると鈴木は、驚きながらも嬉しそうに顔を輝かせた後……複雑な心境を窺わせる顔を見せて、
「そっか……昔っから小林は、不言実行だったよな」と言った。
僕はその時、『お前だって、有言実行だったじゃないか』という言葉をぐっと飲み込んで、ただ曖昧に笑ってみせた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
小林が「じゃあな」と言って、玄関の扉を閉めた時。俺は努めて冷静に言葉を返せたと思う。
もうちょっと……もうちょっと遊んでけよ。
そんな言葉を必死で押しとどめて。
見送る俺に、あいつは「風邪には気をつけろよ」と言った。
『ニートに、風邪はあんま関係ねぇよ』
と茶化して言おうとしたが、結局、俺は「おう」と答えていた。
そして俺は一人になると、自分の部屋にとぼとぼと戻った。小林が帰った後の、この落差には簡単に慣れるもんじゃない。
自分がただ一人、寂しい世界の真ん中にいるような気持ちを覚えた。
ベッドに転がる。
すると急に、小林と馬鹿をやった日々が頭の中を駆け巡った。
あの日、俺はなんでも出来ると思った。人生なんて楽勝だって。この胸像を動かすみたいに、何でも軽くこなしてやるって。
努力だって、決して嫌いじゃなかった。
頭だって、小林程じゃないけど、そこそこいい方だった。
なのに……なのに……今の俺は、ただのニート。
鼻の奥がツンとして、瞼が熱くなった。
久しぶりの感触。
悔しくて、悔しくて、悔しくて仕方がなくて……涙が溢れた。
不言実行。
あいつにそう言った時、俺は自分の胸が、急に苦しくなった。
有言実行という、あいつが俺を評した言葉を、同時に思い出しちまったからだ。
なぁ小林……俺は、この先どうなるんだろうな?
俺は、俺は……。
『まぁ仕方ないよ。あいつらは、友達にはいいけど仲間には向かない』
俺は小林の言葉を思い出すと、居ても立ってもいられなくなって、部屋を飛び出した。
仲間。あいつは、小林は俺のことを、仲間と言った。
『有言実行。言ったことは、必ず成し遂げるしさ……そんな所、僕は結構尊敬してるんだよ』
違うんだ! 俺は、俺はそんな大層な奴じゃない。
努力じゃどうにもならないことがあるって……思い知った。
大学の奴らの顔が頭をちらつくと、また悔し涙が出てきそうになった。
それを押さえて、俺は走った。
そしてビニール袋をぶら下げて、夜風に吹かれながら歩いているあいつを見つけると、大声で呼び止めた。
「こ、小林ぃぃぃぃぃ!」
するとあいつは、驚いた顔で俺の方を見た。
昔と変わらない、あいつの顔。俺の、俺の……仲間の顔。
「小林ぃ! 俺、俺!」
喉が詰まっちまったみたいに、そこから先は言葉が出てこなかった。
唾を飲み込む。俺は、何かを言いたかった。
また頑張れるかな? 俺、やり直せるかな? そんな言葉を……。
だけど、いざ言おうとすると、やっぱり言葉が出てこなくて。
「俺……俺ぇ!」
「鈴木……」
するとあの日、小林と胸像を動かした日のことが、まるで昨日のことみたいに鮮明に浮かび上がってきた。
馬鹿みたいに楽しくて、最高で、それで、それで……。
すると自然と、言葉が口を衝いて出た。
「俺、もう一度! 胸像を……。胸像を動かせるかなぁ?」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
鈴木の家を後にした僕は、家路へ向け、殊更ゆっくりと足を動かしていた。寂しさとも悲しさとも、怒りともつかない感情が、ぐろぐろと渦巻いていた。
鈴木……。
僕は、奴に何もしてやれない。
そもそも、何かしてやれる等と思うことの方が、おこがましい。
僕はごみの入ったポリ袋を、きつく握り締めた。全ての人間にのしかかっている、人生という奴の苦みを噛み砕き、僕は――。
すると後方から、誰かが駆けてくる足音が聞こえた。
不審に思い、体を強張らせると、
「こ、小林ぃぃぃぃぃ!」
思わず振り向くと、そこには鈴木がいた。
――あいつ……どうして?
瞬時にそんな感想が浮かぶ。
すると奴は大声を出して、僕に何かを伝えようとした。
その声は、通り雨に打たれたかのように濡れ細っていた。
「小林ぃ! 俺、俺!」
「鈴木……」
何らかの感慨が、鈴木の中で運動していることは見て取れた。だけど、まさか……鈴木の中からそんな言葉が生まれてくるとは思わず……。
「俺、もう一度! 胸像を……。胸像を動かせるかなぁ?」
僕は瞬時に言葉の意味をくみ取ると、何かに打たれたようになった。
呼吸も忘れ、目を見開き、目の前の男を見る。
「すず……き」
奴は気恥ずかしそうな、泣きだしそうな……。
でも堪らなく嬉しそうな顔で僕を見ていた。
僕は知らず目頭が熱くなるのを感じ、必死でそれに耐える。
そして口を戦慄かせ、叫んだ。
「ば……か野郎……馬鹿野郎! 胸像が動かせるかだ? そんなの余裕に決まってるだろ! 僕たちはまだ二十代だぞ? 人生の脚本を書き直すなんて訳ない! それに、それにお前は有言実行の男じゃないか。お前が『やる』と言ったら、やるなんてことは誰だって……いや少なくとも僕だけは知ってる! だから!」
僕は激情にかられ、論理的な文法も失い、早口で一気にそこまでまくしたてると……頬を流れる熱いものを感じながら、こう言った。
「だから鈴木ぃ……また二人で面白いことしようぜ」
すると奴は、笑った。
あの日、夜の学校に忍び込んで馬鹿やってた頃と同じ顔で。
陰りなんか何処にも見えない顔で……。
鈴木は、嬉しそうに笑ったんだ。