6.こんにちは、赤ちゃん。わたしが主です。
うーん、序盤は思ったよりシリアス多めかも?
−ごめんなさい−
彼女はそう言った。
僕を貫く金色の剣。その目映いの輝きを伝って、僕の心臓と繋がっている彼女。
誰だっけ?眩しいくらいに真っ直ぐな眼差しの、とても美しく、脆い人だ。
僕は痛みには慣れてるし、僕にとってこんなの激痛には程遠い感覚。
それでも、この痛みが全てを終らさせるのだと、僕にははっきりと解った。
どうやら、始めから知っていたみたいだ。僕は驚かない。
彼女の話した異国の言葉の意味を、僕はまだ知らない。
だけど、どうにも自分には相応しくないことを言われた気がして、笑ってしまった。
彼女には僕の血がたくさん付いて、まるで僕みたいに、醜い。
なんて残念なことだろう、と思う。
生まれて初めて、僕は笑った。
僕は彼女に何かを言った。
口を開くと、最後の息。ひゅう、と何も吸ってないのに、何かが外側に吸い込まれていくこの感覚。瞼は閉じただろうか。もう暗闇なんかない。
この感覚は知ってるな。僕もいつか、そう感じたよ。
だから、彼女に言ったんだ。
なんて言ったのか。そう、何を言いたかったのか。僕には判らない……だって、僕は……ぼ……く、は、
がこんっ。
僕は思い切りテーブルに額を打ち付けました。
「…………いや、僕じゃなからね、これ」
頬杖が滑ったお陰で、僕は漸く白昼夢からの覚醒に成功したようです。
意識に広がる悪夢の霞を振り払うように、夢の中では言えなかった一言を呟きました。
頬っぺたを冷たい石に張り付けたまま、長く息を吸いこんで、ゆっくりと吐き出します。
呼吸なんて、もうしてもしなくても大差無い身体ではあるんですが、それでも何となく、自分の存在を確認出来るような気がしたので。
流石に疲れてたんでしょう。肉体的には睡眠なんか必要としないはずなのに、久しぶりに微睡んでしまいました。
夢にまでみた夢オチも、一瞬だけ期待しましたが、そりゃ現実ってそう甘かないですよね。
僕は、オパールみたいな輝く石で造られた豪華なテーブルに顔面を押し付け、昔ベルサイユ宮殿で座ったのと良く似た椅子に身体を預けています。
二、三百年前なら兎も角、現在日本で地味に暮らす僕にはこういう調度品は無縁です。
何より、目の前のお姫様みたいなベッドの上で、真っ赤な目をした逢坂先輩が僕を睨み付けているんですから。
現実を受け止めるしかないようです。
「……見たな」
整った鼻梁を歪ませて、逢坂先輩が苦々しく呟きます。
恨みのこもった低い声音に、思わず辟易の溜め息が漏れました。貞子さんなら間に合ってますって。
固い癖っ毛で通常は日本人に溶け込みやすい黒髪の、よく同族にびっくりされるほど平凡な容姿の僕とは対照的に、逢坂先輩は、色素の薄い柔らかな髪に彫りの深い顔立ちの、駅前で外人によく間違えられて道を聞かれるか、スカウトに遇うかするタイプの人間でした。
別に吸血鬼になったからって土台の容姿が変わることはないので、これは、なんというか、近頃流行っているタイプの模範的な吸血鬼が出来上がってしまったようです。
血の不足により、禁断症状で毒々しく光る瞳はおろか、貧血のせいで青紫に変色した唇さえ、世の女性を誘惑する武器となることでしょう。羨ましい。僕なんかただのプールに入りすぎた子供みたいになりますからね。自分で言うと虚しいですが。
眠れと命じていた筈ですが、今ちょっと僕の意識が曖昧になったからか、はたまた僕の優位性だけじゃ制御しきれないくらいに飢えているのか、先輩は既に上体を起こしてこちらを睨んでいます。
「……正当防衛です。僕だって死んだ時の記憶なんか一個あればたくさんですよ」
頭を支え起こしながら、僕は答えます。お陰で自分の記憶と先輩の記憶がごちゃ混ぜになった、最悪の夢を見てしまったじゃないですか。
先輩は憎々しい眼差しのまま、諦めたように深い溜め息を吐きました。
「……千早は無事か?ここは……」
「ここはアルディスキア教国、聖メイアディーチ大神殿、だそうですよ。千早さんなら一條先生と一緒に、巫女さんと神官長さんと神域の奥でお話し中です」
荒野に突然現れたエミューウールさんの魔法陣から空間魔法で運ばれた先は、これでもかって程に聖なる魔法で守られた広大な神殿都市でした。
僕らは到着するなり即行で真っ白くひらひらした如何にもな服に着替えさせられ、神威の間とかいう神殿の最深層に案内されそうになったんです。
ですが、扉から滲み出るそのあまりにおぞましい清らかさに、ちょっと命の危険を感じた僕は、狼さんの血で汚れてしまったとか適当な理由を並べ、奥に入ることを丁重に辞退させて頂きました。
千早さんと先生、聖なる場所でもへっちゃらな二人がこの異世界に呼ばれた理由についての理不尽な説明を受けている間、僕は客室で待機することに。因みに花子さんは嫌々ながら小瓶の中に戻りました。
それから聖癒搭という処刑場みたいな場所に運ばれそうになっていた先輩を、口八丁で自分の客室へ運び込ませ、有り得ない勘繰りをする神官たちの盗聴盗撮魔法を結界で遮断すると、流石の僕も疲労に押され、つい、うとうとと居眠りを初めてしまったというわけです。
「アルディスキア……アルガの神域か。やはりこの世界はイーサなのだな……」
大して驚くこともなく、先輩は僕の口にした言い慣れない固有名詞を受け入れました。
僕よりも遥かに順応した発音の言霊で独り言のように呟く声を、頬杖をついて僕は聞いています。
「懐かしいですか、逢坂先輩、いや、魔王陛下とでも御呼び致しましょうか?」
皮肉たっぷりに笑う僕を、先輩は赤く光る目でぎろりと睨みつけます。
「……地球の魔王が何を言う」
「地球にそんな面白い職業ありませんから」
たまたま長く存在して、魔力が飛び抜けて高くなってしまい、いつの間にか誰も逆らわなくなっていただけです。
……まぁ、たぶん、先輩にしても内情なんてそんなところでしょうけど。
他者を支配しようだなんてことに人生を懸けるなんて、人生なんて限られた時間枠に囚われた人間だからこそ成せる業です。
最高の食材(千早さん)ならともかく、同族達なんか支配したって何の得にもなりませんよ。
「それに僕達、どうやら今は“勇者さま”らしいですし」
詰まらないことに、この一言でも先輩は驚かず、眉間の皺を深くして頷きました。
「……だろうな。異世界人の召喚に他の目的もないだろう」
思い出せばわざとらしいほど歓迎ムードの神官さん達や、地球の文化を取り入れたとしか思えない内装の客室。
原動力は電気でもガスでもなく魔力でしたが、見事に現代日本スタイルなシャワー付き浴室まで完備され、洋式トイレはウォシュレットでした。
そしてベッド脇のサイドテーブルに置かれた日本語で書かれた「冒険の手引き&異世界マナーハンドブック」なる羊皮紙の綴られた小冊子。
壁に埋め込まれた本棚には、まだ言語の情報が少なすぎて言霊を読み込めない文字の連なりに、ちらほら見慣れた地球産の文字を見付けます。
日本語で書かれた「今日から使える!初心者の為のアルディスキア語会話集」なんて本が嫌でも目に入ってきますからね。
僕も薄々気が付いていますが、どうやらこのアルディスキアという国には、歴史的に異世界召喚が根付いているみたいです。
「201代目とか言ってましたよー。先輩、何代目の勇者に倒されちゃったんですか」
「知るか。千早がメイアディーチの狂信者どもに宛がわれた異世界人の勇者だったと知ったのも、生まれ変わった後だ」
やっぱり千早さんは、先輩の前世、つまりこの世界の魔王を倒した勇者だったようです。エミューウールさんと知り合いなのも、彼女がこの世界に精通しているのも、そういうことなんでしょう。
「千早さんに殺されて、わざわざ異世界で彼女のお兄ちゃんに生まれ変わるって……ねぇ。この世界の魂を管理する神様は相当悪趣味のようですね」
だいたい、他の世界から魔物殺しの為の人材を拉致る、なんてろくな世界じゃないですよね。
そんな世を仕切る神なんてたかが知れてると言うものです。
たとえ、それが先輩にとっては、最上に幸いな廻り合わせだったとしても。
「……絶対に、千早には言うな」
先輩の自分の立場を弁えない尊大な態度にちょっとイラッとしながらも、僕は本心のままに頷きました。
「勿論です。彼女を悲しませるのは本意じゃないですから。先輩の指図を受ける義理はありませんけど、僕だってそこまで悪趣味じゃないですよ」
「頼む……あいつは、チィは、俺の全てなんだ」
知ってますよ。そんなこと。
僕だって譲る気はないですけどね。
「さてと、じゃあ、先輩、千早さんの為にもちゃっちゃっと復活の仕上げをしちゃいましょうか」
僕はテーブルに水差しと共に備えてあったグラスを手に取り立ち上がります。ふっと存在を揺らめかしてベッドの縁へと瞬間移動し、先輩の座る脇に腰掛けます。
覗き込むように身を屈め、徐々に光の強くなっている、先輩の赤い目を見据えました。
「逢坂先輩……いえ、我が仔、逢坂久遠よ。今からちょっとお互いに覚悟を付けなきゃなりません」
何かを諦めたような先輩の深い吐息を、同意の返事と受け止め、僕は話を続けます。
自分の身体は、何よりも自分が良く理解する、そういうものです。先輩のような強い魂を持つ者なら尚更。
どんなに気が重くても、先輩の赤く切羽詰まった光の眼を見れば、僕は本性に植え付けられた御主人様モードを恥ずかしげもなく披露してしまいます。
「お前は、我が血に依って死の定めより甦りました。故にその血も、肉も、心も、魂も、我に依らなければ在らず、全ては我がものであり、我はお前の唯一絶対なる君主……なのは、分かってるんですけど、はぁ、嫌だなぁ……」
こういうのは下手に躊躇う方が逆に格好悪いとは分かってるんですがね。やっぱりね、生理的にね、野郎相手じゃね、萎えるんですよ。
途中からどんどん尻すぼみになる僕の言葉に、逢坂先輩が困惑ぎみに応じました。
「生き返ってしまった時から覚悟ならば出来ている。俺ももとは魔物だ。貴様のような血と魂を糧とする魔物の眷族になるというのが、どういうことなのかも解っているつもりだが」
「だから、お互いに、って言ったんですよ」
どっちかと言えば、僕の覚悟のほうが必要なんですよ。
掌で硝子の杯を弄びながら、僕は項垂れました。音が響くほど長く息を吐き、肺の空気を入れ替えます。
「今更ですし、堅苦しいのは割愛しますね……とにかく先輩、もう思い出していいですよ。今、身体はどんな感じですか?……どんな気分ですか?」
不意の問い掛けに、先輩は首を傾げます。
無自覚ながら言霊に強制され、僕の質問へ正直に答えさせられます。
「……?別に異常は……待て、身体が熱い……いや、寒い、のか?…なんだ、急に、これは……解らない………気が鎮まらない……っ……苦しい……どうすれば……」
先輩は突如襲われた吸血鬼の本能に混乱し、苦しげに頭を抱えます。無自覚に伸びていく爪と牙。
それでも理性を完全には失わず、己をここまで抑えているのには感心させられます。
「覚えてください。それが吸血鬼にとって唯一の欲望、餓え、です。今、急に感じたのは、忘れていろと先輩にかけていた命令を僕が解いたからです」
淡々と話す僕に、先輩は応えることも出来ずに呻きます。
「辛いでしょうから、返事はいいですよ。でも食事の前に知るべきことなんで、頑張って聞いてくださいねー」
本当は先輩の「教育」も最初の「食事」も、この世界で僕が食物にありつけた後にするつもりでしたが、この様子だと予定を早めたのは正解だったようです。
あと少しで、僕の制御すら効かなくなって暴走するところだったかもしれません。
「吸血鬼には二種類あります。一つはあらゆる怨念やら妄執やらが集まって生まれた吸血鬼。これは根っからの妖怪、純血とか源種とか呼ばれる者達ですね。そしてもう一つは吸血鬼が血の盟約によって人間の肉体から死を奪い取って作り出した吸血鬼、眷族です。コピーって呼ぶ奴もいますね。僕も先輩も後者に当たります」
僕は純血以上の力を持っているので、よく勘違いされますが、実は人間出身の眷族上がりなんですよね。
とはいえ僕自身には、もう人間だった頃の記憶なんて殆んどないですし、まぁ今際の部分なら多少残ってもいますが、もはや又聞きの他人ごとのほうがにまだ勝るくらいの実感のなさです。オリジナルの吸血鬼も既に滅んで久しいですし。
自分の存在が生まれた時=吸血鬼になった時って認識は、純血の吸血鬼とほぼ替わらない感覚を持っていると自負しています。
「ま、これは余談ですけど、地球には純血の吸血鬼ってもういないんですよー。僕を作ったオリジナルが最後の一人だったらしいです」
だからこそ今は僕が地球最強になってしまってるんですけど。
一條先生に吐いた嘘の根本を明かしながら、僕は新たな同胞に僕は努めて事務的に吸血鬼の有り様をレクチャーしていきます。
先輩は飢えの苦しみを紛らわすかのように、僕の言葉に耳を傾けていました。
「原則的に眷族は、オリジナル、先輩の場合は僕ですね、僕よりは幾分劣った能力値となります。また、肉体と魂の同化が完全になるまで、糧は全てオリジナルに依存します。その間は不死の呪いは完全ではありません」
ぺらぺらと説明しながら、僕は爪を尖らせて自分の手首に押し付けます。躊躇いのない太刀筋に溢れる血は傷口から溢れ雫となる瞬間に凍らせ、その黒い粒をグラスに受けとめていきます。
「あとは気付いてると思いますが、眷族は親であるオリジナルの命令には逆らえません。先輩は魂が規格外なんで、気張れば抗える部分もあるでしょうが、今のとこ本気で命じれば僕が勝つ筈です。どういうことを意味するかは、わかりますね?」
先輩は息を荒げ、身を喰うような餓えに耐えながらも、気丈に僕を睨み付けます。
その反抗的な仕草に、うっかり嗜虐心を刺激され、ついつい悪戯心が芽生えます。
僕は目に光を宿し、朗々と言霊を紡ぎます。
「逢坂久遠、千早さんの今日の付けてる下着の柄を僕に教えなさい!」
「誰がっ……っ、水色の、ストライプだ……」
「いや、なんで知ってんですか」
笑いながらも、僕は血を凍らせながらグラスに注ぐ作業を続けます。
すぐに傷口を塞いでしまう皮膚を常に爪先で抉っていなければならないので、地味に痛いですし、端から貧血状態の疲れた肉体には結構堪えます。少しくらいの悪ふざけくらい許して頂きたいものです。
「地球から、魔方陣に……引き込まれる、とき、ちぃが一番先だった、だろう……くそ、殺す……」
餓えにより息も絶え絶えで、虚しい言い訳する先輩にわざと冷たい視線を浴びせながら、そのノリで少し真面目な話に切り替えます。
「そ、今の先輩は、昔の威光には程遠くても、人間の一人や二人なら簡単に殺せますよ。脅しじゃなく、ね。例えば僕が、某を殺せ、なんて言ったら、先輩はどうするんでしょうね?」
「っ…………」
先輩が望まぬとも、その存在の継続と引き換えに僕に渡してしまったことの重大さ。漸く思い知ったのか、先輩はぐっと言葉を飲み込みます。
「はは、冗談ですよ。心配しなくても、僕にだって人間くらい幾人だって殺せますし、態々そんな下らないこと、先輩に頼んだりしませんから。殺したきゃ自分で殺りますよ。それが誰であろうとね」
たぶんそのうち、最悪に面倒臭い問題を運ぶであろうこの煩わしい主従関係は、今は僕にもどうしようもできません。
先輩に僕に抗う強い意思があるってことに満足して、取り敢えずは自分の良心を信じ誤魔化すしかないのです。
「それから、あんまり自身を過信しないでくださいね。先輩はまだ吸血鬼の雛、赤ちゃんみたいなものなんですから。完全なる存在ではないんです。だから、僕のように不死身ではありません。餓え続ければ肉体が腐りますし、怪我をすれば、……人間よりは遥かに丈夫で治癒力も高いですが、致命傷を負えば死にます。もう生き返れませんよ……そして」
僅かに漂う血の香りと、氷粒の硝子を叩く澄んだ音色に、先輩がゆっくりと顔を上げました。
「そして、成長段階にある吸血鬼は、人間の血では魂を充足させられません。しかし、魔物の血肉や霊魂の魂なんかを己の細胞へと還元させる力もまだありません。つまり……」
「……お前の血を飲むしかないわけか」
回りくどい僕の言葉を遮った先輩は、苛立つように眼を光らせ最後の一言を吐き捨てます。
「……ご明察。出来のいい息子で助かります」
僕は無理矢理な笑顔を顔に張り付け、半分程、血の氷粒が溜まったグラスを先輩の手に押し付けました。
「では最後、血を飲む時の注意点です。まず空気に触れさせないこと。僕らが血を飲むのは別に鉄分やらビタミンやらを補う為ではありません。この魔力の元、魂を補うんです。外界に触れて血が死ねば、そこに含まれた魂はすぐに逃げてしまいます。まぁ、とても飲めた味じゃないですけどね。首筋とか実ははあんまり意味はないんですよ。どっちかと言えば美学的なものですね。とにかく、血管から直接吸うのが大切です。勿論、死んだ生き物の血も絶対駄目ですよ。これは場合によっては毒のような作用すら生じますから、重々気を付けてくださいね」
「それで、フリーズドライというわけか……考えたな」
グラスに入ったトイレの芳香剤みたいな血の粒を眺め、先輩が呆れと感心の狭間みたいな呟きを漏らします。
「そりゃ、いくら先輩が自分の子供みたいな存在で、将来の義兄さんでも、男に肌を舐められる趣味はないですからね。味は落ちますが、自分で存在維持が出来るようになるまでは、これで我慢してください」
「有り得ない将来だが、確かにこれは賛成だな。俺もお前に噛み付くなど御免だ」
憎まれ口を叩いて、先輩はグラスの中身を一気に煽りました。
餓えに苛まれてる助けもあるでしょうが、前世で魔王だっただけはあり、血を飲むことに躊躇いは感じられません。
僕は自らの血がゴクゴクと先輩の喉を過ぎるタイミングを見計らい、魔力を切って溶かしてやります。
先輩は渋い顔で全てを飲み干しました。
放り捨てられた空のグラスが、派手な柄の絨毯の上で、僅かに残った血の欠片と共に転がります。
「……不味い」
「もう一杯!とか言っても今はもう無理ですからね。僕が干からびちゃいます」
そりゃぁ、魂の繋がりない吸血なんて飢えを癒す以外の意味も旨味もないですからね。千早さんの淹れたインスタントコーヒーの方が百万倍美味しいはずです。
それでも、滋養の高い僕の血で、先輩の顔色は見る見る改善されていきます。
まぁ、多少顔面蒼白なのは種族的な特性なのでもうどうしようもないですが、光っていた眼は、赤ワイン程度に暗い色に落ち着き、爪も牙も引っ込んでいきました。
「さすがは経験者、力の吸収はやっぱり上手ですね。低燃費そうで助かります」
「…………」
先輩は己の身体を確認するように見回しながら、その身を巡る魔力に戸惑いを感じているようです。懐かしさ、かもしれませんが。
「お疲れさまでした。これで先輩も立派な吸血鬼見習いです」
「……まさか、また化け物に生まれ変わるとはな」
パチパチと乾いた拍手で祝う僕に、自嘲ぎみに笑う先輩。
「こっちの世界の化け物事情はまだよく解りませんけど。地球じゃ化け物暮らしもまぁ、そんなに悪くないですよ」
「……そうか。ならこのイーサで根を上げぬよう、精々、頑張れよ」
既に魔物らしいニヒルな笑顔を習得……いや、これは元からですね、先輩らしいドSな微笑みでひと安心です。
「先輩、一応言っときますけど、くれぐれも本性は隠してくださいね。もし前世が魔王だとか、今、吸血鬼ですとかなんて神官さんとか巫女さん達に知れたら、たぶん文句なしで殺され……」
僕は話しがてら何気なく開いた「冒険の手引き&異世界マナーハンドブック(日本語版)」の中表紙を見て絶句しました。
冒険の手引き&異世界マナーハンドブック」
〜初めて世界を救うあなたへ〜
意訳・監修−逢坂千早−
略歴:異世界「地球」日本国東京都在住。アルガ歴1800年、第101代目勇者に選出される。歴代100人の勇者を屠り、不滅の魔王と恐れられた大魔王オウルの討伐に成功する(アルガ歴1810年)。以後、新たなる魔王が出現する度、アルガ神の託宣によって地球より降臨する。第101代〜200代(アルガ歴2010年)勇者を歴任。
役職:勇者。メイアディーチ聖大師。冒険者ギルド顧問。アルディスキア永久神民長。バルクス帝国名誉軍師。学生。
称号・資格:伝説の勇者。破魔の賢者。神剣の主。女神の愛子、他多数。 冒険者資格・金。魔術資格・戒位特級。英検一級。ワープロ検定二級。
おい、何やってんの。千早さん。
「……せんぱーい、たしか、先輩の前世の名前ってオウルさん、でしたよね?」
僕は呼び起こした先輩の記憶をなぞりながら確認します。
「そう呼ばれていたな。元々は不死者や魔物を意味する古語だから、名ではないが」
「……先輩がこの世界で死んでから、今は丁度二百年後だそうですよ」
言いながら、ハンドブックを投げ渡します。
訝しげにページを開いて、逢坂先輩は漸く驚愕の表情を見せてくれました。
「……千早、ワープロ検定なんていつの間に……パソコンなんて買ってないのに」
いやいや、マジボケするとこですか、ここ。驚くところ違うでしょ。
「……先輩倒すのに十年懸かってるじゃないですか。こっちとあっちの時間軸ってどうなってんですか、これ」
それでもって、この略歴が正しいならば、その後、千早さんは99人の魔王を倒してるわけです。いったい何十年異世界で暮らしてるんだ彼女は。
「最初の、俺を倒す為の召喚は中学卒業後の春休みだった筈だ。あの時は、俺の目の前で魔方陣に拐われて3日間帰ってこなかったからな。その後にも召喚が行われていたとは知らなかったが、あれ以降はちぃが家に帰らない日はなかったぞ」
十年が3日間、ですか。トリップファンタジーでは耳慣れた逆・浦島太郎現象とはいえ、想像に絶します。
本当に人間か、なんて心ない僕の問いに、寂しげに微笑んだ千早さんが瞼に浮かびます。
「……恐らく、先輩を倒しちゃったた後は、何回喚ばれても強くてニューゲーム状態だったんでしょうねぇ。地球の時間軸じゃ気付かれないくらいの短時間で帰ってこられたんでしょう」
三日で十年滞在できるなら、一日も一年も地球と変わらないって単純計算でも、地球時間の三分もあればこの世界で三泊四日くらいできることになります。
たとえば毎回三分で異世界旅行を終わらせていたのなら、結構千早さんの側にいたつもりの僕ですら気が付かなかったことも頷けます。
非常に気に入りませんが。
「気に食わんが、そういうことだろうな。……なにが勇者だ。メイアディーチに良いように利用されているとしか思えん」
パラパラと冊子を捲りながら、僕と同じ感想を述べる先輩に、同意の返事を返して僕は立ち上がりました。
「それでも今回に限っては、この世界の思うようにばかりはならないでしょうけどね」
なんたって、この世界の歴史的な魔王と、地球の現役魔王とが、手を組むんですから。
信頼関係とかは、まだまだお互い努力足らずが否めませんが。
取り敢えず、共通して守りたいものがあるのは都合の良いことですからね。
素直に勇者になんかなってやるもんですか。
「……とは言うものの、こんな清浄な場所だとさすがに分が悪いんですよねー。僕なんかこの神殿の奥に近寄れもしなかったし。暫くは人畜無害な地球人のフリで乗りきるしかないでしょうね。ほんと、大人しくしててくださいよ、先輩」
「……こっちの台詞だ。言った側から何故、窓から外に飛び立とうとしているんだ?地球人ならドアと階段を使え」
「へ?……あ、つい」
窓枠に足を掛けたまま、僕は我に返って踏みとどまります。
そういえば、ここ建物の最上階に近いみたいです。開け放たれた窓の向こうで輝く普通の太陽は、今は神殿の塔の影に隠れ、あの気味の悪い太陽だけが結界に薄くなった景色を彩っていました。なんか……大きくなった?……角度的なものでしょうか。
いつのまにか、身体が浮いていて、どうやら僕は窓から飛び出すつもりだったみたいです。……無意識の内に身体が食事への最短ルートを選択していたみたいです。
だって、お腹が空いてるんだもの。てへ。
冗談が通じない先輩は、お茶目なポーズの僕へ冷やかな視線を容赦なく突き刺します。
忍ぶに耐えぬ真面目なオーラに僕は、息と共にがっくりと肩を落としました。
「わ〜ってますよ。この鈴木次郎の人間の振りスキルを舐めめないでください。あの安倍晴明だって僕が吸血鬼って気付かなかったんですからね」
そりゃあ、僕だって相手の正体に全く気が付けませんでしたけどねっ。
無言で物凄いプレッシャーを与える、という高位魔特有の特技を思い出したかのごとくな先輩の視線が痛いです。
「………ああもう、冗談です。ちゃんと人間らしくしますから。そりゃ僕クラスになれば獲物くらい歩いてだって探せますよ。誰かさんのせいで貧血ふらふらですけど、ね!さ迷いますよ。このだだっ広い神殿をっ。幽鬼のごとく徘徊すりゃいいんでしょっ」
非難がましく呟き、僕はそのまま方向転換してふわふわ正しい扉の前に進みます。
僕は着地するなりドアノブを握りました。
金ピカの、竜とか巻き付いてる、これでもかっていうドアノブです。
なんというか、妖怪的には、成金趣味のこの内装には救われますけど。神聖で荘厳たる神殿の気配を見事相殺するような俗っぽさがあります。
「……それじゃ、ちょっと僕は食事してきますんで、いい仔にしていてくださいね」
食事、の意味を身をもって知った先輩は、僕の疲れに追い討ちをかけるような、真剣な眼をしてきやがります。
「おい、鈴木。もしもまた、千早の血を吸ったりしたら……」
またって、何ですか、またって。お陰様で、実はまだ一度も吸ってないですよ。成り行きで一滴舐めただけですから。
しかも、さっき散々先輩相手に説明したように、あれは一度空気に触れた、通常なら飲めやしない筈の一滴。それであの威力ですよ。冷静になって振り返れば非常にうすら寒い話です。
確かに飢えてはいますが、だからって禁断の果実に手を出すほど、僕はまだ自暴自棄にはなっていません。
「いいか、俺が眷族だろうがお前が主だろうが関係ない。俺はどんな手を使ってでも貴様を消す」
……いいんですよ。先輩は、先輩のままのほうが。いきなりね、絶対服従とか、逆にやりずらいですし。
どうせカッコウの養い親ですからね、僕なんか。眷族に脅迫だってされちゃいますよ、そりゃ。
だって千早さんが懸かれば、正直、この人、いやこの魔王、マジで何でもやっちゃいそうですし。
本来、手段とか選ぶような中途半端な暗黒じゃなかったですから、あの魂は。
でもね、そんな風に言われると、皮肉りたくなるのが鈴木くんの性というものです。
「じゃあ、御互いに安心ですね。僕だって、この僕を差し置いて、千早さんを襲おうなんて愚かな吸血鬼がいたら、自分の血を分けたコピーだろうが、どんなに尊く偉大な魂を持つ者だろうが、この世から消し去るつもりですから」
捨て台詞のように言い放って、僕は客室の豪華な扉を開きました。
何か言いたげな先輩の視線を背中に浴びながら。
扉の外には部屋に通された時と同じポジションで、護衛、いや、見張り役、かな?僧兵、という雰囲気のおっさんが二人突っ立っていました。
僕が遠慮なくバーンと開いた外開きの扉を、二人はぎょっとした顔で、慌てて、よろけながら避けます。
結界のせいで、部屋の中から扉を開ける気配は察知出来なかったんでしょう。何も結界なんて先生の専売特許じゃないですからね。
「あ、勇者様、どちら……へでもどうぞ、お出掛けください」
僕と目が合った二人は、一瞬で夢見心地な、ふざけた顔付きになります。
ふーん、一般的な兵士の魔力への耐性はこんなもんですか。拍子抜けです。
「勇者様、神殿は広いのでどうぞ、見取図です。お役立てください」
あんまり人間の精神操作は好きじゃないんですけど。
まぁ、要は、悪意があるかないかですよね。
未来永劫に二人を行方不明者にする、とかよりは、まだ幾らか勇者っぽい選択でしょう?
チャラチャラーン♪
「神殿の見取図」を手に入れた!
なんとなく心中で懐かしい効果音を鳴らしながら、僕は有り難く羊皮紙を受け取りました。
さてさて、目指すは手頃で可愛くて血の気が多い若い素人娘。
異世界だからって腹ペコだからって、食の好みを妥協するつもりはありません。
……果して異世界の神殿に、手頃で可愛いくて血の気が多い素人(一応、言っときますけど霊的な意味で)娘って、どれくらい居るですかねぇ?
……厳つい僧兵さんや、加齢臭のきつい神官さん達はもうかなりの人数を見ているんですが。
実はまだ、この世界の女子って、エミューウールさんしか会ってないんですけど。
…………いや、でも一人か二人くらい、居ますよねぇ?……メイドさんとか。召し使いさんとか。御祈りに来た町娘……とか。
懐かしいヨーロッパな空気ですし、なんか今のとこ中世っぽい雰囲気だし。
せっかく異世界まで来たんだから、僕だってちょっとくらい、良い思いしてもいいですよね……ね?
回収大変そうな伏線がいっぱいです。




