3.悪魔じゃなくて吸血鬼です。
そろそろ読了時間が一時間を超えてしまうのに、タイトルの三人目までしか出てきていない件。
逢坂先輩はまるで糸の切れた人形のように、術印に赤く光る地面に崩れ落ちました。
土に押し付けられ半開きになって、それでも美しい形を維持しているその口唇から、どろりと一筋の血が流れ伝います。
「なっ……」
一條先生も驚いて振り返り、呪文を止め、息を飲みました。
恐る恐るその場にしゃがんだ千早さんが、地面に寝転んだ先輩に触れます。
「ど、どうしたの、お兄ちゃん……え……え?……ねぇ……ねぇ、お兄ちゃん!?」
千早さんは先輩の肩を支え、その上半身を起こし上げました。
揺り起こそうとするかのように、乱暴に先輩を揺する彼女の腕の動きに合わせ、先輩はぐらりと向きを変えます。
壊れた人形のように先輩の首が、地面に寝たままの僕の方へ、在らぬ方向へと傾きます。
見開いたままの、光のない先輩の眼が、僕の赤く爛れた眼と合いました。
……これは、死んでいる、か。
「逢坂ぁっ!?くそっ、どうなってやがる!?」
叫びながら先生はぎりりと歯ぎしりをして、僕を睨み付けます。
「てっめぇ……」
ちょっと待て、濡れ衣だ。
だけど、その前に先生は自分の犯した大失敗に気付くべきでした。
集中が途切れ、中断しかけた半端な術では、もはや形振り構ってられないぜ、という僕の本能を止められることなど出来る筈がありません。
僕は、あっという間に呪縛を引き破り、五芒星は黒々ととぐろを巻く僕の力に飲み込まれてしまいました。
これは予測外の事態です。一気に形勢逆転です。
「しまっ……ぐっ…はぁ…っくそ!」
しかも、術が破られたことで、ダメージを受けたらしい先生は苦しげに呻いてその場に踞ります。たぶん、影を壊された時の僕と同んじような現象が起こってるんでしょう。
これは……本当に嫌な結末になりそうです。
「先生っ!……っ……鈴木くん……」
だけど、僕の様子も、少なからずおかしいのです。
てっきりまた、問答無用で欲望にまみれたあの頭の悪い獣に成り果てると思っていたのに。
僕の精神は何故か、酷く落ち着いているのです。
蝕むような餓えは相変わらずなのに、形振り構わず千早さんに襲いかかろうという衝動は、自分で制御できるくらいまで治まっていました。
驚異である筈の先生を抹殺することさえも、理性が確かに押し止めています。
実際は身体中から、どす黒い魔力を放出させ、虚ろな目をぎょろぎょろさせる、どこからどう見ても完全無欠で満身創痍の化け物なのですが。
それなのに、先程千早さんに食らい付いたあの狂気が嘘だったかのように、僕は今、非常に冷静なのです。
まるで、先輩の死が、僕に鈴木次郎を強制させているかのように。
あまり感じたことのない焦燥感が、僕以上に虚ろな眼の先輩を見るたびに増長していきます。
この感情は、さっき千早さんに噛み付くことを押しとどまったときにも、僕の理性を助けていました。
悲しみ……だと?
まさか、貴重な食糧である千早さんなら兎も角、ことあるごとに僕と千早さんの恋路を邪魔し、おまけに鬼のように人使いの荒い、ただ顔が美しいだけの人間が一人死んだだけですよ。それが何だというのです。
そんなことが、僕の心を騒がせ、挙げ句に吸血鬼の本能すらも抑え込む理由になってたまりますか。
だけど、僕の混乱する感情を無視し、ふらふらと吸い寄せられるように、僕の足は千早さんと先輩の死体に近寄っていきます。
「鈴木くん……」
来るな触るなと叫ぶなら、別に理性や感情なんか全部無視して、その血を吸い尽くしてやるのに。
何ですか、その目は。僕にどうしろっていうんですか。
場違いな回想で、消費者金融のチワワを思い出してしまった僕に、千早さんはその澄んだ瞳で真っ直ぐに僕を見詰めて言いました。一息ごとに涙が溢れ落ちます。
「鈴木くん……お兄ちゃんを助けて……なんでも、する…か…ら」
しゃっくり混じりのその言葉を、僕は今度はちゃんと爪が当たらないように気を付けながら、優しく封じ込めました。
「なんでもする、なんて。こんなお化け相手に、どうなっても知らないよ?千早さん」
どうあがいても人を安心させる笑顔なんて作れない顔の僕は、迷った末に悪戯っぽいウィンクをかましてみました。
何故か、涙も止めてきょとんとした顔を晒す千早さんを見悶えてる隙を突かれ、背後に満身に鞭打った先生の、渾身の一撃を食らってしまいます。
炎の球がボロボロのシャツに引導を下しました。
ただもう今更、肉体の損傷なんて僕にとっては何の意味も持ちません。
「でもちゃんと地味に痛いですから。嫌がらせなら後にしてくれますか、先生」
「ち……くしょう」
悔しげに吐き捨てる一條先生は動けないようですし、取り合えず無視して、僕は千早さんの腕に支えられた逢坂先輩に覆い被さるように顔を近付けます。
驚く彼女も今は無視です。もう時間がありませんから。
これは死に際、最悪は死に立てほやほやじゃなきゃ上手くいかないんです。
僕は、いや、吸血鬼なら、千早さんの願いを叶える方法を一つだけ知っています。
いいでしょう。なんだってやってやろうじゃないですか。
「……逢坂先輩の癖に、妹より早く死ぬなんて許しませんよ」
虚な先輩の目に、視線を合わせ、僕は呟きます。
僕がこれから成そうとすることに気が付いたか、一條先生の術を受けた時とはまた別質の、甘美ともとれる高揚とした血のざわめきが、身体中を駆け回ります。
いや、甘美とか言いましたが、変な意味じゃないですからね。
僕は、飽くまでノーマルな吸血鬼です。
本当に、ほんっっとぉぅぅう、に、不本意なんですよ、牡猿相手にこんなこと。
だけど、沸き上がるこの感覚。生まれて初めて感じるものですが、それはこの存在に組み込まれた摂理。初めて血を吸った時から僕は知っています。
記憶にはもうあやふやですが、恐らくは何千年も前に、僕に対してこの衝動を覚えた吸血鬼が、必ずいたんでしょうから。
「常しえに、我が血へと囚われよ」
僕は呪いの言葉を紡いで思い切り唇を噛み切り、己の血に濡れた牙を間髪入れずに、血の気の引いた先輩の首筋に穿ちました。
人間らしい柔かな血管がプツリと破ける感覚と、反射的にびくりと震える先輩の身体。
僕は先輩の顔が綺麗なのをいいことに、これは美女だと自分を騙そうとします。ですが、意外とごっつい胸板が嫌がおうにも僕の胸に当たってますからね。せめてこれが千早さんだったらと願っても、腹が立つほど似てないんですよ、この兄妹。
心中さまざまな文句を呟きながらも、久しぶりの吸血行為に、僕の細胞たちは上機嫌です。
さーやれー、いっき、いっき、などと、やんややんや騒ぎ立てております。
急かす本能を抑え、まずはひと飲み、僕は吸い出した先輩の血を飲み込みました。
やはり、もう殆ど生気が残ってないその血液は、酷く不味く、喉が焼けるようなえぐみを感じます。
ただ、血を待ち焦がれていた僕には、寧ろ好都合でした。
仲間内で語られる大概の失敗例は、夢中で吸い尽くして結局殺してしまったというものですから。
これが美味しかったら、僕も流石に自分を律せられなかったと思います。
本能が拒絶する死者の苦い血を無理やり少しずつ飲み込みながら、僕は牙から彼へと流れ込んだ自分の血を伝い、更に深く、細部まで、先輩の身体を探ります。……ちくしょう、なんかさっきから卑猥だな。僕の言い回し。
とにかく、血を媒体に僕の魂を先輩の血管中に巡らせ、まだその身体に残ってるはずの、彼の魂を探り出しているんです。
ほら、見ぃーつけた。
「がっ……」
僕の意識が先輩の核である魂に行き当たれば、無反応だった先輩の目は見開き、血の混じった息がその口から吹き出ます。
がたがたと先輩の身体が暴れだします。異物である僕の魂に拒絶の反応を示しているようです。
「お、お兄ちゃんっ……!」
身体が動いたことで、生き返ったと勘違いしたのか、それまで大人しくしていた千早さんが、僕を引き剥がそうとします。
やっぱり、人間の腕力と違いますよね、千早さん。
辛うじて、僕は先輩の首に食らい付たまま、必死にまだ駄目だ、と千早さんにテレパシーを送ります。昔、秋葉原で迷子になってた宇宙人にこの原理を教わっておいて良かったほんとに。
身体が生体現象を思い出しただけの状態を生と呼ぶならこのままでもいいですが、僕ら化け物の常識では、こういう有り様の人間を生き返ったとは言いません。ゾンビになったと言います。
「あ……ごめんなさい、つい」
なんとか我に返った千早さんの了承を得て、僕は更に深く牙を埋め込み、慎重に先輩の血を飲み下していきます。
さて、ここからが難しいんですよ。
飲み過ぎると今度こそほんとに死んでしまうし、だけど吸血し続けていなきゃ、僕の魂を先輩の身体に繋げておけません。
彼の身体中の血を僕の配下として造り替えるのです。
大した栄養にもならない死にかけの血を飲むばかりで、今まで積りに積もったダメージの回復すら望めないまま、全神経を集中させて、その気の遠くなるような作業を続けなければなりません。
しかも、あまり自分の魂を相手に込めすぎると、当然、僕の本体も危険になってきます。
−吸血鬼が血を吸った人間もまた、吸血鬼になる−
人間達の伝承は、まるでそれが自然現象みたいに軽く言ってくれますが、とんでもない。血を吸っただけで吸血鬼が増えるなら、地球はとっくに吸血鬼パラダイスですよ。
これはなる方も、する方も、命懸けの禁忌の作法です。
現存の吸血鬼では最長の年月を在る僕ですら、実は献属作りってこれが初めてなんだよねーって告白しても、吸血鬼なら別段誰も不思議には思わないでしょう。それくらいリスクの高い行為です。成功の保証なんてありません。
僕は先輩の苦い血を啜りながら、ゆっくりと魂の一部を更に濃く血に宿して流し込みました。
今にも身体を離れていきそうな希薄な先輩の魂を取り囲むようにして繋ぎ止めていきます。
「がぁ!!!」
僕の血が身体に浸透する度に、苦しげに逢坂先輩が暴れます。押さえつけるのも一苦労です。
「お兄ちゃん……頑張って」
千早さんの祈るような声が僕の耳を不快になぞります。
ああ、そうだ、頑張ってくださいよ、逢坂先輩。
頑張って、死を凌駕するというこの苦痛を共に未来永劫味わっていこうじゃないか。
可愛い僕らの千早さんの為に。
「うぅ……あ、が」
苦しむ先輩に構わず、僕はテキパキと先輩の血液を細胞を書き換えていきます。正確さ、スピードが命です。
一応学費くらいちゃんと払ってやろうと続けていた、ジャンクフード店でのバイトを思い出します。えー、プライスレスの笑顔はただ今販売を休止しております。
背中を引っ掛かれたり、火傷を抉られたり、押さえ込んだ手を噛みつかれたり、僕は散々な抵抗を乗り越え、漸く先輩の身体の骨の髄まで「僕」を染み渡らせたようです。
見事、先輩の動きを封じることに成功しました。
たぶんそろそろ意識も戻りかけているんでしょう。最後の砦となった先輩の魂から、強い反応を感じます。
そしてそれに呼応するように、僕の口腔に流れる血からは、死の苦味は勿論、血の臭味すら無くなっていきます。
先輩の血液が完全に自分の血へと変化した証でしょう。
さぁ、残るは魂だけです。
だだ、その魂が非常に問題児なのです。
実は、僕、この吸血の直後、先輩の魂にちょぴり触れちゃったときから、既に後悔の嵐の真っ只中に放り込まれているのです。
後戻りは出来ないから、ここまでは気合いと根性と現実逃避を駆使して頑張りましたけど。
先輩の魂は、やはり、というべきな代物でした。晴明の術で死んだって事実から推し量るべきだったんですよね。
だってあれ、邪悪な魂を浄化する術だったんですもの。
僕は恐怖に縮こまる自分の魂に鞭打って、先輩の強大な魂の取り込みに移ります。
それは人間とは思えない、否、人間とは認められない程、初めから既に十二分にドス黒く禍々しい、完璧なる邪悪な魂だったのです。
いや、魂の禍々しさとか邪悪さには定評があるこの僕ですら、まるで追随を許されない暗黒MAXな佇まいです。
まさかの格上発見、です。
魔物としての僕の本能が、この闇の塊みたいな存在に怖じ気づき、ばかなこと止めて平伏しちゃおうよー、もう逆にこの御方の下僕になっちゃおうよーと泣いて懇願してきます。……僕だって泣きたい。こんなの支配してどうしようって言うの。
っていうか、人間の身体によく収まりきったな、この魂が。
血を吸えば分かりますが、身体自体は何の変鉄もない、普通の人間のものでした。年齢すらも告知通りで、誕生から18年ほど経過した肉体で間違いありません。僕の力で容易に吸血鬼化できたのがその証拠です。人外の者の膨大な情報を書き換えるとしたらこうはいきません。
ただの人間だからこそ、先生の術に耐える術もなく、魂を攻撃されかけ、当て馬にされた肉体が死んでしまう、なんて事態に陥ってしまったんでしょうし。
僕は息継ぎをするように、一度牙を先輩から放します。引き抜かれた犬歯から血色の糸を垂らした僕が、同色に変わった先輩の眼に映ります。
まだ焦点まで定まらない生まれたての先輩の瞳孔で僕は、いつにも増して疲労に窶れた、我ながら痛々しい、とても情けない顔をしていました。
不安げに千早さんが、口許を拭っている僕を除き込みます。
「……鈴木くん、お兄ちゃんは……」
もう、いったい何者なんですか君達兄妹は。だいたい、千早さんはいつもこの僕を差し置いて、お兄ちゃん、お兄ちゃんって……こんなん、どう見てもお兄ちゃんじゃないでしょ。百歩譲ってお兄ちゃんだとしても、お兄ちゃん、魔王ですから!
「感謝してくださいよ、先輩。漸く肉体が貴方に相応な物になったでしょう?」
僕は千早さんの声には応えず、まだ予断の許さない生まれたての吸血鬼を見下ろしました。
「……このまま、魂ごと溺れてしまえ」
慎重に、とかもう言ってる余裕のない僕は、再び寸部違わぬ位置に噛み付いて、半ばやけくその境地で先輩の魂へと自分の意思の触手を送ります。
だってこのまま、魂だけ独立させた状態で先輩を放り出したりしたら、僕以上に何を仕出かすかわかりませんよ。
今はもう、先輩の身体は無力な人間のそれではなく、劣化verとは言え、この吸血鬼の王から生みだされた、歴とした化け物、吸血鬼なんですから。
「……くぅっ」
勿論、一筋縄にはいきません。
背筋に嫌な汗を感じながら、思わず離れそうになる牙を必死で食い止めました。
圧倒的な魂の力差を感じながらも、僕は彼の肉体が絶対的配下にあることだけを武器に、少しずつ先輩の魂を吸収していきます。
自分より格上の魂を支配するなんて、たぶん吸血鬼史上、僕が初の挑戦者であることでしょう。
ただ、血を吸った時と違い、流石は極上に邪悪な魂です。ほんの少し取り込んだだけでも、体中に力がみなぎってくるのが解ります。
僕へと魂を蕩けさせた人間の血でさえ、ここまで滋養があるものには滅多に出逢えません。
千早さんの一滴も凄まじかったのですが、身体を満たす替わりに餓えをも促進させた彼女の血液とは違い、先輩の魂を食した後には満ち足りた充足感しか残らないのも魅力的です。
だけどこのままでは、ちゃんと僕の魂が先輩を支配する前に、お腹一杯になってしまいそうです。
それに、なにやらさっきから、僕が吸い込むより何倍も多く、先輩のほうが僕の魂を取り込んでしまってるような気がします。
……あれ、もしかして、食われてるのって僕の方?
じょ……冗談じゃないっ。
僕は慌てて牙を離そうとします。
ですが、突然呪縛を破って動いた先輩の腕に、僕は羽交い締めにされてしまいます。逆に僕が押し倒される格好です。
肉体の方は支配したんじゃなかったのかって?
いやいや、低位の魂の者が、高位の魂に絶対、なんて言葉使っちゃいけませんよね。
人間とは思えぬ、って人間じゃないのか、吸血鬼らしい頭蓋骨なんか潰しそうな握力で、僕の頭を無理やり己の首に押し付けます。
牙を抜いて逃げられないように。
「ぁ……がっ……ぐ」
今度が僕が、苦痛に呻く番です。
先輩の肌と繋がった牙から、僕の魂がどんどんその身体に流れていきます。
僕だって対抗してその血を吸うのですが、既に吸血鬼として、出血などは直接生死に関わらなくなってしまった存在である先輩には、これは大した意味を持ちません。
先輩の身体に僕の魂が満ち、反対に虚に近くなる僕の存在を、先輩の魂が蹂躙していきます。
食い尽くされる……!
僕は生まれて初めて味わう被食者側の恐怖に、がむしゃらに抵抗します。
存在への執着なんて、とっくの昔に忘れました。
誇りを失うのなら、無様な姿態を晒すなら、僕は喜んで破滅を受け入れます。さっきだってそのつもりだったのに。
なのに、これは、これだけは、絶対に嫌です。
……どうしよう。恐ろしくて堪らない。
「……ぅぐ」
僕は必死に押さえつける腕を引き剥がそうと藻掻きながら、すがるような目で、先輩の腕の間から見える千早さんに視線を送ります。
テレパシー?そんなふざけた余裕は欠片もないです。それに今、自分が何を彼女に求めているかもよく分かりません。
まさか、助けて、なんて泣き付くつもりなんでしょうか。この僕が。
「お兄ちゃんっ!駄目っ!鈴木くんが壊れちゃう!!」
結果的に千早さんは僕を助けてくれました。
先輩の魂は、千早さんの声に面白いくらいに反応して狼狽えたのです。
吸い込まれた僕の魂が、その支配を破り、自由に動き回れる程に。
瞬時に僕は先輩の魂の、最深部へと潜り込みます。
この隙が最後のチャンスのような気がしました。
先輩の魂の内部は、想像以上に暗く深い深海のようなものでした。その中を淡く光る天文学的な数字の、先輩の記憶らしき瞬きが揺らめいては消えます。
僕の記憶も確かに膨大なものですが、先輩の記憶もそれに遅れをとりません。
取り合えずたった十八年でこれだけの経験を積むことは物理的に不可能です。
転生、てやつでしょうか。人間の魂って使い回しらしいですし。ただ通常、記憶は出生の度に洗われるはずなんですけどねぇ。……ってそんな悠長な推理を繰り広げてる暇はありません。
僕の目的とするものは、一つです。
先輩の魂の核を守るもの。
それは彼の存在意義、最も大切な記憶を意味します。
それを手にすることさえできれば、この絶望的な戦いの逆転勝利も可能となりましょう。
そして、恐らく僕は、その答えを知っています。
いや、逢坂先輩の弱み、否、大切なもの、なんて、他には考えられませんからね。
−ちぃ……逢坂千早!−
僕は僅かに吸収てあった先輩の魂を使い、その名を掲げます。
すぐに濁流のように押し寄せる、先輩の記憶。
僕は支配権を逃がさない為、その全てを受け入れなければなりません。
只でさえ常にオーバーヒート状態の僕の記憶野に莫大な負荷が掛かります。これが千早さん関係じゃなきゃ、投げ出していたかもしれません。
吸い損ねの痣が首筋に浮かぶ、ついさっきの千早さんから、今朝の寝起きの千早さん、その前の日、春、高校一年生、中学生時代、小学校、なにあの天使!……あ、失礼。
編集の下手な走馬灯みたいに脈絡ない場面が、それでも時系列は崩さずに順序だてて逆流していきます。さながら近頃流行りの盗撮狂のストーカーという犯罪者にでもなった心持ちです。……幼女、赤子、その前……という具合に。
え、その前………?
見るんじゃなかったと後悔する暇もなく、僕の魂へ、延々と「その前」の記憶が垂れ流れています。
……見なかったことに、は出来ないか。
これは、どうやら千早さんの秘密にも深く関わっているみたいでしたから。
ただ、何よりもまず、今はこの捕食者から逃れ、あわよくば支配することが最優先事項です。
流れきった先輩の中の逢坂千早という存在を、僕は努めて冷静に受け止めて、その深層に潜む、先輩の魂の核を捕まえました。
あとは、強迫するだけです。
この大切な記憶を汚されたくなくば、逢坂千早の名の元、我に永劫の忠誠を誓え、と。
千早さんの名前は覿面でした。
あれほど僕を食い散らかしていた漆黒の闇は、驚くほど柔かくなり、先輩から抵抗の意志が消滅します。
きゃー助けてーと悲鳴を上げながら僕の魂が続々と僕の存在へと戻っていきました。
僕は先輩の魂の真核へ、所有物の証である楔を、漸く打ち込むことが出来ました。
僕がお前の親であり、絶対的な君主であると。
はい?僕のほうが格下ですけど何か?
……例えるならカッコウを育てるコマドリの気分ですよ。
しかし、素直になった先輩は、了承を示すかのように、僕にその魂を包む膨大なる闇を預け……いや、要りませんよっ。重すぎですよ!それは。
僕の魂の中で暴れていた先輩の魂の欠片も俄に大人しくなりました。
よし、取り合えず最初の命令は、離せ、ですね。
声にするまでもなく、僕の強い意思に反応して、先輩の腕が解けます。漸く牙を抜くことが出来ました。
別に操っちゃいないですが、操り人形のようなぎこちない動作で、先輩は僕から離れ、その場にふらりと起立します。
僕はくらくらする頭を押さえ、なんとか上体を起こしました。
そんな僕を感情なく見下ろしている、逢坂先輩を見上げます。
無意識ながら赤く染まって爛々と光る目は、この世界に並ぶ二つの太陽の、見慣れない方の輝きに良く似ています。
ただ、その眼はもう死んではいません。意識さえはっきりすれば、いつもの先輩に戻るはずです。
一応、成功ってことでいいですかね。これ。
僕も立ち上がって先輩へと腕を伸ばします。彼の目蓋を片手で覆い、低く言霊を込めて呟きました。
「……眠れ。足りない血の餓えも忘れるほど」
吸血鬼の眼が赤く光るのは飢えている証拠です。
あれだけ僕が吸ったのだから当然といえば当然です。作法通りにするなら、まずは餌付けをしてやんなきゃならないんですが、今は先輩を潤すほどの血を渡す余裕が僕の体にもありません。
先輩のお陰で力こそ回復しましたが、貧血はこの生まれたての吸血鬼と負けず劣らずです。
暫く眠っていてもらいましょう。
それにこんなとっちらかった現状を目の当たりにして、自暴自棄なっても大変です。世界を滅ぼす!とか言い出しかねませんからね、この御方は。
逢坂先輩は僕の指示に文句も言うこともなく従い、どさりとその身体を倒しました。
先輩の顔面が固い岩土にぶつかる前に、千早さんが受け止めます。
「お兄ちゃん……!鈴木くん、お兄ちゃんは、もう大丈夫なの?」
大丈夫、という状態が、どういう有り様なのか段々解らなくなってきている僕は、曖昧な笑みで答えます。
「少なくとも、今度はちょっとやそっとじゃ死にやしませんよ」
僕の言葉を聞きながら、先輩の規則正しく波打つ胸を見ている千早さんは、安堵の吐息を漏らします。
「よかった……」
「っ……この大虚け者がっ!」
賢くも大人しく、ことの成り行きを見守っていた、いや見守るしかなかった一條先生が、千早さんへと恫喝の言葉を吐き捨てます。
千早さんは、動じることもなく、悲しげな瞳を先生へと向けました。
「ごめんなさい、一條先生……でも、わたし、どうしてもお兄ちゃんに死んで欲しくなかった」
自分の望んだことの罪深さを、その代償も、千早さんはちゃんと理解しています。
でなければ、たとえ彼女の願いだからって、僕が人間の頼みなんて聞いてやるはずないじゃないですか。
「分かってんのか、逢坂妹、てめぇは、自分と自分の兄を、この悪魔に売り飛ばしたんだぞ」
悪魔じゃないですよ僕。たまにスカウトされますが、ちゃんと毎回丁重にお断りしてますもん。
だけど、千早さんは一條先生の言葉に静かに頷きました。だから悪魔じゃないって。僕、吸血鬼ですから。
「偉そうなこと言ってますけど、一條先生?元はといえば、術に失敗して逢坂先輩を巻き込んで殺しちゃった先生が一番悪いんですからねー。僕だってあそこまで追い詰めておいて、まさか取り逃がします?ちゃんと反省してくださいよー」
僕が嫌みたっぷりにそう言えば、先生はぐっと言葉を詰まらせます。
「なっ……俺は失敗など」
「せ、い、め、い、せ、ん、せ、い?」
老練なる先生ならば、口にするべきじゃない真実、というものを汲み取ることも容易でしょう。僕の笑顔の圧力に、先生は渋々口を噤みます。
流石に先生だって逢坂先輩がただ者ではないことには気付いているでしょうが、千早さんが気付いてない以上、勝手に明かされるわけにはいきません。
先輩の記憶を図らずとも覗いてしまった僕から見ても、彼女が兄の真実を知るのはまだ時期尚早だと判じるからです。
一條先生には、別の真実を突き付けることで、この場は納めてもらいましょう。
「千早さん、取り合えず一條先生を魔法で回復してあげたらどうですか。あんな強がってますけど、呪詛返しでまだかなりしんどいはずですから」
「え……あ……そ、そうだね」
先輩は僕に任せてと、不本意ながら膝枕を交代します。まったく、気持ちよさそうに寝てますね。羨ましい。
「は……?ま……魔法?」
鳩が豆鉄砲くらったような顔をしたおっさんが、駆け寄ってきた千早さんを呆然と見上げます。
「失礼します。先生、少しじっとしてて下さいね」
一條先生の正面に膝をついた千早さんは、額あたりにその手を翳します。直ぐに掌からピンク色の光が放たれ、複雑な西洋風の魔法陣を形作っていきます。
動くななんて言われるまでもなく、まともに動ける状態ではない先生は、尻餅を着いたまま、柄にもなく声を裏返します。
「ま、待て。待ってくれ。魔法って何だ!?間に合ってる!そういうのは自分で出来る!おい、こら、さっき見せただろがっ」
必死な先生に、千早さんは、聖女の微笑みで応えます。
「はい。凄かったです。怪我が跡形もなく、時間の逆行、でしょうか……先生の術みたいに完全に傷やダメージを消すことは、わたしの魔法では無理ですが、せめてもの恩返しです。リフレクションは自然治癒力が飛躍的に上がるので凄く楽になるはずですよ」
「りふ……?いや無理ならやらんでも……って、ひっ……!ちょっ……ま……いぎゃー!!!」
うん、ファンタジー的な技を極めた人間にとって、自分の預かり知らない理から生まれたファンタジーって、なまじ奇跡の原理を知る分、得体の知れなさも倍増ですもんね。むちゃくちゃ怖いんですよねー。
僕もさっき経験したからよく分かります。
「女神よ、その慈悲の片鱗をここへ……リフレクション!」
陰陽師もびっくりの堂々とした発声で呪文を叫ぶと、千早さんの指先に創られた丸い紋様が弾け飛びました。
きらきらとしたピンクの羽根を象った清く聖なる力が、まるで祝・ご来場十万名様突破記念〜とばかりに盛大な勢いで、一條先生へと降り注ぎます。
……あれを受けるはずだったんですね、僕も。今更だけどあんな死に方はやだな。
「…………ちくしょ、なんだこれ、ほんとに回復しやがる」
敗北感たっぷりの一條先生の呟きがピンク色の嵐に巻かれ、痛々しく響きました。
「どうですかー、先生、少しは元気がでましたか」
自分でけしかけておいて多少同情が滲んでしまった僕の声に、一條先生の恨みがましい視線が刺さります。
しかし、取り合えず退魔師が妖魔に対するような剥き出しの敵意は、引き出しにしまうことにしてくれたようです。
「あー……まぁ、あれだな、いろいろ話し合う必要があるみてぇだな、俺たち」
「……ですよね」
僕の細やかな復讐によって、体力が回復した一條先生は、精神的に少しげっそりしながらも言い、僕も心から同意します。たたたと小走りで僕の隣に戻ってきた千早さんは、何故かその場に正座しました。
うーん、僕が怖くないのか。そんなに、お兄ちゃんの傍に居たいのですかね。
一條先生も胡座を組み、どかりと座り直しました。
僕は先輩を膝枕したままなので、そのままの体勢です。
照り返す日差しの中、周囲を獣の死体に囲まれて、おっさんと、格闘マンガみたいに都合良く上半身だけビラビラな僕と、見るからに優等生な女子高校生が座り込んでいます。そして僕の膝枕では絶世の美青年が青白い顔で死んだように爆睡しています。
かなりシュールな光景でした。
暫く重苦しい沈黙が流れます。
口火を切ったのは、流石は見た目の一番年長者、一條先生でした。
「……あー、鈴木、お前日差しとか平気なのか?」
いやいや、今まで散々この直射日光の下でひとを拘束していた癖に何言ってんですか。
何だか数年来まともに口を利いてなかった父親のような会話の糸口に、僕も吊られてぎこちなく答えます。
「え、あ、お気遣いなく。でも、暑いですよね、千早さん、大丈夫?」
力が戻ったお陰で制御が利くようになった僕の身体は、牙も引っ込み、目の中に溜まる熱も冷え、鏡がないので不備があるかもしれませんが、かなりの確率で鈴木次郎に戻ったと思います。
何となく気恥ずかしい感じの僕の気遣いに、千早さんも顔を赤らめます。
「あ……わたし、今、魔法で皮膚強化と体温調節してるから。あ、先生にも効果をつけたんですが、ちゃんと効いてますか?」
まさかのサポート効果付き!思わず吹き出す僕をじと目で睨みながら、一條先生が引きつった顔で笑います。
「……微妙に背筋が寒いのはそのせいか。……鈴木もやってもらっちゃどうだ?」
「あ、そうですね、鈴木くんとお兄ちゃんにも……」
いや、もうこの章に死亡フラグは要らないでしょ!?流石にくどいよって言われるから!
「結構です!!僕たち人間と身体の作り違うんで!!!」
思わぬとばっちりで再びなびきかけたドクロの旗を、僕は派手に首を振って追い返しました。
ただ、うっかり地雷は踏みきってしまったようで、千早さんの瞳が潤みます。
「そっか、お兄ちゃんも、もう人間じゃないんだね……」
「あ……うん、ごめんね、なんか僕が勝手に」
「ううん、そんなことないよ。鈴木くんはお兄ちゃん、助けようとしてくれたんだもの……」
「助けられた、ってたぶん、先輩は思えないだろうけど……」
「……」
しーん。
なんとも微妙な空気が流れております。
「てか、このままだと血の臭いに誘われて化けもんの親玉が……的なあれになっか」
「あ……それ、有り得ますね」
嫌な沈黙から逃げるように先生は掌を組みます。律儀に攻撃じゃねぇぞと断りをいれ、何やらまた呪文を唱え出しました。たぶん結界でも張るつもりでしょう。
おずおずと千早さんの魔法陣が周囲の浄化、つまり、あたりの狼さん達を超高温で火葬し初めます。
え、僕も何かしなきゃときょろきょろ辺りを見回しました。僕にも実用的な能力がなかったか思い返します。
さてどうしよう。独りで霧になっても意味不明だし、蝙蝠出しても煩いだけだし、千早さんを手伝おうにも、僕、火系統の魔法ってちょっと苦手なんですよね。
うわ、思い返すと、僕って人の役に立たない能力ばっかり持ってる気が……。いや、まて。魔物に人の役に立つ必要は全くないんですから当然です。
唯一、今まで一番日常的に役に立っていた影は、千早さんに斬られてから、もうとっくに修復できた筈なのに、あれから僕の呼び掛けにうんともすんとも答えないのです。完全に引きこもり状態です。ストライキ中らしいです。
僕は無力感に耐えられず、空を仰ぎます。こんなんで無事にこの異世界でやっていけるんでしょうか。
僕なんか地球でちょっと一番強かっただけの、井の中の蛙です。もう既に格上の存在を見つけてしまったし。狼にだって普通に食われかけたし。安倍晴明なんて居るし。
頭上ではまるで僕を馬鹿にしたように二つの太陽が、爛々と輝いています。
「ふぅ……」
半分くらい狼さんの死骸を灰と帰した千早さんが、不快そうに額の汗を拭います。
その姿に僕ははっとして、役に立つことを思い付きました。
そうだ、この暑苦しい太陽を隠してしまいましょう。
僕は、目を閉じて大気の流れと意思を探ります。……うん、地球とあんまり変わりません……いけます。
僕は、ニヤリと笑うと片手を空に翳します。それから手招き。
異世界なので何となく言霊だけだと心許ない気がしますので。
『乱雲よ黒き風を伝い此処へきやれ』
意思を発現するだけなので別に何語でもいいんですが、日本語は恥ずかしい、と今更ながら気が付いたので今回は古代ヘブライ語にしてみました。
この言葉を話すまだ人が多い時期には、けっこう流行ってたんですよね。嵐で聖人をからかうの。
よっしゃ、成功です。カモーンのポーズの僕に応じて、地平線の彼方から一気に黒い雲が迫ってきます。
ごうごうと嵐の直前のように厚い雲で覆わせて、ついでに少し冷たい風を辺りに纏わせます。
すっかり太陽は見えなくなります。これで何とも落ち着かった二個の太陽も気になりません。
たちまち暗くなる空を、先生と千早さんが呆れ顔で見上げました。
「鈴木くん……」
「鈴木ぃ……てめぇ、そりゃ反則だろ」
あれ、若干二人とも引き気味です。
「えと……大丈夫、雨は降らせませんよー。涼しくて気持ち良くないですか?」
荒野の真ん中、半裸で先輩を膝枕したまま嵐を呼ぶ僕。
……そりゃドン引きされても何の文句も言えないですけどね。
そうこうする間に、先生の結界も無事に完成し、千早さんの作業も落ち着いたようです。
312匹の狼さんなんて、え、そんなの最初からいた?状態です。
死骸や血はおろか、残留する魔物独自の嫌な気配すら、きれいさっぱり消えています。僕が凍らせた一体すらもうないんですから大したものです。
先生の結界だって、こんな複雑なの、僕にだって壊せないですよ。
攻撃じゃないと言っておきながら、これ、内側からも逃げられない造りですよね。上手いこと狭いところに閉じ込められた感じです。
「……ていうか、千早さんと先生も充分もの凄いですって……一応、人間でしょう、貴方達」
僕も負けじと引いてみます。吸血鬼に引かれる人間なんて、そうそう居ないですよ。僕今までに人間相手にドン引きしたのなんて、イカロスとメイドカフェと逢坂先輩のシスコンっぷりくらいでしたよ。
それが、今やもう、逢坂先輩の大魔王な魂やら、千早さんの容赦ない魔法剣士っぷりやら、一條先生は安倍晴明です、だとか……引く手あまたじゃないですか。
ね、別に僕一人が滅茶苦茶な訳ではないと思います。
……えぇ。そうですとも。
完全にこれ、存在が反則な人たちの集まりじゃないですか。
うん。冒険までの道のりが長すぎる(笑)




