この世界、ゲームよりずっと危ないんじゃない?
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから聞こえたマリナの声で、レティシアは目を覚ました。
「起きていますわ。入ってください」
「失礼いたします」
マリナが部屋へ入り、カーテンを開ける。朝の光が差し込み、レティシアは眩しそうに目を細めながら、ゆっくり身体を起こした。
「おはようございます、お嬢様。今日は家庭教師の先生がいらっしゃいますね」
「ええ、楽しみにしていますわ」
今日からクラリス・ウェルズという家庭教師が来ることになっている。レティシアが父に頼み、これまでより広い範囲の学問を教えてもらうことになったのだ。
特に知りたいのは、この国がどんな仕組みで成り立っているのかだった。
貨幣の価値や税、商人の立場、農業、貴族の領地経営、国同士の交易。前世では高校を辞めたあと工場で働いていたため、そういったことを専門的に学んだ経験はない。
それでも現代日本で生活していた知識はあるし、この世界との違いを知れば何かに役立つかもしれない。前世の知識が使えるとしても、この世界の仕組みを知らないままでは、かえって失敗する可能性もあった。
(何かやるにしても、まずはこの世界のことを知らないとね)
「お嬢様、腕を上げてください」
「はーい」
マリナに手伝ってもらいながら着替えを済ませ、最後に髪を整えてもらう。鏡越しに髪型を確認していると、マリナが満足そうに頷いた。
「できました。そろそろ朝食のお時間です」
「ありがとう。行きましょう」
食堂へ向かうと、すでに父のヴィクトルと母のエレノアが席についていた。
「おはようございます、お父様、お母様」
「おはよう、レティシア」
「おはよう」
レティシアも席につき、朝食が始まった。
しばらくすると、ヴィクトルが娘へ目を向ける。
「今日からクラリス先生の授業だったな」
「はい」
「勉強したいと言われた時にも驚いたが、まさか領地のことや商売の仕組みまで知りたいと言い出すとは思わなかった」
ヴィクトルが少し困ったように笑う。七歳の娘からそんなことを学びたいと言われれば、そういう反応になるのも当然だろう。
「知っておいて損はありませんでしょう?」
「それはそうなのだがな。お前の口から出るとは思っていなかったからな」
「学びたいという気持ちは良いことです。ただし、礼儀作法の勉強を疎かにしてはいけませんよ」
「もちろんです、お母様」
レティシアが素直に頷いた時、食堂の扉が開いた。
屋敷の執事が入ってくる。普段と変わらない落ち着いた様子だったが、いつもより少しだけ歩く速度が速い。
「旦那様、ご報告がございます」
ヴィクトルが手を止めた。
「どうした?」
「昨晩、領内の村の近くで白殻が確認されました」
それまで穏やかだったヴィクトルの表情が変わる。
「白殻が? 数は?」
「確認されているのは二体でございます」
「二体か。念のため騎士を向かわせろ。周辺に他の個体がいないかも確認させるんだ」
「承知いたしました」
執事が一礼して退出する。
(白殻……ゲームの雑魚敵だ。やっぱりこの世界にもいるんだわ)
前世で遊んでいた乙女RPGにも登場していた、白い人型の魔物だ。
ゲームでは序盤から現れる、ごく普通の敵だった。
『白殻 Lv.3』
『白殻 Lv.15』
場所や物語の進行によってレベルは違ったが、終盤まで何度も登場する。特別な敵という印象はなく、冒険を続けていれば何度も倒すことになる魔物だった。
それなのに、父は二体しか確認されていない白殻に騎士を向かわせ、周辺まで調べさせようとしている。
レティシアはヴィクトルの横顔をちらりと見た。
(そこまで警戒する必要があるのかしら?)
ゲームで知っている白殻と、この世界で認識されている白殻には、何か違いがあるのかもしれない。
しばらくして、家庭教師が屋敷へ到着した。
授業用の部屋で待っていると、一人の女性が入ってくる。三十代半ばほどに見え、落ち着いた雰囲気と隙のない立ち姿が印象的だった。
「初めまして、レティシア様。クラリス・ウェルズと申します。本日より学問を担当させていただきます」
ウェルズ子爵家出身で、学問、歴史、政治、一般教養を幅広く教えてきた女性だと聞いている。レティシアが知りたがっていた領地経営や商売についても、ある程度詳しいらしい。
「レティシア・ローレンです。よろしくお願いいたします、クラリス先生」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。それでは早速始めましょう」
クラリスが教材を開こうとしたところで、レティシアは今朝の出来事を思い出した。
「先生、その前に一つお聞きしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「白殻とは何なのですか?」
クラリスの手が止まる。
「白殻、ですか?」
「今朝、領内に二体現れたと聞きました。家族の反応を見る限り、普通の魔物とは少し違うように感じたのです」
クラリスは少し考えると、開きかけていた教材を閉じた。
「分かりました。では、今日は白殻について話しましょう」
「お願いします」
レティシアも姿勢を正した。
「白殻は、白い身体を持つ人型の魔物です。一体から数体程度で現れた場合は、それほど危険な存在ではありません。騎士や冒険者でも討伐できます」
そこまではゲームの知識と同じだった。
「では、二体ならそれほど問題ではないのですね?」
「二体だけなら問題ありません。ただ、白殻が恐れられているのは、一度に現れる数が一定ではないからです。数十、数百という規模で確認された記録も残っています」
レティシアは少し納得した。
雑魚敵でも、それだけ集まれば話は違う。ゲームなら一度にまとめて倒せるような場面でも、現実では人間は疲れるし、負傷もする。近くに村や町があれば、そこに暮らす人々も巻き込まれる。
クラリスは一度言葉を切り、レティシアの様子を見てから話を続けた。
「そして二十年前、『エルグラン白殻大災害』と呼ばれる出来事が起きました」
「エルグラン白殻大災害?」
「はい。北に存在していたエルグラン王国に白殻の大群が現れ、国そのものが滅亡した事件です」
レティシアは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……国が滅びたのですか?」
「エルグラン王国は人口およそ九百万人。当時、この周辺では最大級の国家でした。それほどの国が、白殻の侵入からおよそ三か月で滅びています」
レティシアは思わず息を止めた。
人口九百万人。グラディス王国よりはるかに大きな国が、たった三か月で消えている。
頭の中に浮かぶのは、ゲームで何度も倒した白い人型の敵だった。序盤で経験値を稼ぐために何度も戦ったような相手と、今聞いた話がどうしても結びつかない。
「国外へ逃れることができた者は、およそ百万人程度とされています。残された人々がどうなったのか、正確なことは現在でも分かっていません」
「……白殻は、それほど強いのですか?」
レティシアの声は、先ほどより少し低くなっていた。
「一体一体は、先ほど申し上げた通りです。ただし、エルグラン白殻大災害では、白殻とは異なる二種類の個体も確認されています」
「白殻以外にも?」
レティシアが身を乗り出す。
「はい。一つは、現在では『白鬼』と呼ばれているものです。高さは三メートルほどあり、身体のいたるところに目を持っています。戦闘能力も非常に高く、人間とは比べものにならないほどの力を持っていたと記録されています」
「白鬼……」
思い浮かべようとしてみるが、そんな魔物にはまったく覚えがない。
(知らない。そんなのゲームにはいなかったはずよ)
「もう一種は『白徒』と呼ばれています。大きさは人間と同程度ですが、背中に翼を持ち、空を飛びながら魔法で攻撃してきたそうです」
クラリスの説明を聞きながら、レティシアは必死にゲームの記憶を探った。
白殻なら何度も戦った。それでも、白鬼や白徒という名前は出てこない。
「その二種類もたくさんいたのですか?」
「いいえ。確認された数そのものは、白殻と比べればごくわずかだったそうです。ただ、一体一体が非常に強く、記録に残っている範囲では一体も討伐できなかったとされています」
「一体も……」
単純な強さだけを考えても、ゲームで知っている白殻とは話の規模が違ってきた。
「では、白殻の大群に、その二種類まで加わっていたのですね」
「そうです。白殻は百万以上いたのではないかという話もありますが、正確な記録は残っていません。実際にどれほどの数がいたのかは、今となっては誰にも分かりません」
「百万……」
思わず声に出た。
単体なら騎士や冒険者でも倒せる。それでも、百万体もの白殻が押し寄せてくるところを想像すると、それだけで恐ろしかった。どれだけ倒しても終わりが見えないような数だ。
しかも、その中には白鬼や白徒まで混ざっていた。
大国が三か月で滅んだという話にも、現実味が出てきた。
それでも、レティシアには一つ気になることがあった。
「エルグラン王国が攻められていた時、グラディス王国は援軍を出さなかったのですか?」
「出さなかった、というより出せなかったのです。他国の領内へ勝手に軍を入れるわけにはいきませんから、正式な援軍要請を待つ必要がありました。しかし、エルグラン王国から要請が届くことはありませんでした」
「要請がなかったのですか?」
「はい。当時のヴァレン辺境伯は北部国境の警戒を強め、国軍も必要であればすぐ動けるよう準備していたそうです。しかし、白殻の侵攻は想像をはるかに上回る速さでした。事態の全容が分かった頃には、すでに手遅れだったと言われています」
レティシアは地図もない机の上を見つめながら、九百万人が暮らす国を頭の中で想像した。
三か月で崩壊したのなら、周辺国が情報を集め、何が起きているのかを判断している間にも、状況はどんどん悪化していったはずだ。
「白殻はこちらには来なかったのですか?」
「エルグラン王国で起きたような大規模な攻勢はありませんでした。ただし、国境周辺では少数の白殻による襲撃が何度も確認されています。先ほど話した白鬼や白徒も、その時に確認されたものです」
「白鬼と白徒も……」
それなら、今でも北部が白殻を警戒している理由は分かる。
「現在でも北部国境を預かるローデリック・ヴァレン辺境伯は、各地の白殻の出現報告を集めています。一体、二体現れた程度で軍を動かすことはありませんが、数が増えていないか、特定の地域に集中していないかは確認されています」
今朝、父が二体だけの白殻に対して周辺まで調べさせた理由も分かった。
目の前の二体を倒せるかどうかではなく、本当に二体しかいないのかを確かめる必要があるのだ。
「それで、エルグラン王国にいた白殻は、その後どうなったのですか?」
クラリスの表情が少しだけ曇った。
「分かっていません」
「分かっていない?」
思わず聞き返す。
「ある時期を境に、国境付近で白殻がまったく確認されなくなりました。不審に思ったグラディス王国側が偵察を出したところ、エルグラン王国内から白殻の姿が消えていたそうです」
「では、人々は?」
「確認できなかったそうです」
レティシアは言葉を失った。
百万を超えていたかもしれない白殻が、一つの国を滅ぼしたあと突然消えた。それだけではなく、残されたはずの人々の姿も確認されなかったという。
背中に少し冷たいものを感じる。
(何それ……気味が悪いわね)
ゲームでは知らない話だった。
白殻はただの敵キャラクターであり、そこまで特別な設定があった記憶はない。白鬼や白徒についても知らなければ、エルグラン王国という大国が滅亡していたことすら覚えていなかった。
「現在、エルグラン王国があった土地はどうなっているのですか?」
「どの国にも属していません。事実上の空白地帯です」
クラリスは立ち上がると、棚から地図を取り出して机の上へ広げた。
「ここが、かつてエルグラン王国だった地域です」
レティシアも椅子を少し寄せ、クラリスが指した場所を見る。
グラディス王国の北側に、大きな領域が広がっていた。
「何が起きたのか分からない土地ですから、長い間どの国も積極的に手を出そうとはしませんでした。ただ、あれから二十年が経っています。白殻の大群が再び現れることもなく、当時を知らない世代も増え、少しずつ恐怖が薄れてきたのでしょう」
「では、今は?」
「近隣諸国の間で、少しずつ土地の所有権について話が出始めているようです。元は九百万人が暮らしていた大国ですから、土地そのものには大きな価値があります」
レティシアはしばらく地図を見つめた。
二十年前まで九百万人が暮らしていた国へ、百万を超えるかもしれない白殻が現れた。ゲームにはいなかった白鬼や白徒まで確認され、三か月で国が滅びたあと、人も魔物も姿を消している。
それなのに、二十年経ったからという理由で、その土地を欲しがる国が現れ始めている。
(そんなところ、絶対に住みたくない)
思わず地図から少し身体を引いた。
今の自分は侯爵令嬢なので、普通ならそんな場所へ行く理由はない。
そこまで考えたところで、レティシアの表情が少し固まる。
ゲームの筋書き通りなら、自分は将来国外追放されることになっている。
追放先までゲームと同じになる保証はないし、その途中で何が起きるのかも分からない。今聞いた話だけでも、この世界にはゲームでは知らなかった危険が存在している。
(どこへ行っても生きていけるくらいには、鍛えておいた方がよさそうだわ)
前世の知識だけでは足りない。この世界についてもっと学び、自分自身でも身を守れるようになっておく必要がある。
レティシアが地図を見たまま考え込んでいると、クラリスが少し心配そうに声をかけた。
「現在確認される白殻のほとんどは、一体から数体程度です。エルグラン白殻大災害以降、大規模な出現は確認されていません。ですから、そこまでご心配なさらなくても大丈夫ですよ」
レティシアが顔を上げると、クラリスは少し困ったように笑っていた。
どうやら七歳の子供を怖がらせてしまったと思っているらしい。
「それなら少し安心しました」
レティシアもにっこり笑ってみせた。
本来ならこの国の仕組みや領地経営について教えてもらう予定だった最初の授業は、ほとんど白殻について学ぶだけで終わった。それでもレティシアは、予定と違ったことを残念だとは思わなかった。
ゲームで知っている情報と、この世界で実際に起きていることにはかなり違いがある。
白殻も、白鬼も、白徒も、知らないことばかりだった。
(この世界、私が思ってたよりずっと危ないんじゃない……?)
レティシアは、机の上に広げられた地図をもう一度見た。
この世界について、もっと知りたい。今はそう思っていた。




