悪役令嬢、弟のために石鹸を改良する
風呂から上がったレティシアは、自分の腕を軽く撫でた。
少しべたつく。昨日使った石鹸では、こんな感じはしなかったはずだ。
「やっぱり違うわね」
「何がですか? お嬢様」
マリナが不思議そうな顔をしている。
「石鹸が昨日とは違う気がして」
「そうなのですか? 私はあまり気にしたことがありませんでした」
「わたくしも今まではそうだったのだけれど……」
レティシアはもう一度、手のひらで腕を撫でて確かめた。
屋敷で使っている石鹸は、いつも同じ工房から仕入れている。それなのに、よく泡立つものもあれば、洗った後に肌がつっぱるものもあり、今日のように少し油っぽさが残るものもあった。
(商品によってムラがあるわ)
今まではそれほど気にしていなかったが、ユリウスが生まれてからは別だった。
小さな頬に触れた時の、驚くほど柔らかかった感触を思い出す。あのすべすべした肌に、刺激の強い石鹸を使わせるのは嫌だった。
(もっといいものを使わせてあげたいわね)
そう考えているうちに、一つ疑問が浮かんだ。
そもそも、この世界ではどうやって石鹸を作っているのだろう。
前世でも、油脂と灰汁を使って石鹸を作れることくらいは知っていた。ただ、自分で作った経験があるわけではない。
少し考えたあと、レティシアは腕を撫でるのをやめた。
(お父様に聞いてみましょう)
翌日、ヴィクトルに石鹸について聞きたいと話すと、ローレン家が経営する工房の一つで石鹸を作っていることが分かった。
数日後、その工房を任されている男が屋敷へやってきた。
「お嬢様がお話を聞きたいとのことで参りました」
四十代ほどの大柄な男だった。礼儀として頭は下げているものの、ほんの少しだけ面倒そうな様子が顔に出ている。
八歳の侯爵令嬢に石鹸について聞かれると言われても、何を話せばいいのかと思っているのかもしれない。
(顔には出さない方がいいと思うけれど)
レティシアは気づかなかったことにして、椅子を勧めた。
「お忙しいところ、ありがとうございます。今日は石鹸について教えていただきたいのです」
「私に分かることでしたら」
「屋敷で使っている石鹸なのですが、物によってかなり品質が違いますよね。洗った後に肌がつっぱるものもあれば、少し油っぽく感じるものもあります。なぜですか?」
工房長は少し意外そうな顔をした。そんな質問をされるとは思っていなかったらしい。
「石鹸は職人によって出来がかなり変わります。油や灰汁の量は、色や粘りを見ながら職人が調整しておりますので」
「量っていないのですか?」
思わず聞き返すと、工房長は頷いた。
「大まかな量は決まっております。ただ、最後は職人の勘ですな。腕の良い職人なら大体同じものを作れますが、どんな工房でも弟子が作ることはあります。そうなると、どうしても出来に差は出ます」
なるほど、とレティシアは頷いた。
前世で働いていた工場でそんなことをしていたら、製品管理の担当者が頭を抱えていただろう。職人の技術が必要なのは分かるが、毎回同じものを作るなら、もう少し揃える方法がありそうだった。
「使っている脂は、やはり動物のものですか?」
「はい。牛や豚の脂が中心です」
工房長が少し目を見開いた。
「お嬢様はお詳しいのですね」
「本で少し読みました」
レティシアはそう答えてから考える。
動物脂そのものが悪いわけではない。安く手に入りやすいのであれば、庶民向けの商品にはむしろ必要だろう。
ただ、ユリウスに使わせるものは別だった。
「少し値段は高くなっても構いません。植物から取った油を多く使って、石鹸を作っていただけませんか?」
「植物油ですか」
工房長が少し考えるように顎へ手をやる。
「はい。それと、材料は毎回きちんと量ってください。重さを量れるものは秤を使って、液体も同じ大きさの容器を使えば、今より揃えられると思います」
工房長はすぐには答えず、レティシアの顔を見た。最初に部屋へ入ってきた時とは違い、今度は話の内容を確かめるような目をしている。
「できなくはありません。ただ、今より手間は増えます」
「最初はそれで構いません。まず同じものを作れるか試したいのです」
「なるほど」
工房長がゆっくり頷いた。
「植物油の量も変えて、いくつか作っていただけますか? 今までより植物油を多くして、洗った後に肌がつっぱらないものが欲しいです」
「油を多くしすぎれば、柔らかくなったり、油っぽさが残ったりするかもしれません」
「でしたら、配合を何種類か試しましょう」
レティシアがそう言うと、工房長は今度は迷わず頷いた。
「分かりました。三種類ほど作ってみます。出来上がりましたらお持ちします」
「お願いします」
最初に見せていた面倒そうな表情は、もうほとんど残っていなかった。
それから三週間ほど経った頃、工房長が再び屋敷を訪れた。
今度は最初に会った時とは少し様子が違う。手には三つの石鹸が入った箱を持ち、表情にもどこか自信があった。
「お待たせいたしました。お話にあった石鹸を三種類作ってみました」
工房長が箱を開け、机の上にほぼ同じ大きさに切り揃えられた石鹸を三つ並べる。
レティシアは思わず身を乗り出した。
「こちらは植物油を少し増やしたもの。こちらはさらに植物油を多くしたもの。最後が一番多く使ったものです」
「見た目も揃っていますね」
三つを見比べても、大きさにはほとんど差がない。
「材料を量って作りましたので、今までよりかなり揃えやすくなりました」
工房長は少し誇らしそうだった。
「私も家で試してみたのですが、正直なところ驚きました。洗った後の感じが随分違います」
以前とは明らかに態度が違う。レティシアはその変化を感じながら、少し嬉しくなった。
「お嬢様のおっしゃった通りでした。作るたびに材料を量るだけでも、出来がかなり安定します」
「それなら良かったです」
自分の考えが実際に形になったことが嬉しくて、レティシアは並んだ三つの石鹸をもう一度見た。
その日から、レティシアも三種類を試すことにした。一度使っただけでは分からないので、数日に分けて一種類ずつ使ってみる。
一つ目は今までの石鹸よりかなり良かったが、洗った後に少しだけ肌がつっぱった。二つ目は洗い上がりが柔らかく、嫌なべたつきもほとんどない。三つ目はさらに刺激が弱かったものの、今度は少し油っぽさが残った。
使うたびに腕や手を触って確かめ、レティシアは二つ目が一番好みに合うと感じた。
数日後、工房長を呼ぶ。
「わたくしは二つ目が一番好きです」
「私も同じです」
工房長がすぐに答えたので、レティシアは少し笑った。
「家内にも使わせてみたのですが、二つ目が一番評判が良かったです」
「では、この配合を基本にしましょう」
「承知しました」
最初に会った時とは違い、工房長はもうレティシアの話を子供の思いつきとして聞いてはいなかった。むしろ次に何を言われるのか、少し楽しみにしているようにも見える。
レティシアは机の上の石鹸を一つ手に取った。
「これをたくさん作ることはできますか?」
「今すぐ大量に、となると難しいです。植物油の仕入れも増やさなければなりませんし、職人たちにも新しい作り方を覚えさせる必要があります」
「では、量産する方法も考えておいてください」
工房長が一瞬黙った。
「……量産ですか?」
「はい。同じ品質のものを、たくさん作れるようにしたいのです」
工房長は石鹸を見てから、レティシアへ視線を戻した。少し考えたあと、楽しそうに笑う。
「分かりました。工房でも相談してみます」
「お願いします」
その日の夕食後、レティシアは両親に声をかけた。
「お父様、お母様。ユリウスのために作ったものがあります」
ヴィクトルが興味を示し、食後のお茶を置いた。
「ユリウスのために?」
「はい。マリナ、例のものをお願い」
マリナが用意していた石鹸を持ってくる。
「肌に優しい石鹸です」
エレノアが手に取り、表と裏を眺める。見た目だけなら、普通の石鹸とそれほど変わらない。
「今使っているものとは違うのですか?」
「植物油を多く使って、材料の量も毎回きちんと揃えるようにしました。今までのものより品質も安定しています」
エレノアは石鹸を眺めながら微笑んだ。
「ユリウスのために作ってくれたのですね」
「はい。あの柔らかい肌に、今の石鹸を使うのが少し心配だったので」
そう答えながら、レティシアはユリウスの小さな頬を思い出した。
エレノアの表情が少し柔らかくなる。
「では、早速使ってみましょう。ユリウスに使う前に、まず私たちで試した方がいいですね」
「それがいいな」
三人で洗面台へ移動した。
最初にエレノアが石鹸を水で濡らし、手の中で何度か擦る。レティシアは隣で、少し緊張しながらその様子を見ていた。
「泡立ちは今までのものと、それほど変わらないのですね」
「はい。洗い流した後が少し違うと思います」
エレノアは手を洗い終えると、布で水気を拭き取り、手の甲を軽く撫でた。
「あら。本当ですね。いつもの石鹸より、洗った後のつっぱる感じが少ないです」
その言葉を聞いて、レティシアはほっとした。
自分では何度も試していたが、母にも同じように感じてもらえたことが嬉しかった。
「私も使ってみよう」
ヴィクトルも同じ石鹸を手に取り、洗い終わると自分の手を何度か擦り合わせた。
「確かに違うな。石鹸など、どれも同じようなものだと思っていた」
「お父様はあまり気になさらなそうですものね」
「その通りだ」
ヴィクトルが笑い、レティシアもつられて笑った。
エレノアはもう一度、自分の手の甲を撫でる。
「これならユリウスにも使ってみたいですね。ただ、最初は少しだけにしましょう」
「はい。もし合わなかったら、また工房長と配合を変えてみます」
ヴィクトルは手元の石鹸を見ながら、感心したようにレティシアへ目を向けた。
「これはレティシアが考えたのか?」
「工房長と一緒に作りました」
「そうか」
ヴィクトルが石鹸をもう一度眺める。その反応を見て、レティシアはもう一つ考えていたことを話すことにした。
「それと、これだけで終わらせるのはもったいないと思っています。量産できるようになったら、商品として売れるのではないでしょうか」
「商品に?」
ヴィクトルの表情が少し変わった。先ほどまで父親として石鹸を見ていたが、今度は侯爵として話を聞いているようだった。
「はい。庶民向けには動物脂と植物油を混ぜて値段を抑えます。貴族向けには植物油を多くして、ラベンダーなどの香油を加えてもいいと思います。さらに最高級品として、オリーブ油を使ったものを限定販売するのもいいと思います」
ヴィクトルはすぐには答えず、手元の石鹸を見ながら少し考えた。
「同じ石鹸でも、買う者によって分けるのか」
「はい。安くて使いやすいものが欲しい人と、多少高くても質の良いものが欲しい人では、求める商品が違いますから」
「なるほどな」
ヴィクトルは今度は石鹸ではなく、娘の顔をじっと見た。
「どこでそんなことを覚えた?」
レティシアは一瞬だけ言葉に詰まった。
(前世の知識です、とは言えないものね)
少し考えてから、何でもないことのように答える。
「図書室の本ですわ。それとクラリス先生にも色々教わっていますし、石鹸については工房長に教えていただきました。皆さんの知識を借りただけです」
「それでも、そこから新しいものを考えたのはレティシアだろう」
ヴィクトルは嬉しそうに笑った。
「さすが私の娘だ」
「ありがとうございます、お父様」
褒められると、やはり少し嬉しい。レティシアが笑うと、ヴィクトルはもう一度石鹸へ目を落とした。
「工房長とも話してみよう。量産できるのであれば、売る方法も考えてみる価値はありそうだ」
「お願いします。それとオリーブ油も手に入るなら試してみたいです。ユリウスにはこっちの方が合うかもしれません」
商品として売れるなら嬉しいし、うまくいけばローレン家の新しい収入にもなるだろう。自分の考えたものが誰かに使ってもらえることにも、少しわくわくする。
それでも、レティシアが最初に石鹸を作ろうと思った理由は変わっていなかった。
ユリウスに、今までより良いものを使わせてあげたい。
(かわいい弟には、少しでもいいものを使わせてあげたいものね)




