終わりと始まり3
「ええと……ここ……かしら?」
雑貨屋から少しばかり歩きたどり着いた一軒の店。綺麗に磨かれた飴色の扉に、小さくアガットの店と看板が下がっている。
そっとドアノブを引けば、カラランと涼やかなベルが鳴った。年季の入ったベージュにうっすらと花模様の入った壁紙。窓の両端に寄せられたカーテンは重厚感のある深緑をしていて上品だ。正面にある小さなカウンターの中には、分厚い表紙の冊子がずらりと並んでいる。業種を考えれば、おそらくは布見本だろうか。
壁際に据えられたテーブルセットは扉と同様、手入れの行き届いた飴色に輝いている。奥の部屋からカタリと音がして、ゆっくりとひとりの老婆が歩み出てきた。腰は曲がっているけれど、鋭い視線には覇気が感じられる。豊かな白髪を頭頂部でひとつに纏めて綺麗に結っている。濃い紫色のワンピースはシンプルながらも身体に沿った美しいデザインで、これを仕立てたのが彼女本人だとしたらとても腕の良い職人なのだろう。
その姿は年齢相応の落ち着きと気品に溢れ、どう見ても平民階級の一般市民とは違う貴婦人然とした風格を感じさせた。
「おや……見ない顔だね。若い娘がこんな寂れた仕立て屋に何の用だい」
「こんにちは。私、クロエ……と言います。急ぎ住み込みで働ける仕事を探していて……雑貨屋の店主にこちらを紹介されて参りました」
家を追われた身でデュランの名こそ口にできないけれど、儀礼に則って膝を折る挨拶をする。
一応マナーに関しては外に出ても問題ないと言われる程度に習ってきたものの、社交の場に出されることなくあの小屋に押し込められていた私には実践の経験がない。こんな挨拶ひとつとっても初めてのことばかりで、私という存在を認めてもらえるのだろうかと緊張感が一層高まった。
「ふうん……なるほどね。どれ、ちょっと手を見せてみな」
少し面白そうに目を細めつつ私の頭の上から足の先まで眺めた老婆は、数歩進み出ると私の前にすっと手のひらを差し出した。私より少し大きなその手の上に、そっと自分の手を出して重ねる。
水仕事や畑仕事、そして刺繍や自分の服を仕立てる針仕事。毎日酷使した私の手は、あかぎれや刺繍針によるタコが出来てしまってガサガサだ。表に裏にと撫で擦りまじまじと観察する老婆の手には年相応に深いしわが刻まれていたけれど、案外柔らかくて温かいのだなと妙に感慨深く思った。
「──うん、いいね。部屋は二階に空いてるのがあるから好きに使いな。この辺の掃除は週に何度か家政婦を頼んでるから、あんたは自分の部屋だけやればいい。高い給金は出せないが、食事はあたしと同じものでいいなら出してやるよ」
「本当ですか……!? 精一杯務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします!」
まさかこんなすぐに仕事が決まるとは思わなかったけれど、それもエドモンが繋いでくれた縁のおかげかもしれない。彼に報いるためにも、これから始まる新生活が良いものになるよう精一杯努力しようと強く誓った。
早速見せていただいた部屋はこぢんまりとしているが清潔で、埃避けの布を外せば家具なども十分使える状態のものが揃っていた。流石にリネン類はないけれど、うちは仕立て屋なんだから布なんていくらでもあるよと言ってくれたアガットさんに甘えて用意して貰うことにする。これまでの内職で貯めた手持ちのお金で足りなければ、しばらくの給金から差し引いて貰ってもいい。住処も食事にも目途がついたとなれば、当初の予想よりずっと暮らしに余裕が出来るだろうから。
実際の仕事は明日からということで話し合い、一旦店を後にする。今夜はフロラと最後の食事をして、これまでお世話になったお礼を伝えたかったのだ。もちろん新しい生活で十分稼げるようになったら、おしゃれな店で食事をご馳走したりしても良いだろう。もう私はあの家の敷地から出ることを禁じられた侯爵令嬢ではないし、何をするのも自由な平民になったのだから。




