唯一望むもの
儀式とお披露目の挨拶も無事終わり、集まっていた人々は帰路に付く。徐々に人気のなくなっていくその様子をなんとなしに眺めていたけれど、なんだか気持ちが落ち着かなくて私はひとり動けないままでいた。
警備の衛兵たちも仕事を終え、すっかり静けさを取り戻した会場に穏やかな風が吹き抜ける。ざっと小さな靴音が鳴り、その気配に背後を振り返った。そこには盛装を脱いで普段着になったフェリックス様の姿があり、小さく上げられた手に私も微笑みを返す。
「クロエ」
「フェリックス様……本日は本当に、おめでとうございます」
「ありがとう。これから大変だろうけど、頑張らねばね」
ふっと微笑む彼の静かな笑顔の裏に、どれほどの覚悟が詰まっているのだろうか。幼い頃から難しい立場に置かれ、命を狙われつつも王族としての努力を積み重ねてきたフェリックス様。兄君の邪魔にならぬよう姿を変えてまで国から離れたというのに、やはり国の都合で戻され問答無用で次の王太子に任命されたのだ。本人が望んでも望まなくても、王家に生まれた者に人生の選択肢の自由は与えられない。
庭園の木々の隙間から夕陽が射し込み、殿下の赤い目をいっそう鮮やかに見せる。静かに一歩近付いてきた彼は、私の正面に来ると徐に片膝をついた。
「えっ……殿下、いけません」
「クロエ、どうか聞いて欲しい」
慌てて出しかけた手をそのまま包み込まれてしまった。その手のひらにはいくつもの肉刺が出来ていて、そういえば殿下は剣もお得意なのだと令嬢たちが楽し気に噂していたことを思い出す。剣に関するスキルで得た力であれば、きっとこうはならない。
私の指には刺繍針が当たる所にタコが出来ているけれど、仕立てスキルを持つアガットさんは年をとってもそのようなものが一切ない滑らかな手だったのだ。繰り返し練習を重ね、血を流してきたからこそ出来る努力の証だと思えば──この大きな手のひらが一層尊いものに感じられた。
スキルがあるから出来ることもあれば、スキルがないからこそ出来るものも確かにあるのだと私は知っているから。
「今日、俺は正式に王太子として任じられた。これから進む道は険しく、その重圧に負けそうになることもあるだろう。正直に言えば、不安もある。この色を持って生まれたが故に周囲からの期待は大きく、果たしてそれに自分は応えられるのだろうかと」
いつも穏やかに、そして真っすぐ立っていたフェリックス殿下が僅かに視線を下げて自嘲気味な苦笑を浮かべる。私からすれば、さっきのスピーチだって本当に堂々としていて見惚れる姿だったのだ。けれど目の前にいる彼には年若い青年らしい弱さや迷いが見えて、きっとこれも彼の素の表情なのだろうと思う。
「……受け入れたからには、精一杯努力しようとは思っているんだ。それは、これまでもこれからも変わらない。自分に出来ることをするだけだからね」
「はい……はい、きっとそうでしょう」
与えられた環境の中で出来ることを精一杯やって生きてきた。それはフェリックス殿下も、私もきっと同じだ。一国の主となる方と、その境遇を比較するだなんて恐れ多いことかもしれないけれど……。でも彼ならそれを許してくれると、私はもう知っている。
「これまで俺が生きてきた中で唯一の我儘が、シャルクへの留学だ。普通なら国内に留まり、兄上の補佐なりその他の仕事なり国の為に働くのが成人した王族の務めのはずだった。けれどこのままでは兄も、それから正妃様も駄目になると思ったんだ。なにより俺自身が辛かった。そう……辛かったのだと、今なら分かる。この国から離れて初めて、随分息苦しかったのだと気が付いたんだ」
ただ英雄と同じ色を持って生まれたというだけで身勝手な重圧を背負わされ、またそのせいで謂れなき悪意に晒されてきたのだ。それは、当然だろう。当時の苦しかったフェリックス殿下を慰めて差し上げることは出来ないけれど、握られたままの手に少しだけ力を込めた。
赤く澄んだ瞳が、真っすぐにこちらを見上げてくる。風が庭園の芝を揺らす小さな騒めきの中、私はただ自分の心臓の音だけを聞いていた。




