奴隷王の隠れ家で
心地よい風が頬をなでる。
ざあざあ、と涼やかな音が聞こえてくる。
そんな、まるで天国のような場所でジンは目を覚ました。
辺りは一面、草、草、草。
広大な草原のど真ん中にジンは寝そべっている。
頭上に広がる空は雲一つない青空。
空と草原しかない、絵に描いたような世界だ。
ここはどこだ。
気を失った前後の記憶が少し曖昧だ。
かすかに覚えているのは、怪しげな黒猫につれられ、どこか別の世界に来てしまったらしいということだけだ。
「やっと起きたか。君、いくら気持ちいいからってさすがに寝すぎだよ」
声のした方向を見ると、黒猫が呑気そうにあくびをしながら、ぼやいていた。
「お前……俺に何をした?」
「言っただろう。時空をとんだのさ」
「…………」
「ちなみに、やっぱり元の世界に帰らせて、なんて弱音を吐かれても今更受けつけることはできないからね」
「あほか。もともと野たれ死ぬところだったんだ。元の世界に執着なんてねえよ。ただ、まだお前を信用していないだけだ」
「それはそれは。君、予想以上に用心深いタイプなんだね」
「俺の性格の話はどうでもいい。それよりここはどこなんだ?」
「ここは君が暮らしていた世界とは完全に異なる世界さ。といっても、実は君に本当に行ってもらいたい世界はここじゃなくてね、この世界は中間地点、あくまで通過ポイントに過ぎない。君がいた日本風な例えをするなら、東京から北海道に向かう途中で、青森に寄ってリンゴを食べる、みたいなイメージさ」
「いや…その例え、全然意味がわからん。そもそも北海道行くのにわざわざ青森とか寄らねえし。飛行機で直で行くし。 ……まあ、言いたいことはわかったよ。それで、ここに来た目的は何なんだ?」
わざわざ寄り道をしたってことは、そうしなくちゃいけない理由があるはずだ。
そう尋ねると黒猫は、こちらに背を向けて歩き出した。
「実際に、見た方が早い。ついてきて」
そう言って、果てしなく続く草原を、てくてく進んでいく。
ジンもひとまずそれに従う。
すると、20メートルほど歩いたところ、突然、目の前の風景が、空間が歪み始めた。
まるで、そこに透明な何かが存在しているかのように。
ぐにゃり、と歪みの波が大きくなっていく。
「これは……」
その何かは、すぐに正体を現した。
「ようこそ、現・奴隷王の隠れ家へ」
それは、木で立てられた古びた小屋だった。
嵐が来たら吹っ飛んでしまいそうな貧相な建物だ。
「待て、奴隷王ってどういうことだ?」
黒猫の言葉がひっかかり、問いただす。
「結論を急がない。すぐにわかるさ」
だが、そう言うと黒猫は、軽々と小屋の扉のドアノブに飛びつき、体をゆすり器用に開けると、中に入っていた。
置いてかれないように、ジンも恐る恐るその後を追う。
「じい。つれてきたよ」
そこには、大きなベッドに横たわる恰幅のいい白髪の老人がいた。
「これは……どういうことだ」
部屋の中は簡素で、ほとんど物は置かれておらず、まるで生活感が感じられない。
空気も埃っぽく、人が本当に住んでいる場所なのか、疑わしい。
だが、現に老人が住んでいる様子なので、余程、物静かに暮らしているとしか思えない。
「おい、猫。誰だ、このじいさんは?」
すると、黒猫に訊いたはずの質問はベッドから返ってきた。
「儂の名は、フェンテイ。奴隷商人をしておる者じゃ。いや……正確にはしていた、か」
体のどこから声を出しているのか見当もつかないレベルに、しゃがれた年寄り特有の声で老人は答えた。その顔は幾重にも重なった皺が特徴的で、人生の苦労とか疲労とかそういった深みがにじみ出ていた。
この老人が奴隷商人だと? しかもその王って本当かよ。
もうすぐにでもくたばりそうじゃないか。
それに、ジンは外見以外にも、一つのことが気になってしょうがなかった。
「え、いま名前なんて言った? 変態?」
礼儀も何も無視して率直な疑問を口にする。
「君は馬鹿か! フェ、ン、テ、イ! なんてことを言うんだ!」
「ああ、フェンテイね。いや本当に変態って聞こえてさ。聞いた瞬間は、真剣に異世界のジョークなのかと思って、どう突っ込めばいいか迷ったよ」
そう言うと黒猫はあきれ顔をして、ベッドの上の老人の傍に飛び乗った。
「ロア、これがお前の言っていた後継者か」
老人は白いあごひげを撫でながらこちらを見つめている。
「まあ、うん。見た目頼りないかもしれないけど、そうだね」
「まてまて。誰が頼りないって? それにロアって、もしかしてお前の名前か?」
そういえば、お互いまともに自己紹介すらしてなかったと、今更ながらに思い出す。
「そうさ。僕の名前はロア。ちなみに、フェンテイは僕の祖父なんだ」
「祖父って、え、どういうことだ? お前は猫だろうが。あれか、異世界では人間から猫が産まれたりするってのか?」
「君は……異世界を何だと思ってるのさ。まあ、その疑問は持って当然の疑問だけどね」
そう言うと、黒猫は老人・フェンテイの耳元に近づくと、ジンに聞こえないくらい小さな声で何か話し始めた。
何というか、あれだな。
別に悪意がなかったとしても、目の前でひそひそ話をされると無性に不快な気分になるのは何故だろうか。
「おい」
「はいはい、分かってるって。全部、今から話そうと思ってたんだよ。じい、それでいいよね?」
「うむ。この小僧が後継者ならば知る必要がある。紋章の話から、奴隷商人の話、それにわしらが受けた呪いの話もせねばなるまい」
「そうだね……じゃあまずは、僕らの自己紹介から始めようか___」
黒猫はフェンテイの肩に座って、おもむろに話し始めた。
「改めて名乗ろう。僕の名前はロア。少し前までは、君と同じ普通の人間だった」




