喋る黒猫
誰かが言った。
人は一人になった瞬間から、少しずつ死んでいくのだと。
ゆっくり、じわじわと、白い布に真っ赤な血が滲んでいくように、死んでいくのだと。
約一年前のことだ。
その日、昔からまともに会話をしたことがなかった両親と、生まれて初めて、長時間にわたる話し合いの場を設けることになった。きっかけは進路とか、将来とか、そんなありきたりな話だった気がする。そして、話す前から予想は出来た事だったが、盛大に喧嘩をし、その結果、修復不可能なレベルの深い溝が完成した。
その後、すぐに家出をし、頼る宛もないまま上京。
世間をロクに知らない高3の若造が東京で一人、生活していけるはずもなかったが、高校入学時からアルバイトをして貯めに貯めたお金でこの一年間、何とか生き抜いた。
考えつく限りの知恵をしぼって、寝床を探し、収入減を確保し、寄生する宛を求めて彷徨い続けた。
しかし、一年経って、ついに限界の時がきた。貯金もすべて尽きた。
当然のことだ。
履歴書に書くための住所すらない人間に、まともな食いぶちが見つかるはずがない。
十代の若造が一人で生きていくには、世界はあまりにも冷たかった。
お金も気力も何もかもが尽きた少年は、都内某所にひっそりと存在する小さな公園のベンチに座っていた。他に人は見当たらない。
天が気を利かせてくれたのか、今日は朝から、少年の気分を代弁するかのような冷たく鬱陶しい雨が降っている。
次第に日は暮れ、辺りは夜闇に包まれた。
雨が大地を叩く音だけが響く。
尋常じゃない空腹感に襲われながら少年は思索に耽った。
いっそのこと自殺してしまおうか、とは思わない。
こんなところで、何の意味もなく、死んでやるつもりは毛頭ない。
だけど、生きる術がない。
手段が見つからない。
働く場所が無い。
だから、金が無い。
だから、食べ物がない。
だから、何の力もやる気も出ない。
だから、生きることができない。
だから、死ぬ。
絶望の淵に追いやられた少年は、微塵も存在を信じていないが、手ごろな八つ当たりの対象として、神を恨んだ。
そして、その神に投げかけるつもりで、一言、
「何でもするからさ、生きさせてくれよ」
と宙に呟いた。
その時だった。
「言ったね」
と、突然誰かの声が聞こえた。
「えっ、今のって……」
驚きが強すぎて、何がどうなっているのか理解できない。
「何でもするからって、言ったね」
再び、声が聞こえた。
「……まさか、神なのか」
少年は数秒前まで信じていなかった神の存在を疑った。
しかし、即座にそれは否定された。
「神じゃないよ。僕さ」
よく聞くと、その声はすぐ隣から発せられていた。
振り向くと、そこには、一匹の黒猫がいた。
少年の横に腰かけるようにして、ベンチの上に佇んでいる。
「えっ……は? ねこ?」
「どうも。初めまして」
「まじかよ……しゃ、しゃべってやがる」
信じられないことに、その黒猫は人間の言葉をしゃべっていた。
「まあ、厳密には猫じゃないんだけど、神なんて怪しい存在と勘違いされるよりはましかな」
「いったい何なんだ、お前は……いや、そうか、そういうことか…これは俺がみてる幻覚なのか」
あり得ない光景を目の当たりにして、少年はそれを死ぬ直前に現れた幻だと疑う。
「いやいやいや! ちょっと待ってよ! やめてくれる? 人のことを幽霊とか空気みたいな扱いにするのは」
「人っていうか、猫だろ、お前」
「いやだから、厳密には猫じゃないんだけど…ていうか、今はそういう話をしたいんじゃなくてさ」
黒猫は呆れてものがいえないといった様子で、首を傾げている。
何というか、この猫、普通に可愛い。
害意の無い動物は嫌いじゃない。
中身はよく分かないが、猫として、普通に可愛いことは確かだ。
ただ何だろうか。何か変な感じがする。
原因は分からないが、違和感がぬぐえない。
喋るという一点を覗けば、ただの猫のはずなのに、どこかがおかしい。そんな気がする。
まあいいか。今は、ほうっておこう。
他にも気になることはいくつもある。
「それで、その猫が俺に何の用だ?」
「そうそう。本題に戻らないとね」
黒猫はそう言うと、背筋をぴんっと伸ばし、ゆっくりと話し始めた。
「君さっき、何でもするって言ったよね」
「何だお前、聞いてたのか」
「そうさ。聞いてたんだよ。正確には、それだけじゃなくて、今日までの一週間、ずっと君の行動を監視していたんだけどね」
「なっ、一週間って嘘だろ…」
これまで色んな酷い目にあってきたが、猫にストーカーされた経験は始めてだ。
「お前、何が目的でそんなことしたんだ?」
「君に、興味があったのさ」
「興味、だと? どういうことだ? いや、さっきの口ぶりから察するに、俺に何かしてもらいたいことがあるってとこか」
「その通り。君にひとつお願いがあって、この世界まで会いに来たんだ」
この世界、という言い方が気になったが今は無視することにする。
まずは、相手の要件が気になる。
無言で、続きを言うように促す。
すると、黒猫は怪しげに口元を緩めて、雨音にかき消されない、確かな声で言った。
「君に、奴隷商人の頂点に立つ、奴隷王になってもらいたい」
しばしの間、少年と猫の間に沈黙が居座る。
「…………はい?」
「君に、奴隷商人の王になってもらいたい」
再び黒猫のお願いとやらを耳にしたが、少年にはまったく意味がわからなかった。
そもそもまず、単語の意味が不明すぎる。
「奴隷、商人…? 王? 何のことだよ、俺をからかってるのか? いや、それともやっぱりこれは追い詰められた俺がみている幻覚なの___」
「違うってば! 人の話をちゃんと聞いてたのかい? 君は」
「いや、だからお前猫だろ。調子のんな」
「何でそこだけ厳しいのさ!?」
「知るか。あと、お前の奴隷がどうこうって話、一旦、理解不能すぎてついてけないのは置いておくとして、俺が補足することがあるとすれば、俺は、俺が生きれる。つまり、稼げて、まともに生活できる機会を与えてくれるんなら何でもするってことだ。さっき言った何でもするっていうのはそういうことだからな」
そう説明すると、黒猫は何が可笑しいのか、ふふっと笑った。
「そんなこと百も承知さ。言っただろう。一週間、君の暮らしを監視していたって。君がどういう状況に置かれていて、何を望んでいるかなんて手に取るようにわかるさ。だからこその、提案だ……といっても確かに、僕が口でいくら話しても、君の頭にあるこの世界の常識じゃあ、僕の話を理解するのは困難かもしれない。いいだろう。少し、わかりやすく、してあげよう」
「分かりやすくってどういう___わっ、ちょっと何を___」
突然、黒猫が肩に飛び乗ってきた。
「なに、心配はいらないさ。例えどの世界を探しても、時空操作系の術で僕の右にでる者はいない。すべて委ねてくれればいい」
「な、時空転移って嘘だろ! 待て待て、まだ何の説明も___」
瞬間、いきなり少年と黒猫の身体が白く発光し始めた。
「さあ、楽しい旅の始まりだ」
まばゆい光が強さを増し、視界が白く埋め尽くされる。
その時、少年はここにきて違和感の正体に気が付いた。
間近で黒猫の身体を直視し、ようやくその事実に気付いた。
この猫…
雨が降りしきる中で、頭上に遮るものが何も無い状態でいたというのに、
一滴も体に水滴がついていない。
まったく濡れていないのだ。
あの雨の中、それは不可能だ。
少なくとも、この世界の常識では。
だが、今更そんなことに気付いたところで無意味。
少年が黒猫の異常性を認識した時には既に、その体は溢れる光にのみ込まれていた。
こうして、少年は奇妙な黒猫と共に、時空を渡った。




