第三話 切ない夕暮れ
「しつれいしましたー」
七子は職員室の扉を閉めると、小さくため息を吐く。
「もっと早く帰れるはずだったのに、先生の話長すぎるわ……。私が委員長だからって雑務押し付けすぎでしょ」
午前には学校が終わったこともあり、すれ違う生徒もいなかった。グラウンドからは、野球部の掛け声が聞こえてくる。
甲高い金属音と歓声が聞こえてきても、七子は足をとめることはなかった。
「宙太が待っているし、早く帰らなきゃ」
早歩きで教室の前まで辿り着き、扉を開けようとする手が止まる。
「なんで氷の女と付き合い始めたんだ? 今までそんな素振りなかったじゃん」
ドクン、ドクンと心臓の音が煩い。
「俺の勝手だろ。なんか不味いことあるわけ?」
宙太は気だるそうに返した。
その態度に対して、周りの生徒達は気になって仕方がない様子で、思い思いに口にする。
「えー、だって綾瀬さんって自分の席で本読むだけじゃん。恋バナに誘っても笑うこともなかったから、興味ないと思っていたのに」
「分かるー。なんていうか真面目すぎるよな。見た目は可愛いのに、お高く留まってる感じ」
七子は耐えるように、キュッと唇を噛み締めた。
周りからどう見られているかを知らないほど、鈍感ではない。
だからこそ、知らないふりをすることで、傷ついていないと思い込むことが出来た。
「でも、宙太と一緒に教室来た時は可愛かったなー。あれなら付き合いたいかも」
その言葉に女の子はすかさず口を開く。
「それいいんじゃん! 風間くんも恋に興味ないと言ってたし、もしかしたら脅されているんじゃないのかな。風間くんだって、別に本気じゃないでしょ?」
さりげなく吐かれた言葉が、チクリと胸を刺す。恋を教えてくれるなら、誰でもよかった。
最初はそう思っていたはずなのに、ふと無邪気に笑う宙太の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
「でもなんか嫌だな……」
宙太が知らない誰かにあの笑顔を向けることを、想像するだけで苛立ちを隠せなかった。
理由は分からない。ただ胸の奥が妙にざわつく。その答えが出ないまま、考え込んでいた。
――ガラッ。
七子の思考を止めるように、目の前の扉が勝手に開く。
そこには、いかにも不機嫌そうに眉間へ皺を寄せた宙太がいた。
一瞬で教室が静まり返る。
「そんな顔するなよ。俺は別れる気ないからさ」
宙太は、真っすぐ七子を見つめていた。
七子はしばらく呆然としていたが、“別れる”という一言で現実へ引き戻される。
「……へっ? わ、別れるだなんて一言も言ったことないでしょ!」
咄嗟に否定をする七子を見て、宙太の眉間の皺はほぐれていき、楽しそうに噴き出した。
そして七子の肩を軽く押しながら歩き出す。
「知ってる。そもそも恋を教えてほしいと言ったの七子だし。じゃ、俺達帰るから。じゃあなー」
「ちょっと分かっているの! 返事しなさいよ! てかそんなに押さないでよ!」
「はいはい、分かっているからさっさと帰ろうな」
靴箱に着いた頃には、七子の胸に残っていたクラスメイトへの苛立ちは、すっかり消えていた。
靴を履いている宙太に視線を向け、小さな声で呟く。
「……ありがとう。別れないとか言ってくれて、嬉しかった」
「あぁ、気にするな。別れる気ないのは事実で、なんか俺自体がムカついただけだし」
当たり前みたいに告げる宙太に、キュッと胸が締め付けられる。
「……そっ、じゃあ気にしないわ」
「うん」
二人並んで歩くだけなのに、夕日に染まる帰り道がいつもより綺麗に見えた。
「ねぇ、夏休みにはいるけど宙太はなにするの?」
「あー……、特に予定はないかな」
七子は様子をうかがうように、ちらりと宙太を見る。
「じゃあ、海に行かない? いい場所知っているの」
「へー、デートの定番だし、恋人らしくていいじゃん」
七子の頬がぱっと綻んだ。
「でしょ? じゃあ、来週の日曜日。今日みたいに迎えに来てよ」
「今度は驚かないでくれよな」
「あら! 逆に私の可愛さに驚いたらいいわ。デートなんだから制服を着てこないでよね」
「分かっているってば。ちゃんとカッコよくしてくるよ」
二人は昨日よりも近い距離感で、小突き合いをする。
茜色に染まった七子の瞳を、宙太は優しく見つめた。




