第5話 宍戸剛は声をかける
ダンジョンセンターを出たとき、夕方の光が低くなっていた。
腕の包帯は取り替えてもらった。肩はまだ重かった。それでも昨日よりましだった。体は正直だ。
帰ろうとした。
声がかかった。
「宮前蓮」
立ち止まる前に、体が先に向いた。
男が一人、センターの外壁に寄りかかっていた。三十前後か。背が高く、腕が太い。冒険者らしい体つきだが、今は装備を身につけていない。革のジャケット。表情がない顔。
知らない人間だった。
「……どなたですか」
「宍戸剛」
名前に聞き覚えはなかった。
男はこちらを見ながら、さりげなく周囲に視線を流した。センターの入り口。駐車場。道の向こう。何かを確かめるような動作だった。
「少し話せるか」
「何の話ですか」
「立ち話だ。長くはしない」
宍戸は通りから少し引いた場所に歩いた。センターの壁と植え込みの間、人目が届きにくい場所だった。
僕はついていった。
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「お前が宮前蓮だな」
「そうですけど」
「陽の話がしたい」
体が固まった。
陽。
この男が、日向陽の名前を知っている。
「……誰から聞いたんですか」
「知り合いから。お前が冒険者登録したと聞いて、探した」
宍戸は声を落とした。
「日向陽の死は、事故じゃない」
声は静かだった。
でも、それだけで空気が変わった。
僕は宍戸の顔を見た。
「……続けてください」
「二年前のことだ。陽は、本来所属していた班から外された。行くはずのなかった任務に回された可能性がある」
「可能性、って」
「断言できるだけの記録がない」
宍戸はそこで、一度口を閉じた。
言いたくないことを、無理に口に出しているように見えた。
「その任務の記録が、後から処理されている」
「処理?」
「ああ」
「消されてるんですか」
「消された、とは言いにくい。ただ、不自然に整理されている。あるはずの記録が、なくなっている」
記録。
任務。
処理。
どれも綺麗な言葉だった。
綺麗な言葉なのに、嫌な音がした。
宍戸は続けた。
「俺は当時、別の依頼で近くにいた。偶然だった。そこで、陽が連れられていくのを見た。深層方面へ向かう通路の方へ」
「誰に連れられたんですか」
宍戸は少し間を置いた。
「霧島迅」
初めて聞く名前だった。
でも、体は先に動いた。
気づいたときには、宍戸の横を抜けていた。
「おい」
腕を掴まれた。
痛みが肩まで走った。昨日の傷が引きつる。けれど、それより先に足が前へ出ようとしていた。
「どこへ行く」
「センターです」
「何をする気だ」
「調べます。霧島迅。Bランクなら、登録情報くらい――」
「やめろ」
宍戸の声が低くなった。
掴む力が強くなる。
「今のお前が名前を検索したところで、向こうに近づけるわけじゃない。むしろ、お前が探っていることだけが残る」
「残って何が悪いんですか」
「悪いに決まってるだろ」
宍戸は初めて、少しだけ苛立った声を出した。
「記録が消えるような話だ。誰が見ているか分からない。誰が検索履歴を拾うかも分からない。お前が霧島の名前に触れたことが、どこかに残る。それだけで十分危ない」
「でも」
「まだ早い」
宍戸は僕を見た。
「霧島はBランクだ。二年前は、それなりに名の知れた探索者だった。だが、公式の記録には陽の任務に関わっていない。陽の死亡報告書にも、霧島の名前は一行もない」
僕は動けなかった。
腕を掴まれていたからじゃない。
霧島迅。
Bランク。
陽が死んだ任務の現場付近にいた男。
でも、記録から消えている。
頭の中で、何度も名前が転がった。
任務中の事故。
その言葉は、ずっと輪郭がなかった。
何を憎めばいいのか分からなかった。
どこへ行けばいいのか分からなかった。
誰に聞けばいいのか分からなかった。
でも今、名前が出た。
霧島迅。
「じゃあ」と僕は言った。「その霧島って人が、陽を殺したんですか」
宍戸は首を振った。
「分からない。俺が見たのは、あいつがいたってことだけだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
宍戸の声は変わらなかった。
「でも、それだけのはずなのに、記録から消えてる。なんで消える必要がある」
答えのない問いだった。
宍戸も答えを持っていない。だから二年間、黙っていたんだと分かった。
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少し間があった。
宍戸はまた周囲を確認した。駐車場。道。センターの出入り口。
「追うな」
僕の方を見て言った。
「今のお前じゃ、霧島に会うことすらできない。近づこうとすれば、むしろお前が危うい」
「なんで危うくなるんですか」
「さっき言っただろ。誰が見ているか分からない」
宍戸の視線が、道の向こうで一瞬止まった。
僕もそちらを見た。
センター前の横断歩道の向こうに、スーツ姿の男がいた。スマホを見ている。通勤帰りの会社員に見えた。
でも、顔はこちらに向いていなかったのに、立ち止まる位置が不自然だった。
宍戸はすぐに視線を戻した。
「見るな」
小さな声だった。
「見たら、見られたことが分かる」
背中に、冷たいものが走った。
スーツの男は、しばらくスマホを触っていた。
それから何もなかったように歩き出し、人混みに紛れた。
宍戸は顔色を変えなかった。
たぶん、こういうことに慣れている。
「陽の周辺を嗅ぎ回る人間を、誰かが好まない可能性はある」
僕は登録証を取り出した。
レベル2。スキルなし。Fランク。討伐履歴にゴブリンが五件。
数字を見ながら考えた。
弱い。
だから何も届かない。
だから会うこともできない。
だから何も知らされない。
陽の死も、霧島の名前も、記録の処理も、全部。
僕には関係のない話にされている。
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顔を上げた。
「会えるところまで上がります」
宍戸は黙っていた。
「霧島に会えるランクまで上がれば、話は聞けますよね」
「……強さとそういう話は別だ」
「でも弱いより、強い方がまともに相手にされる。違いますか」
宍戸は答えなかった。
その沈黙は、否定ではないと思った。
「霧島迅、覚えました。ありがとうございます」
一歩引いたとき、宍戸が言った。
「話に聞いてた通りだな」
振り返った。
「話?」
「陽から聞いたことがある。負けても目が死なない馬鹿がいるって」
胸の奥が、一瞬だけ詰まった。
「……陽が、僕の話をしてたんですか」
「何度もな」
宍戸は視線を地面へ落とした。感傷というより、苦いものを見る顔だった。
「あいつはよく言ってた。蓮は止まらない。強いやつを見ると、目の色が変わる。だから俺が隣にいないと危ないって」
何も言えなかった。
陽の声で、その言葉が聞こえた気がした。
宍戸は顔を上げないまま続けた。
「お前、陽と似てるよ。前へ出るところも、強くなれば何とかなると思ってるところも」
「……陽は、もっとちゃんとしてました」
「そうだな。あいつは、お前より周りを見てた」
少しだけ間が空いた。
「だから、余計に似てると思った」
返す言葉が見つからなかった。
宍戸は最後に言った。
「生きて帰れよ。毎日」
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道の向こうに、さっきのスーツの男はいなかった。
それでも、誰かがまだ見ている気がした。
帰り道、電車の中で登録証を見た。
レベル2。Fランク。スキルなし。
霧島迅。Bランク。
距離が遠すぎて、笑えなかった。
でも不思議と落ち込まなかった。
陽の死に、名前が一つついた。
霧島迅。
それだけでも、二年間の「任務中の事故」より、ずっと具体的だった。
具体的な名前があれば、目標が立てられる。
目標があれば、何をすればいいか分かる。
霧島に会えるところまで上がる。
そのために強くなる。
それだけだ。
車窓の外が暗くなっていた。
夜の住宅街が流れていく。
遠い。
Bランクも、霧島迅も、陽の死の真相も、全部。
でも、遠いなら近づけばいい。
僕は登録証をしまった。




