第4話 昨日より、動ける
朝、目が覚めたとき、まず肩が痛かった。
起き上がると、天井が少し傾いて見えた。ゆっくり部屋を見回す。カーテン越しの光。机の上のタブレット。昨日と同じ部屋。
僕は腕を上げた。
痛みはある。でも、昨日とは違う。怪我が治ったわけじゃない。痛みの質が変わっている。
体が昨日の続きをやろうとしている。
そういう感覚だった。
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台所へ行くと、母親がコーヒーを飲んでいた。
顔を上げた。肩を見た。何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
冷蔵庫を開けて、麦茶を出した。コップに注いで飲んだ。時計は八時半を指していた。
母親が言った。
「どこか行くの」
「うん」
「……そう」
それだけだった。
僕は部屋に戻って、革鎧を手に取った。昨日の戦闘で肩口が裂けていた。ひとまず紐で縛って補修する。応急処置の布が血で茶色くなっていたので、外して新しいのを巻いた。
短剣を腰に差した。
出かける前、廊下で立ち止まった。台所の入り口から、母親の背中が見えた。
「行ってきます」
少し間があって、母親が答えた。
「気をつけて」
言えるのはそれだけだと、分かっていた。
僕も、それ以上は言えなかった。
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初心者ダンジョンの受付には、昨日と別の職員がいた。
登録証を差し出す前に、相手がこちらを見た。
「昨日も来てましたよね。宮前さん」
「はい」
「肩、怪我してますよね」
「応急処置はしました」
「……本人が大丈夫だと言うなら、止めることはできませんが」
職員はため息をついた。
「ソロ探索は推奨されていません。特に初心者の方は、パーティを組んでください」
「分かりました」
頷いた。
でも、引き返さなかった。
職員は何か言いたそうな顔をしたが、入退場の記録だけ取って黙った。
出入り口をくぐった。
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空気はいつも同じだった。
湿気と土と、かすかな腐臭。発光石の薄明かり。昨日歩いた石床。昨日吹き飛ばされた曲がり角。
違うのは、僕だった。
昨日は分岐路の手前で足が止まった。今日は止まらなかった。なぜ止まらないのか、考える前に体が進んでいた。
左の通路。昨日と同じ場所。
暗がりからゴブリンが来た。
昨日と同じ体格。同じ目。同じ構え。
でも、見え方が違った。
走ってくる速さが、昨日より遅く感じる。正確には遅くなったわけじゃない。僕が昨日より少しだけ先に読んでいた。
肩が上がる。踏み込む前に腰が落ちる。短剣を振る直前に、肘が外へ開く。
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踏み込みを合わせた。
半歩じゃなく、一歩踏み込んだ。ゴブリンの短剣が、さっきまで頭があった位置を通った。僕は右の肩口から短剣を押し込んだ。
手応えがあった。
ゴブリンが崩れた。
黒い煙。石。
終わった。
肩が痛い。踏み込んだとき、傷が引っ張られた。でも、昨日みたいに吹き飛ばされなかった。
もう一度、通路の奥を見た。
左の分岐から、別のゴブリンが来た。
来い、と思った。
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二体目は少し大柄だった。
踏み込みが重い。地面の揺れ方が違う。短剣が大きい。
昨日と別のパターンだ。一体目より前に出てくるのが速い。
壁を背にするのは嫌だった。
右へ動いた。通路の中央へ。ゴブリンが向きを変えた。少し遅れた。
その遅れを見た。
踏み込んだ。
短剣がゴブリンの脇腹に入った。深くは入らなかった。でも、ゴブリンが止まった。
もう一度。今度は深く。
ゴブリンが崩れた。
黒い煙。石。
呼吸が荒い。肩が燃える。足が重い。
それでも、二体倒した。
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少し休んで、奥へ進んだ。
さらに二体倒した。一体は昨日みたいな小柄なやつで、もう一体は走るのが速いやつだった。速いやつに一回腕を掠められた。革鎧が防いだが、衝撃で肩がまた痛んだ。
それでも、引き返さなかった。
まだ、動けた。
なら、ここで終わる理由がなかった。
出入り口まで戻ったとき、体は重かった。肩は熱い。腹の傷も疼いている。
でも、昨日と違うことが分かっていた。
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受付で職員が様子を見て、昨日と同じような顔をした。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「血、出てますよ。腕」
見ると、革鎧の袖口が赤くなっていた。さっき掠められたやつだ。
「処置してもらえますか」
「……こちらへどうぞ」
椅子に座って処置を受けながら、登録証を見た。
表面の数字が変わっていた。
レベル2。
討伐履歴には、今日の分が四件、日時と一緒に並んでいた。
レベルが上がっていた。
嬉しいとかじゃなかった。数字が変わっただけだ。でも、今日の戦い方は昨日より確かによかった。経験値でそうなったわけじゃない。
また明日も来れば、また変わる。
僕は小さく笑った。
「……やっぱり、強くなってる」
「何か言いましたか」
職員が顔を上げた。
「いえ。何でもないです」
処置が終わると、職員は包帯の端を留めて、少し困ったように言った。
「今日はもう帰ってくださいね」
「はい」
登録証をしまった。
レベル2。
ゴブリン五体。
数字にすれば、それだけだった。
でも、昨日よりは前に進んだ。
それだけは、はっきり分かった。




