第2話 ゴブリン一匹
冒険者登録の手続きは、思ったより淡々と終わった。
身分証。健康診断書。未成年冒険者の自己責任同意書。窓口の担当者は形式通りに説明し、書類にハンコを押し、登録証を渡してきた。
宮前蓮。十五歳。スキルなし。
登録証はカード型で、表面には名前とレベルが表示されていた。
```
宮前 蓮
LV:1
スキル:なし
討伐履歴:
(なし)
```
担当者が言った。
「初回は必ずオリエンテーションを受けてください。ソロ探索は推奨していません。怪我をしても自己責任です」
「分かりました」
「本当に分かってますか」
少し間があった。
「はい」
担当者は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
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初心者ダンジョンの入り口は、駅から歩いて十分もかからない場所にあった。
外観は普通の施設に見える。入り口に受付カウンターがあり、職員が常駐している。入退場の記録が取られ、危険と判断されれば止められることもある。だが初心者ダンジョンに限っては、自己責任の同意さえあれば十五歳以上のソロ探索は禁止ではない。
僕は登録証を見せ、出入り口をくぐった。
空気が変わった。
湿気。土の匂い。それより先に、かすかな腐臭が鼻をついた。壁には発光石が埋め込まれていて、薄暗い通路をぼんやりと照らしている。
短剣を腰に差している。中古の安物だ。革鎧は肩口が少し擦れていたが、今日届いたばかりだからまだ問題ない。
足を踏み出した。
靴底が石床を踏む音が聞こえた。
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入ってから十分、何も出てこなかった。
通路は真っ直ぐ続いて、途中でいくつかに分かれる。先人たちの攻略情報では、入口付近の一層は比較的安全で、ゴブリンが出るとしたら分岐路の先が多い。
分岐路の手前で止まった。
左の通路から気配がした。
気配、と言っても、はっきり分かったわけではない。何かが来る、という感覚があっただけだ。それが本物かどうか分からないまま立っていると、通路の暗がりからゴブリンが一体、姿を現した。
身長は一メートルそこそこ。緑色の皮膚。黄色く濁った目。手には錆びた短刀を持っている。動画や画像で何度も確認した。弱い。初心者でも倒せる相手だと、攻略サイトには書いてあった。
でも、実物は違った。
足が止まった。
ゴブリンは僕を見て、甲高い声で叫んだ。それが呼び声なのか、威嚇なのかも分からなかった。
走ってきた。
速い。
思ったより、ずっと速い。動画で見るのと、目の前で走ってくるのは別物だった。訓練場の大人たちでも、こんな速さで踏み込んではこなかった。
こいつ、本気で殺しに来る。
足が動かない。
短刀が僕の肩をかすめた。革鎧が裂けた。衝撃が走って、壁際まで吹き飛ばされた。膝をついた。視界がぶれる。
終わるかもしれない。
そう思った瞬間、口の端が上がった。
自分でも分からなかった。痛かった。息が上がっていた。なのに笑っていた。
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ゴブリンが間合いを詰めてきた。
短刀を持った手が上がる。肩が開く。振り下ろしてくる角度が見えた。
僕は膝をついたまま、横へ転がった。石床に背中を打ちつけながら、短剣を引き抜いた。
遅い。それでも抜けた。
ゴブリンの短刀が床を削る音がした。外れた。
考えるより先に、体が前へ出た。
近い。臭い。革と泥と、もっと嫌なものが混ざった臭い。
短剣を突き込んだ。
硬いものを抜けた。柔らかいものに入る感触があった。ゴブリンが喉を鳴らした。僕はそのまま押し込んだ。
重さが短剣に乗った。ゴブリンが膝から崩れた。
僕は刃を抜いて後退した。
ゴブリンの体が黒い煙のように崩れ、床に小さな石だけが残った。
倒した。
息が荒い。肩が燃えるように痛い。手が震えている。
それでも、倒した。
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その時、通路の奥から声が聞こえた。
甲高い声。
一つではない。
奥から、ゴブリンが二体、姿を見せた。どちらも短刀を持っている。
さっきと同じ体格。同じ目。同じ構え。
でも、二体だ。
肩の傷はまだ熱い。息が上がっている。短剣を握る手が、微妙に震えたままだ。
逃げるべきだ、と分かっていた。
でも、足が前へ出た。
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一体目が先に踏み込んできた。
さっきと同じ踏み込みだ。肩が上がる。短刀を振る直前に、肘が外へ開く。
さっきより、見えた。
僕は半歩だけ右へずれた。短刀が革鎧をかすめる。直撃じゃない。そのまま短剣を横薙ぎに振った。
浅かった。ゴブリンの腕を裂いたが、倒れない。
その瞬間、視界の端で二体目が動いた。
右から来る。
一体目の動きを処理しながら、二体目には対応できなかった。体がそこまで追いつかない。二体目の短刀が左の脇腹をかすった。革鎧が衝撃を逃がしたが、それでも吹き飛ばされた。壁に背中を打ちつけて、膝をついた。
息が詰まる。
二体が同時に迫ってくる。
一体目の足運び。二体目の角度。両方の動きが見えている。見えているのに、体が一つじゃ足りない。
ここでやったら死ぬ。
そう判断した瞬間、僕は後ろへ跳んだ。
迷ったら遅れる。
一体目の短刀が、さっきまで僕の肩があった場所を通った。二体目が横から回り込もうとする。
僕は短剣を振らなかった。
振ったら止まる。止まったら囲まれる。
だから走った。
ただし、背中を向ける前に、床に落ちていた石を蹴った。石が一体目の足元に当たる。ゴブリンの動きが一瞬だけ止まった。
それで十分だった。
曲がり角へ走り込む。膝が痛む。脇腹に熱い感覚がある。後ろからゴブリンの声が聞こえた。
追ってくる。
でも、距離はある。
発光石の明かりを目印にして、出入り口へ向かった。
外へ出た瞬間、膝から力が抜けた。
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受付の職員が飛んできた。
「宮前さん!」
「戻りました」
「見れば分かります。肩から血が出てます」
応急処置をしながら、職員は何か言っていた。ソロは危ない。無謀だ。次はパーティで入れ。そういうことだったと思う。
僕はぼんやり頷きながら、手の中の登録証を見ていた。
更新されていた。
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宮前 蓮
LV:1
スキル:なし
討伐履歴:
2026/04/24 14:32 ゴブリン
```
たった一体。
ほとんど相討ちで、最後は逃げてきた。それでも、倒した。
僕は血のついた短剣を握ったまま、小さく呟いた。
「……陽。僕、まだ弱いわ」
受付の職員は、何か聞こえたかもしれない。聞こえていても、何も言わなかった。
外は夕方になっていた。




