真白の帰省〜富士登山競走〜
「起きなくてもいいって言ったのに」
5時前に起きて、2階の部屋から1階の居間に降りると母も2階から降りてきた。
「おにぎりでも食べてけば?あ、でもすぐに走るなら食べたら具合悪くなっちゃうか」
顔を洗って来たらしき母が炊き上がって保温状態の炊飯器を開けながら訪ねてきた。
「せっかくだから作ってもらっていい?あとご飯が余っていたら山で食べるようにも」
母は「はいはい」と言いながら準備を始めた。
「いくつ作ればいい?」
「朝ごはんは1つで、持って行くように2つ」
「はいよ。ちょっと待ってね」
高校生の頃の事を思い出した。休日に部活に行く時にはこうやって朝ごはんを作ってもらっていた。どんなに早い日でも、母は必ず起きて朝ごはんを用意して見送ってくれたっけ。一人暮らしを始めてから、そのありがたみを実感している。
「そういえばあんたは富士山の山頂まで行った事なかったよね」
おにぎりだけじゃなく卵焼きも作ってくれている母が尋ねてきた。
「うん。こんなに近くに住んでるのにね。職場の先輩で山中湖が地元の人がいるんだけど、その人なんて初めて山頂まで行ったのがこの富士登山競走に出た時らしいよ」
浅川からその話を聞いた時には驚いた。登山が趣味なら何回も登っているかと思っていたのだ。
「そんなもんかもね。私も初めて登ったのは就職してからだから。しかしぶっつけ本番で大会に挑むなんて面白い先輩だね。はいよ」
出来たての大きなおにぎりと卵焼きが真白の前に置かれた。久しぶりのしっかりした朝食だった。
「じゃ行ってくる」
「気をつけてね。暑いからちゃんと水を飲むんだよ」
母に見送ってもらった真白は富士山5号目まで走り始めた。東京に比べると朝は格段に過ごしやすい。走る上でもそうだ。体にまとわりついてくるような熱気はなく、爽やかな空気が気持ちいい。
しばらく走ったところにある大きな神社に寄った。真白は子供の頃からこの神社が好きで、切り株などに座って本を読んだり、音楽を聴いたり、只々ぼーっとしたりしていた。今日の道中の無事を祈ってから改めて走り始めた。
長い長い坂道を富士山に向かって走り続ける。それでも徐々に大きな頂が近くなってきている…気がする…。中の茶屋というシャワー完備の山小屋を過ぎ、少し荒れ始めた道をまだまだ登り続ける。舗装された道とはいえ斜度はどんどん急になり、ペースは落ちていく。馬返しまではなんとしても走り通すべく必死にもがいている真白は、山頂まで行く選手にとってはまだここは序盤だというのが信じられなかった。
やがて馬返しに到着する。そこではすでにスタッフが給水所の設営を行なっていた。舗装路から未舗装路の登山道に入る場所であり、0号目とも呼ばれている。挨拶をしながら通り過ぎて、石段を上がり、鳥居をくぐると本格的な登山道になる。
綺麗に整備された登山道は高尾の外輪山に比べて幅広く見通しも良い。足場も安定していてまだ初心者の真白にも走りやすく感じた。しかし、ひたすら登りだ。登山道の幅が広いから視覚的に誤認してしまっていたが、最初からそれなりの斜度がある。加えて整備されているとはいえ、木段や岩場が断続的に続いていくので、脚の疲労は蓄積していく。1号目の道標に着く頃には脚がすっかり重くなり走り通すのは無理だった。そこからは走ったり歩いたりを繰り返しながら進んでいく。
キツいながらもその道のりは楽しかった。
所々にある茶屋の跡。江戸時代には遠方から来た登山者の憩いの場となっていたらしい。朽ちた茶屋跡もまだ形は残している。それをジッと見つめていた真白の脳裏に、バスや電車といった公共交通機関なんか無い時代にはるばる歩いてここまで来た旅人が、汗を拭きながら団子やお茶で一服しながら他の旅人とここまでの道中の出来事やこの先の楽しみについて談笑している絵が広がった。
なんだか暖かい気持ちになった真白はフフッと笑って茶屋跡に背を向けると先へと走り始めた。
3号目を過ぎると道は走りやすいとは言えない斜度・足場になった。急なだけではなく岩場も現れた。
これは話に聞いていたよりもタフな道だぞ。
灯からは5号目まではトップ選手達は歩かず全部走り抜くと聞いていたから、もうちょっと走りやすい登山道を想像していた。
ようやく5号目の山小屋に辿り着いた。走れるところは走るのがトレイルランの練習だよと聞いていたから頑張った。そこにはすでに大会スタッフだけじゃなく、見学者が沢山いた。
しばらく5号目の山小屋辺りをうろうろして、山頂まで行く選手たちがヘルメットを受け取る場所の近くで待つことにした真白は少し肌寒さを感じ、汗だくのシャツを着替えてウインドシェルを羽織った。
のんびりおにぎりを食べていると、周囲が動き出した。どうやらもうすぐトップ選手が来るらしい。7時スタートのはずだからまだ1時間ちょっとしか経っていない。周りの人の話を聞くに大会新記録ペースらしい。
真白は田坂から注目選手の名前を聞いていた。
「彼の走りをしっかり見てきなよ。めちゃくちゃカッコいいから。学生時代から陸上長距離をやっていたけど、強豪校にいたわけでもなく無名だったのに、社会人になってから始めたトレイルランで才能を開花させた。もう30代半ばだけど、衰えるどころか力を伸ばしていて、今は世界で戦っている選手。去年の末にはフルマラソンでも実業団選手達とバチバチやりあって注目を集めた社会人最強ランナーとの呼び声高い人だから」
昨年末のマラソンでの活躍は真白も知っている。メディアが大騒ぎだったから。招待選手達に紛れたマラソン界では無名の一般参加の選手が終盤まで先頭集団に食らいついた。最終的には国内外のトップ選手達に敗れたが、ランニングファンの中で一躍時の人となった選手。
真白が田坂の話を思い出しながら、おにぎりを2個平らげて水を飲んでいるとざわめきが起こった。
「トップが来たぞー!」
真白の目に映ったのは涼しい顔で前だけを見据えて向かってくる小柄な選手。息は荒げているが、脚は力強く地面を蹴り、飛ぶように砂地を登ってくる。
給水所手前でリュックから取り出したエナジージェルを一気に3つ摂り、そのまま給水所でコップ2杯の水を飲むとヘルメットを被って駆け上がって行った。
あまりに一瞬の出来事で唖然として見送った真白。彼の放つオーラは強烈だったが、前にも体感したことがある。田坂と会坂が一緒に走った時に会坂が放っていたオーラだ。
「5号目通過は大会新記録だ」
周りからそんな声が聞こえる。
あれが田坂が憧れる選手の1人。社会人最強ランナー。
片桐北斗。
彼の放つ気迫に飲まれて言葉を失った真白は遠くなっていくその背中を只々見送るだけだった。




