やり切る
「さあ、せっかくアップもしたし、僕たちはひと足先に始めるよ」
一緒にアップをするのかと思いきや、別々に動き始めた田坂と会坂。ほけーっと彼女らを見ていた真白は浅川に背中をポンと叩かれた。
「あ、はい。よろしくお願いします」
そうだ。今日は初めての競技場での練習。集中だ。
「1レーンを走るよ。ペースは僕が作るから真白くんは只々後ろをついてきてね」
「はい!」
2人は走り始めた。
普段の練習では出すことのないスピード。半周で真白の息は荒くなる。一方で新しいシューズは軽く、履き心地が良い。
1周して半周ジョギング、また1周して…を繰り返しているうちに半周のジョギングでは苦しさは戻らず、脚も張ってきた。
「さあ残りは半分を切ったよ。ここからだ」
浅川が鼓舞してくれる。
「は、はい。あと4本…」
脚はパンパン、呼吸は苦しい。でも一定時間しか休めない。完全回復する前に次が来る。7本目に入ると真白はジリジリと遅れ始めた。
「真白くん!ここは我慢!今遅れたら追いつけないよ!」
トラックの内側にいた田坂が大きな声を上げる。
負けるもんか!
真白は歯を食いしばって浅川に付いた。
「よし、ラスト一本!」
真白はもう返事をする気力もない。ただ頷いてペースを上げた浅川に付いた。
苦しい、脚が痛い、腕も重い…
あと半分…あと100m…あと50m…
真白は最後の力を振り絞って浅川に並んで走り切った。
「よし!お疲れさま!このままジョギングで半周走って終わりだよ!」
「は、は、はい…」
フラフラで最後のジョギングを終えて、競技場のトラックに倒れ込んだ。青い空を見上げていると、フツフツとやり切った達成感が湧き上がってきた。キツい練習だけどこの気持ちを味わえるならまたやってもいいかな。なんて思っていると、
「真白くん!お疲れさま!次は私だね」
空を仰いでいる真白の顔を田坂が覗き込んできた。
「田坂さん…ありがとうございます。頑張って下さい」
「うん。行ってくる」
田坂は会坂のもとに走っていった。
「真白くん、歩こう。田坂さんを応援しながら」
浅川に声をかけられた真白はむくっと上半身を起こした。
「会坂さんって世界陸上で日本代表だったあの会坂選手ですよね」
会坂由帆
陸上競技にうとい真白でも知っているくらいの超有名人だ。こんな風に一般人に紛れて走っていて良いのだろうかと思うくらい。去年の夏に開催された世界陸上で大活躍したのは記憶に新しい。久しぶりにこの競技場に来たと言っていたが、それが真白達が訪れた日と重なるなんて。
「そうだよ。1,500mで5位、そして5,000mでは激闘の末の4位。日本だけじゃなくて世界を驚かせた選手だよ。今後が楽しみな日本の宝だ」
真白達は最後に設定タイムの確認をしている2人の近くまで歩いていった。
2人の、特にサングラスをかけた会坂のオーラが違う。
真白は田坂に頑張れと声をかけようとしたが、それは無理だった。怖い。
「じゃ行くよ」
「よろしくお願いします!」
2人は走り始めた。
美しい。
田坂はもちろん、特に目を奪ったのは会坂だ。
すらっとした長い手足が規則正しく動く。それでいて動いているのは手足だけ。体は上下にも左右にも全くぶれない。横にスライドしているようだ。すごい速さで走っているはずなのに、むしろゆっくりジョギングしているように見える。
これが世界で戦う選手の走り。
全ての時間を研鑽に費やしている人間の姿。
「真白くん、せっかくだから見学しよう。あの走りを直に見られるチャンスなんて滅多にないから」
そう言って浅川はペットボトルのスポーツドリンクを差し入れてくれた。2人は靴紐を緩めてトラックの内側の人工芝に腰を下ろした。
気付けばトラックで走っているのは2人だけだった。平日の午前中なので利用者は少ないが、その少ない利用者たちも走っているのが会坂だと気付いたらしく、2人の走りに見入っている。勝手に動画を撮っている不届き者もいたので、浅川が管理人さんに話して注意してもらっていた。
2人がやっているメニューは真白と浅川がやったメニューと同じようだ。ただ速さが半端じゃない。真白なら1周も付いていけない。
周回を重ねるごとに田坂の表情が歪んでいく。
「僕らは10本同じペースだったけど、あっちは3本ごとにペースを上げていっているみたいだね。今のが7本目だけど、最初より4秒速い。田坂さんはよく付いているよ。でも…」
7本目の半分あたりから田坂が遅れ始めた。
息が荒いだけではなく、体はぶれて、首も触れている。最初の安定したフォームとは明らかに違う。
一方の会坂は最初と全く変わらない。息は上がっているが、表情もフォームも1本目と変わらない。
「おい田坂!自分から申し出たんだろ!早く来い!」
7本目が終わって遅れてきた田坂に少し前を走る会坂の怒号が飛ぶ。
「はい!」
田坂も負けじと大きな声で返事をする。
8本目、9本目、田坂は半周過ぎから少し遅れるものの食らいついていった。そして最後の1本。
「よし!よくここまできた!ラストだぞ田坂!ちゃんと付いてこいよ!」
「はい!」
最後の1本はまさにダッシュだった。
走り出してからぐんぐん加速する会坂に田坂は全く付いていけない。
全身を使って足掻く田坂に真白は思わず声をかけた。
「田坂さん!あと少しです!やり切りましょう!」
声をかけずにいられなかった。こんな本気を久しぶりに見た。
田坂や会坂に憧れるというよりは、高みに向かってあれほど追い込むことができる精神力に惚れた。
10本目を終えた会坂が、フィニッシュラインで田坂を鼓舞している。
「最後までやり切れ!ここまで来い!」
遅れて10本目を終えてそのままくず折れる田坂を会坂が抱き止めた。
「よくやった!凄いぞ!」
「は、はい…ありゃっとぅっした…」
回らない口で礼を言った田坂はそのままズルズルとトラックの内側の人工芝に倒れ込んだ。
仰向けに寝転がって息を荒げる田坂は満面の笑みを浮かべていた。




