競技場へ
今日で大学に入って初めての定期試験である前期試験が終わった。
試験にノートの持ち込みが可であったり、試験自体がなくて短い論文みたいなのを提出するだけだったり。高校までの試験とのギャップに面くらったが、桜田達から事前に情報を聞いていたので、しっかりと準備をして臨むことができて、まぁ単位も取れただろう。安心して明日からの長い夏休みに入ることができる。
大学生の夏休みは長い。
真白は7月中旬の今日から9月中旬まで休みだ。大学や学部によるが、真白の通っている大学は一般的な長さらしい。
実家には来週から1週間くらい、夏休みが終わる前に2、3日帰る予定。あまり長く部屋を空けると家賃が勿体無いし、当たり前の事ながら宵の明星は真白が夏休みだろうが関係なく営業するから、あまり長くシフトに穴をあけるわけにはいかない。浅川からは"僕はたまに休みをとって実家に帰っているから気にしなくていいよ。田坂さんと話し合って決めてね"と言われた。結果として、7月から8月上旬にかけて順番に休みを取ることになった。田坂は9月は実家に帰らないらしく、真白だけ休みを取る事になる。
「9月にこっちでトラックの記録会があってね、まだ走ってる同級生に声をかけたら出られるみたいだから、一緒に出ることにしたの。3年ぶりのトラックのレースだから楽しみ」
休みを取る順番が決まった後、自分だけ9月も休むのは悪いなぁと恐縮する真白に田坂は嬉しそうにそんな話をした。
明日は朝9時から陸上競技場で浅川、田坂とインターバルトレーニングなるものをする。田坂が記録会に出るという話を聞いた浅川は「出るなら自己ベストを出すつもりでいこう」となぜか気合いが入っている様子。マスター達にも話して、当日は宵の明星みんなで応援に行く事になった。
「トレイルランニングを始めてから定期的に競技場に行っているんだけど、これからは最低でも週に3回は通うつもり。やるからには負けたくないからね。真白くんにも良い練習になるから付き合いなさい」
数日前の仕事中、偉そうに両手を腰に手を当てて仁王立ちした田坂にそう厳命された真白。しかしやぶさかではなかった。競技場でやる練習には興味があったのだ。
その日のバイト帰りに田坂に聞いた。
「なにか用意しておく物はありますか?」
「余裕があるなら薄底の軽いシューズがあれば良いかな。スピードを磨く練習では軽くて自分の脚でしっかり地面を掴んで蹴る感覚を感じられる薄底がよいというのが私を指導してくれた監督の考えで、私の考えでもある」
「どんなシューズが良いのでしょうか」
「とはいえ、真白くんはまだ脚ができていないからクッションはある程度あったほうが良いから、これかな」
田坂がスマホで見せてくれたのは流行りの厚底シューズとは真逆とも言えるような薄いシューズだった。
「これで走って脚は痛くならないのでしょうか。クッションがジョギングで履いているシューズの半分くらいですが」
不安げに画像を見る真白に田坂は続ける。
「ぶっちゃけ今のシューズみたいな形になったのはここ数年で、その前はこういうシューズしかなかったんだよ。負荷は練習メニューで調整するから心配しないで。あと、1,000mのタイムアタックはやってみた?」
「あ、はい。河川敷でやったのですが、3分20秒でした」
「すごいじゃん!じゃあそのタイムを元に設定を考えるからね。浅川さんが」
浅川さんがかい。
まぁ田坂の丸投げはいつもの事か。
「いま頭の中で私の悪口を言ったでしょ」
背を向けて前を歩いていた田坂がグリンと首を回して後ろを歩く真白を睨む。
これはマジでホラーなんだよなぁ…
そんなやり取り後すぐに、真白は田坂におすすめされたシューズをネットで注文した。
そして練習の日。真白は新しいシューズを持って意気揚々と競技場に向かった。
入り口で入場券を買って競技場内に入ると、ベンチやテーブルが並んでいるスタンド下のスペースで浅川と田坂が手を振っている。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
真白が少し緊張してそう言うと、
「よろしくね。今日は400mのトラックを速いスピードで10周、1周走るごとに200mをゆっくり走って回復。そんなメニューをするよ」
浅川がシューズの紐を結びながら説明してくれる。
「あの、俺のペースに合わせたら浅川さん達の練習にならないんじゃ…」
懸念していた事を聞いてみると、
「大丈夫。真白くんのメニューが終わったらガッと追い込むから。むしろ先に少し脚に疲労を溜めてから追い込めるから良い練習になるよ」
田坂が肩周りをグリグリ回しながらそう言ってくれた。
「僕は最近インターバルはやっていないからちょうど良い負荷だよ。じゃあアップして20分後を目安に始めよう」
真白と浅川も体を軽く動かしてからトラック内に入ってジョギングを始めた。
あれやこれや雑談をしながら走って、体が温まって足の動きも滑らかになったら、最後に流しと呼ばれるダッシュを数本やって最後の準備に入った。その時だった。
運命は長身でセミロングヘアーの女性の姿をしてやってきた。
「人違いだったら申し訳ない。もしかして田坂桃子さんですか?」
荷物を置いているスタンド下で靴紐を結び直していた真白がハッとして顔を上げると、田坂と見知らぬ女性が向かい合って立っている。田坂は信じられないとでも言うように目を見開いている。
「違いましたか?」
その女性は、あれ?という表情で歩み寄って来ると、隣に荷物を置きながら再度尋ねてきた。
「はい。田坂です。あの…会坂さんですよね…」
田坂は緊張のあまり何とか蚊の鳴くような声を絞り出している様子。
「やっぱりそうだ!はい。会坂です。随分前だけど伊坂という大学の後輩から話を聞いていたんです。高校時代のライバルが復帰したって。あなたが復帰して以来、伊坂の練習に対する姿勢が少し変わった気がして。いや、元から真面目にやってましたよ。でも一層気合いが入ったというか…だからそのライバルってどんな方か気になっていたんです。あの子、事あるごとにあなたの話をするから。まだ田坂に勝てない…まだ田坂に勝てない…って。どんな子なのかなって気になっていたんです。やっと会えた!よろしくね!」
その会坂なる女性は捲し立てる。田坂は少し引き気味で尋ねる。
「なぜ私が本人だと分かったのですか?」
「ちょっと前に伊坂から連絡が来たんですよ。田坂と記録会で勝負することになったって。彼女はよくこの競技場で練習しているって。どんな子?って聞いたら、美女!としか言わないから。でもさっきこちらの方が田坂さんと呼んでいたのでもしかしたらって。それにほら…私も惚れちゃいそうな美女だ」
どうやら情報源は田坂を記録会に誘った友人らしい。
「今から練習ですか?お一人で?」
田坂が尋ねる。その目はさっきまでの緊張でオロオロしていた目ではなく、挑戦者の目になっていた。
「はい。私は実業団の練習以外に月に2、3回は1人で追い込む練習をするんですよ。今日はたまたま大学時代の監督に用があってこっちに来たんです。待ち合わせは午後からなのでその前に走りに来ました」
隣に荷物を置きながらにこやかに答えた会坂に、田坂は思いもよらぬ言葉をかけた。
「私もご一緒してよろしいですか?」
カバンから道具を取り出していた会坂はピタリと手を止めてスッと目を細めると、ジッと田坂を見つめた。ついさっきまでの気さくな雰囲気は消え去り、張り詰めた空気を纏っている。そして数秒の間のあと口を開いた。
「私は私がやるべき練習をする。あなたに合わせるなんて事はしないよ。それでもいいの?」
「はい。お願いします」
「やるからには最後までやらないと許さないよ」
「はい。やり遂げてみせます」
声も低くなり、口調まで変わった会坂。こっちが競技者の会坂なのだろう。田坂も目を逸らさずにそう答えた。すると会坂は浅川の方を見て尋ねた。
「この子借りていいですか?ちょっと鍛えてやります」
浅川には田坂に向けていた圧は全くない。最初に話しかけてきた時のその歳相応の女の子のような表情だ。
「はい。こちらはこちらでやりますので好きにやって下さい。田坂さん、また後でね」
「はい。我儘言ってすみません」
田坂は真白達に背を向けたまま、会坂と向かい合ったまま答える。握った拳が震えている。背中から湧き上がる闘志が目に見える。
会坂からメニューを聞くと、再度アップのためにトラックを走りに行った。
真白は自分の練習よりもそっちが気になってしょうがなかった。




