田坂の青春 6
田坂が宵の明星でアルバイトを始めて1ヶ月が経った。
姉と一緒に高尾山に登ったのは9月下旬だった。あの頃はまだ暑かったけど、今は夜になると肌寒さを感じるくらいになっている。
走るにはちょうど良い季節になったなぁ。
アルバイトの帰り道、夜空を見上げてふとそんな事を思った。自分に何かを伝えているかのように星が瞬いていた。
走ることはもう辞める。
そう誓ったのにまだ未練がある。
あの日の、あの光景が忘れられない。
沿道で悲痛な顔をして声を上げる後輩たち、誰もいない中継所で堂々と仁王立ちして田坂を見据える東、病院で唇を噛み締めながら田坂の家族に頭を下げる尾白、そして田坂がもう走る事を辞めると言った時の両親と姉の悲しそうな顔。大切なみんなの顔が頭から離れない。
考えてはいけない事を考えてしまった気がして、それを払拭すべくキッと前を見た田坂は、職場での出来事を思い出した。
仕事後に賄いを食べていた田坂はアカネに登山に行こうと誘われた。来週の宵の明星の休業日にみんなで高尾外輪山を歩くらしい。
「お弁当持って、みんなで楽しく歩くんだよ。あ、お弁当はマスター達が作ってくれるから。福利厚生だって。朝早くに歩き始めて、小仏城山で早めのお昼ご飯を食べて、昼過ぎには戻ってくるよ。こないだ桜子ちゃんに聞いたら高尾山の1号路をサクサク歩いていたみたいだし、体力には問題ないから一緒に行こうよ」
登山なら走ることは違うよね…
体を動かす事に飢えていた田坂は参加すると返事をしてしまった。
屁理屈かもしれないけど、職場の付き合いだし、歩くだけだから。
帰宅後に姉にその話をするとえらく喜んだ。おやつ代までくれた。アカネから聞いた持ち物はとりあえず今ある物で間に合いそう。
登山までまだ5日あるし、ちょっと体を動かしておこうかな。これは怪我をしないためであって…ほら、怪我したらバイトのシフトに穴をあける事になるし…なんてボソボソ呟きながらスポーツウェアとランニングシューズをクローゼットから出した田坂を見ていた姉は「素直じゃないなぁ」とため息まじりに独りごちながらも嬉しそうだった。
登山当日は快晴。
一行は高尾山6号路から山頂を経由して小仏城山まで一気に歩いた。登山は初めてだったが、宵の明星の面々が我先に蘊蓄を垂れてくるので、若干キャパオーバー気味になりながらも新しい事を覚えるのは楽しかった。
お弁当をみんなで食べて、写真を撮って、女子トークをして、男子だけ仲間外れにするなとマスターが拗ねて、登山ギアの話になったら浅川が止まらなくなって。みんなの新たな一面が見えただけではなく、純粋に体を動かしている時間が楽しいと思った。
「月末にはまたみんなで山梨の山に行くよ。桃子ちゃんも行くでしょ」
別れ際にアカネに誘われた。行きます!と即答した。
それからアカネや灯と2人で行ったものも含めると1ヶ月で3回は登山に行っただろうか。体を動かしているうちに田坂は走りたいという気持ちを明確に自覚していた。とにかく走ることから逃げたいという以前の気持ちとはまるで違う、そして抑えられない気持ち。でも、登山は自分の中で付き合いだからと腹落ちする理由を付けられても、走るという行為に踏み込む事に躊躇していた。みんなの励ましに背を向けたのに、今になってやっぱりやるなんて虫が良すぎる気がした。
そんな田坂の気持ちを見透かしているかのように東からメッセージが届いた。
"田坂!バイト始めたんだって?今度その店でご飯食べようよ!伊坂とも会おうって話してるんだ"
ひがし…あんたはなんてタイミングで…
"うん。来週の土曜日はどう?"
田坂が返信するとすぐに東から返ってきた。
"おぉ!やっと会えるな!何としても行く!伊坂も連れていくからな!楽しみにしてる!"
尾白から仲間とは会ってないのかと聞かれた時に田坂は動揺した。何度かもらった誘いを、なんとなく気まずくて全部断っていたから。田坂は卒業後は元チームメイトから距離を置いていた。そんな彼女を懲りずに誘ってくれる東や伊坂。田坂はいかに自分が幸せかを改めて痛感した。
時間を決めてから灯に連絡し、いつもの奥の席を確保してもらった。田坂は楽しみと緊張と不安の入り混じった気持ちでその日を迎えた。
待ち合わせ時間より20分くらい早く店に着いた田坂は、予約してある席に座ってソワソワしていた。
「田坂さん、これでも飲んで」
浅川がこっそりハーブティーを出してくれた。
「一息ついて、落ち着いて。せっかく大切な友達と食事をするんだから。美味しいもの食べて、楽しく話せばいいんだよ」
にっこり笑いながらそう言ってくれた浅川。この人は何人の女性を虜にしているんだろうか。そんな事を思いながらも、ありがたくお茶を頂いた。爽やかなハーブの香りで気持ちが和らいだ。
時間ぴったりに2人が一緒にやってきた。
「あ、田坂だー!久しぶり!」
田坂を見つけるなり伊坂が駆け寄ってきた。
「店の中で走らない!これだから学生は…」
東に嗜められた伊坂は苦々しげに言いかえす。
「社会人歴たかだか数ヶ月の小娘が偉そうじゃん」
「はあ?」「なんだよ?」
早速おっ始めそうな2人の頭を田坂はペチン、パチンと叩く。
「うちの店で騒いだら出禁だよ。分かったら早く座る」
「「ごめん…」」
田坂に怒られた2人はちょっぴりシュンとしておとなしく座る。
学生時代の親の顔より見た光景。
一瞬の時を置いて、3人同時に吹き出す。
「「「ぷっ…あっはっはっは!変わんないね私たちはー」」」
「お嬢さん方、田坂ちゃんのお友達?来てくれてありがとうね。ゆっくりしていって。田坂ちゃん、メニューの説明よろしくね」
灯が人数分の水とおしぼり、メニューを持ってきた。
「「はい!ありがとうございます」」
東と伊坂はぺこりと頭を下げた。
3人でワイワイ話しながらメニューを見て注文した。料理が来るまでは2人の近況を聞いた。ここまで怪我もなく、新しい環境にも慣れて、メキメキ力をつけてきているらしい。
「うちの大学には会坂さんがいるからね。めちゃくちゃストイックなあの人に引っ張られてみんな力をつけてるんだよ」
伊坂が先輩自慢をする。田坂も知っている超有名選手だ。今年の日本選手権では1,500mと5,000mで実業団選手を抑えて優勝。5,000mでは従来の記録を10秒縮める驚異的な日本新記録を出した。2冠を達成した時のゴール後のパフォーマンスで彼女の憧れであるらしい往年の男子1,500m世界最強ランナーのものを真似したことも話題になった。
「今の私じゃ歯が立たなかったよ。1,500mは自己ベストも出たしまだ形にはなったんだけど、5,000mはレベルが違いすぎた。でも日本新記録を肌で感じられたし、凄く面白かった!会坂さんは来年は実業団で出てくるだろうから、また5,000mで勝負しようと思ってる。それまでにどれだけ差を縮められるかだな」
悔しそうな東。しかし彼女は高校生の頃から無茶な目標は立てない。頑張れば達成可能な目標を立てて、着実に達成していく。たった一年の研鑽では会坂の足元にも及ばないのは一緒に走った彼女が一番分かっているのだろう。
「東ならいつか会坂さんのライバルになりそう。私も記録は伸ばしているから、来年は日本選手権出場を目指して頑張るよ!」
伊坂も憧れの先輩ができて、やる気に満ち溢れているようだ。
2人は過去を振り返らない。
今を生きている。未来を見ている。
私だけ過去に固執するのはもうやめよう。
2人の活力に満ちた話が田坂の心に力を注いだ。
この流れで話してしまおう。
「あのね!わ、私もまた走りたいなって…」
若干尻窄みになった田坂の発言を聞いた2人が目を剥く。
「2人はトレイルランは知ってるよね。このお店の先輩に誘われて…は、始めてみようかなって。あの…今更なんだけど…ま、また走りたくなったの!」
2人は真剣な目で田坂の顔を凝視している。
やっぱり都合良すぎだよね。あれだけ説得してくれたのを頑なに無碍にしておいて…
シュンと下を向く田坂。
数秒しても2人は一言も発しない。怒らせちゃったと思った田坂がおずおずと顔を上げると、
「「た、田坂…」」
2人とも涙をボロボロ流していた。
「え?」
キョトンとした田坂を抱きしめたのは隣に座っている伊坂。
うわーん!と声を上げて泣くのは正面に座っている東。
店が空いていて良かった…
そんな事を思いながらもらい泣きして鼻を啜る田坂。
「東!みんなに連絡だ!田坂復帰だ!」
「おう!もう打ってる!」
とりあえず2人ともカムバックを歓迎してくれたらしい。安心した田坂の前に料理が運ばれてきた。
料理を食べている間に仲間達から次から次に返信が来た。
みな田坂復帰を喜ぶものだった。
食べながも色々な話をした。
過去じゃなくて今の話。未来の話。
田坂は誓った。
今度は、トレイルランニングは徹底的にやる。
目の前の2人を含め、自分の復帰を待っていてくれた元チームメイト達に自分の活躍が届くように。
会計を終えて店を出る3人に浅川が声をかけた。
「ありがとうございます。またみんなで来てね。これからも田坂さんをよろしく」
保護者か!と思った。
帰り道、2人がニヤニヤしていた。
「どうしたの?2人とも」
訝る田坂。
「田坂、まぁ、あれだ。あの人は恋愛経験のないお前にはハードルが高いかもしれないけど…」
「いや、あの人は誰が相手でも合わせてくれるよ」
なんか話が読めてきた。
「浅川さんはただのバイトの先輩で、そんなんじゃ…」
はいはいと流された田坂の反論。だって田坂の顔は真っ赤だったから。
トレイルランだけでなく、恋が始まった事もバレた田坂。でもその心は晴れやかだった。
モノクロになっていた田坂の時間が彩りを取り戻した日だった。




