宵の明星の夜
「2人ともちょっと待っててね!あたしとマスターも一緒に食べるから。田坂ちゃん、もう閉めちゃっていいよ」
灯が厨房からひょっこりと顔を出して言う。時刻は20時40分。宵の明星は21時までの営業と謳っているが、客の入り状況や単なる気まぐれで少し早く閉める時がある。"それっていいんですか?"と聞いた真白に灯は"あたし達の店なんだからいいの。それにラストオーダーが20時30分だからそれ以降の入店はお断りしてるんだよ"なんて言っていた。
「ねぇ、2人とも賄いでいい?ご馳走するからさぁ。いっぺんに作っちゃうのが楽なんだよ。今日はお雑煮うどんにしようと思ってるんだけど」
灯が水を2つ持って厨房から出て来た。カツカレーは惜しいが、お雑煮うどんは初めてのメニューだ。魚の気分と言っていたニコラも目をキラキラさせてブンブンと首を縦に振っている。
「あ、日向くんはカツカレーって言っていたけど…」
ニコラがチラッと真白を見る。
「いえ、次回の楽しみにします。問題ありません」
2人の反応を見た灯は一つ頷くと、サッと踵を返して厨房へ向かう。
「オッケー!ちょっと待っていてね。田坂ちゃん、ホールの締めよろしく」
「はーい」
レジ締めを始めた田坂。そのあとでホールの掃除が控えている。それを見た真白は何だか居心地が悪くなり立ち上がる。
「田坂さん、掃除は俺がやります」
キョトンとした顔をして真白を見る田坂。
「え?いいよ。ニコラちゃんを構ってなよ」
「それは大丈夫です。それに早く賄い食べたいので」
「え?構うとか大丈夫とか言って!私が面倒な奴みたいじゃん!」
ニコラがプリプリ怒る。
「じゃあニコラ先輩はこれでテーブル拭いて下さい」
真白からスプレーと布巾を渡されたニコラ。
「なんで私が!」
「賄い食べるんだからそれくらいやりましょうよ」
「ぐっ…分かったよ」
「やり方はわかりますか?」
「当たり前じゃん!何回か手伝った事あるし!」
でかい事を言うだけあって彼女の手際は良かった。手抜きもせず、丁寧にテーブルを拭いている。真白も負けじと丁寧にフロアの掃除をした。
「2人ともありがとう。こっちは終わったから着替えてくるね」
田坂が厨房に消えると、真白とニコラは改めて席につく。
「いい匂いがしてきましたね。ん?ニコラ先輩もしかして緊張してるんですか?」
「あ、うん。少しね。みんながいるからちゃんと話せると思うけど」
「大丈夫ですよ。あれこれ考えずにみんなで美味しく賄いを食べましょう」
「うん。ありがとう」
少しして着替えを終えた田坂がやってきた。
「お待たせ。賄いももうすぐできるって。2人とも急にどうしたの?」
田坂は不思議そうな顔をして真白の横に座る。
タイミングは今。こういうのは勢いだ?
「あのね、この間日向くんとトレイルランの練習の話をしている時にね、田坂ちゃんが学生時代に陸上で有名な選手だったってペラペラ話しちゃってね。田坂ちゃんはその事をあまり話したがってなかったの知ってるのに。ごめんね」
ニコラがテーブルを見つめながら一気に話す。そしてしばしの沈黙。たまりかねたニコラがチラッと目を田坂に向けると、
「まったく。このおしゃべり。高校の頃のことは思い出したくないのに。まぁ真白くんならいいよ。どうせいずれ詳しく話しただろうし」
頬杖をつきながら不機嫌そうに田坂が答える。やっぱり何か嫌なことがあったらしい。
「あの…田坂ちゃん…本当にごめんね…」
消え入りそうな声でニコラが呟く。
「いいって。悪気があったわけじゃないって分かってるし、そんなに重い話じゃないから」
そう言って田坂はニコラの肩をポンポンと叩いた。
「ありがとう。田坂ちゃん」
目尻を拭いながらニコラが笑った。
「もう、やめてよニコラちゃん。もう吹っ切れてるんだから」
田坂がそう言ったタイミングでマスター夫婦が賄いを持ってくる。
「取り込み中悪いな。こいつは熱いうちに食うのが一番だからさ。うどんも餅も汁もお変わりあるからな」
マスターがお雑煮うどんの乗った大きなトレイを。灯が漬物と麦茶の乗った同じく大きなトレイを隣のテーブルに置いた。
立ちあがろうとした田坂とニコラを制して真白は率先して並べるのを手伝った。これは自分の仕事だと思った。
「みんなお待たせ!じゃあ食べよう!いただきます」
灯の号令でみんなでいただきますをすると楽しい時間が始まった。
ニコラもすっかりいつもの調子を取り戻して元気に餅を喉に詰まらせて悶えている。
灯がゲラゲラ笑いながらニコラの背中をさすっている。
マスターは慌てて"水を飲め!もっとだ!"とニコラの口に麦茶を流し込もうとしている。
田坂は完全無視で頬を赤らめながらうどんを堪能している。
宵の明星の賑やかな夜だった。
真白にはその空間がキラキラと輝いて見えた。




