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真白-ましろ-  作者: 格之進


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記憶

帰宅したらすでに日付が変わっていた。


シャワーを浴び、一息ついてから床についたのは深夜だったが、寝つきが良かったからか目覚めもすごく良かった。


軽くジョギングをしてから、シャワーを浴びて、ブランチなるものを食べてから大学に向かった。


今日も日差しが強烈だ。さっきジョギングをしたが、ギラギラと照りつける太陽の光からは殺意すら感じた。これでまだ7月だ。一年で最も暑いとされている8月にはどんな圧をかけてくるのだろうか。原付に跨りながら赤信号に捕まった真白は前カゴに入れているリュックからタオルを取り出して汗を拭った。


大学に着くと、足早に運動部や体育関係の授業を受ける学生が使用する更衣室に向かった。


7月に入ってから急激に気温が上がった。今日なんか朝のジョギングをした時は26℃。そして今は31℃。

ここ数年の夏の猛暑を考えるとまだ序の口だが、汗っかきの真白は通学するだけで汗だくになる。シャツなんてビシャビシャで、そのまま講義を受けたら冷房でシャツがキンキンに冷えて風邪をひくだろう。だから大学到着後すぐに着替える事にしている。


更衣室にはシャワーや鍵付きのロッカーはないが、カラーボックスくらいは設置されていて換気も良く、着替えるだけなら十分すぎる環境だ。午後の16時くらいからは運動部の学生で混雑するが、日中に使用するのは体育関係の講義を受講する学生のみだから空いている。真白はシャツを脱ぐとしっかりと汗を拭き、ボディペーパーで再度拭き上げることで周りの学生に臭いで不快な思いをさせる事のないよう配慮をしたあと、新しいシャツを着て講堂に向かった。


講義を受けている最中も早く宵の明星に行きたい気持ちでいっぱいだった。今日は18時30分まで講義が入っているから、それが終わったら一度帰宅してから徒歩で店に向かう予定。ニコラも昨日の別れ際の様子からして心配いらないだろう。彼女が田坂と楽しく食事ができるように自分は出しゃばらず見守ろうと思っている。


今受講中の講義は心理学。


あまり板書をせず、講師を務める教授自らが執筆した本を読みながら進めていくスタイルの講義は、興味がないものには子守唄にしか聞こえないもので、約半数の学生は気持ちよさそうに眠っている。当の教授はそんな事気にも止めず自分の世界に入って気持ちよさそうに喋っている。


いつもなら真白も必死に眠気と戦うか、とっとと諦めて仮眠時間と割り切っているが、今日の講義は興味を惹かれるものであった。


教授が話しているのは「しろくま実験」なるもの。


アメリカの心理学者が1980年代後半に行ったこの実験は、人の内層心理の反応の一つを表したものだ。


被験者を3つのグループに分けて、それぞれに同じしろくまの映像を見せる。


一つ目のグループには、しろくまの事をしっかりと覚えておくように伝えた。


二つ目のグループには、しろくまの事は覚えていても忘れてもいいと伝えた。


三つ目のグループには、しろくまのことは絶対に忘れるように伝えた。


一年後に被験者にしろくまの映像に関して聞くと、一番よく覚えていたのは、絶対に忘れるようにと伝えられていた三つ目のグループにいた面々だった。


それにより、人は忘れよう忘れようと考えるほど、その対象は記憶に深く残ってしまうという事が証明された。


というものだ。


教授は、


「皆さんの中に、大事な日の前日に眠れなくなる方はいませんか?寝よう寝よう、寝なくちゃ寝なくちゃと思うほど覚醒という沼にハマっていきます。羊を数える事は逆に脳を活性化させているのではとも言えるのではないかと私は考えます。羊のカウントがトリガーになり、そこから人は様々な事に思考を巡らせてしまうのです。しろくま実験もそうでしょう。忘れなくてはと思うと、それがトリガーとなりどうやったら忘れられるかひたすら考えます。結果としてその過程は忘れてもトリガーとなった部分はより深く記憶として残るのです」


今の真白にとってはすごくタイムリーな話だった。


過去の自分を忘れようとしていた。だからより鮮明に記憶に残り続けてきた。でも灯は過去の自分も大切にしなさいと言った。忘れなくても良いと言った。その言葉を聞いてからまだ半日ほどしか経っていないが、以前よりも過去の自分を思い出した時の重さが軽減している気がする。これは忘れていくというよりは、自分の中に記憶が溶け込んでいくに近い感覚だ。この先も綺麗さっぱり忘れる事はないだろう。でも、今までのように向き合うように立つのではなく、今の自分の一部として付き合っていけたらと思う。


教授は続けた。


「忘れてしまいたい事は皆あるでしょう。私にもあります。しかしこの実験で証明された通り、その気持ちが強いほど裏腹な結果が待っています。なので私は提案したい。ならば忘れたくても忘れられないくらいの良い記憶を上書きすれば良いと。皆さんはこれから沢山の困難に直面して嫌な思いをたくさんするでしょう。でもそんな時こそそこで立ち止まるべきではない。好きなことや楽しみを探して歩みを進めるべきです。そしてどんどん上書きするのです。そうすれば忘れたい事は忘れられなくても、それらを思い出す前に直近の楽しい事を考えられる事でしょう。これを私はメモリーマネジメントと呼びます。繰り返しますが、忘れられない事は忘れなくても良いのです。それだけで終わりにしない事が大切です」


真白には今から楽しみがたくさんある。


夏に行く甲斐駒ヶ岳登山、毎年秋にやるという宵の明星キャンプ、初めてのトレイルラン大会参加。それらのビッグイベント以外にも、日々の生活やアルバイトも充実したものになっている。


それらを思いっきり楽しもうと思った。


過去の自分を忘れるためじゃない。ただ今を楽しみたい。今が楽しい。それだけ。


心理学の講義を終えた真白は、あと二つ残った講義をすっぽかして宵の明星に向かいたくなった。


でもそれはダメ。


教授も言っていた。


やるべき事をやってこそ、楽しみはより甘美なものになる。と。


次の講義が行われる講堂は隣の棟にある。


午後になっても変わらないパワーで真白を照らしている日差しと、暑さなんかものともしない気合いが入った蝉時雨の中を、負けないくらい逞しい顔をした真白が歩いて行った。

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