次の目標
日向山登山を終えた真白は、体力には問題ないという事で秋に浅川達とトレイルランニングの大会に出る事になった。
高尾外輪山を浅川や田坂に付いて何度か走ったりしていたが、レースというものに挑むのは初めて。浅川からは走り易くて楽しいレースをいくつか送るから、サイト上の詳細をよく見て考えてと言われた。
日向山から帰宅した日の夜に、浅川から3つの大会のURLが送られてきた。
灯曰く、初めてなら長くても20kmくらいが無理なく走れる距離らしい。
洗濯と夕食を終えた真白は、明日の講義の準備を済ませると早速送られてきたURLを開く。
それぞれのサイトを見ると、メインは長いものだと100kmのレースもあるが、どのレースも20キロ前後のカテゴリーも併せて設けられていた。
コースマップや高低図を見たが、難易度の違いはさっぱり分からない。まぁ初めてなんだし、せっかくだったら小旅行感覚で遠くに行ってみたいと思った真白は、長野県と新潟県の間くらいの山で行われるレースを選んだ。距離は約20km。登山道や林道だけではなく、冬季にはスキー場となるゲレンデも走るらしい。
ベッドに寝そべってスマホをいじりながらそこまで決めたら急に眠気が襲ってきて、いつもよりも少し早い時間に眠りについた。
いつもの時間に起きた真白は、スマホに田坂からメッセージが来ている事に気付く。
"大会に出る事にしたんだって?どれに出るか決めたら教えてね。私も出るから。夏は練習頑張ろうね!"
田坂はトレイルランニング界では注目されているそうだ。彼女は謙遜しているが、今年の春に行われた大きな大会で初参加にして総合入賞を果たしたらしい。
そんな田坂や田坂を鍛えた宵の明星のみんなが鍛えてくれるなら頑張らないわけにいかない。
"出るレースは決まりました。今日大学でニコラ先輩と会うので、そこで改めて相談して確定しようと思います。練習よろしくお願いします"
"はーい!決まったらすぐに教えてよ!楽しみにしてるねー"
なんか朝からやたらと気合いが入るやり取りだったな。シャッキリ目が覚めた真白はしっかり朝食を摂って通学した。
ソワソワしながら午前中の講義を終えると一目散に学食に向かった。今日ほど早くニコラに会いたいと思った日はない。
「日向くん」
学食の入り口でニコラと鉢合わせた。
「あ、ニコラ先輩。レース決めました」
「オッケー。じゃ食べながら話そう」
2人は食券を買ってテーブルに向かった。真白はカバンを置いて水を取りに行く。
「ありがとう。で、どのレースにしたの?」
水の入ったコップをニコラと自分の前に置いた真白にスマホで浅川チョイスの大会のURLを表示させながらニコラが尋ねる。
「この戸隠というところを走る大会にします」
「なんでこれにしたの?」
「トレイルや林道だけじゃなくて、スキー場も走るとありました。色々な道を走った方が楽しいので良いなと思いました。それに完走率が一番高かったので、初めてにはちょうど良いのかなと。あと、せっかく行くのだから、美味しい物を食べて帰りたいです。戸隠なら蕎麦が有名ですから。蕎麦は好物なんです」
一気に喋った真白。どうだろうか…とニコラの顔を伺うと、
「すごく良いね。それだけ出たいって理由があるなら練習も頑張れるよ。それにレース後の楽しみを作っていることが最高!私も蕎麦は大好きだから」
「じゃあニコラ先輩も一緒に出てくれますか?」
「うん。早速浅川さんと田坂ちゃんに言っておきなよ。あ、それから、今回はお店休んで宵の明星みんなで行くって。マスターや灯さんも出るらしいよ」
「本当ですか?それはすごく楽しみです!でもお店休んじゃっていいんでしょうか」
「いいんじゃない?好きな時に休みたいから自分で商売する事にしたって以前姉さんが言っていたし」
「灯さんらしいですね。すぐに浅川さんと田坂さんに連絡しますね」
「うん。日向くんの注文も私が取ってきてあげるよ。だから灯さんにも連絡しておいて」
「ありがとうございます。お願いします」
真白はメッセージ作成に集中し、ニコラは席を立った。
3人にメッセージを送信し終えたタイミングで、ニコラが真白の分の注文の品をテーブルに置く。
「済んだ?」
「はい。ありがとうございます。今日帰ったらエントリーします。カテゴリーが3つあって、一番長いのは60kmですが、ニコラ先輩達は長いのに出るんですか?」
「私も日向くんと同じ20kmに出るよ。多分マスターと姉さんも。浅川さんと田坂ちゃんは長いのに出るんじゃないかな」
「俺だけ20kmじゃなくてよかったです。今日から頑張って練習しなきゃ」
ふんす!と鼻息荒く決意表明をして、いただきます!と勢いよく食事を始めた真白。
そんな真白にニコラが笑顔で話しかけた。
「日向くんはまだ入学して数ヶ月だけど随分雰囲気が変わったよね。私は最初の桜田ツアーで入学したばかりの君を見ているからよく分かる。あの時は何となく学校に来ている感じだったけど、今は活き活きしてるように見えるね」
ニコラが真面目な話をしている…
衝撃のあまりポロッと箸で掴んでいた豚の生姜焼きを皿に落とした。
「なに?どうしたの?」
「真面目なニコラ先輩はすごく頭が良さそうです」
ニコラは目を瞬かせて、数秒のフリーズ。
「ねぇ!今のはいつもの私はバカって事だよね!日向くん!ねぇ!」
あ、いつものニコラに戻った。
「そうそう。これこれ」
あ、心の声が…
「え?!何?これこれって!」
ニコラの耳はしっかりそれを拾っていた。そして身を乗り出してわめく。
「いえ、何でもありません。話は変わりますが、夏は暑くて走れる環境じゃないと思うのですが、皆さんはどういう練習をされているんですか?」
右手を前にかざしてニコラの勢いを削ぎながら尋ねた。
「昼間に長い距離を走ったり、高尾外輪山に入るのは危険かな…」
以下ニコラが浅川から教わった事。
・昨今の夏場の日本の気温は異常で、日中の屋外での長時間の運動は簡単に言えば体を虐めているだけ。
・夏は気圧の関係で平地でも摂取できる酸素量は少ないため、同じ運動量でも涼しい季節よりも高い負荷がかかる。
・アクセスの悪い里山は水場が少なく、大量に水分を持っていかないと危険。
といったことを加味して、チーム宵の明星が考えたメニューは、
・繋ぎのジョギングや距離走は早朝か夕方に
→体の負担を少しでも減らすため。早朝でも暑いから、必ず水分とお金を持って走る。自動販売機の場所は特に要チェック。水分を摂るか迷ったら摂る。
・トレイル練習はエスケープルートと水場を熟知している所に限る
・心肺を追い込む練習やスピードを出す練習は、時短で追い込めるショートインターバル
→日中に練習をするならこれ!
との事。
陸上経験のない真白には少し難しい話だが、浅川達と走るようになってからは用語等を少しずつ勉強しているため興味はある。
「ちゃんと計画を立てて練習をした方がやる気も出るし、効果も上がるよ」
ニコラはそう言うが、真白にはそこまでの知識はない。
「不安なら田坂ちゃんに聞いてみなよ。田坂ちゃんは高校まで陸上部で長距離をバリバリやっていたんだよ」
ニコラは嬉しそうに続ける。
「田坂ちゃんは高校時代はインターハイで全国大会出場をした事もあるくらいの実力者だったんだよ。実業団や大学からオファーもあったんだって」
「初めて聞きました。田坂さんには陸上経験があるとは教えてもらいましたがそこまで有名だったなんて。でも大学ではやっていないんですね」
「そうそう。高校2年生まではね。でも高校3年生でいきなり辞めちゃったんだよ。まぁあれは田坂ちゃんのせいじゃないんだけど…あ…」
ハッとした顔…いや、やっちまった…という顔をしたニコラ。ものすごく悲しそうな目を真白に向けたのち、下を向いた。
「田坂ちゃんに陸上経験があるっていうのは田坂ちゃん本人から聞いたの?」
ニコラが上目遣いで恐る恐る聞いてきた。
「はい。バイト帰りにどんな練習をしたら良いか相談したら凄く詳しく教えてくれたので、こちらから陸上経験があるのか聞いたんです」
それを聞いてニコラはホッとしたようだった。
「なら大丈夫だね。本人に直接聞いてみてよ。私がペラペラ話して良い事じゃないと思うから」
「分かりました…」
そう言った真白は空気が変わったのを感じた。前に座るニコラが肩を震わせながら唇を噛み締めていたのだ。
「まったくこのバカ女は…」
ニコラが吐き捨てるように小さく小さく呟いたその言葉からは、憤り、悲しみ、悔しさ、全ての負の感情が溶け込んだ苦味がした。
「あの…ニコラ先輩?」
「あ、ごめんごめん。私はもう行くね。また一緒に練習しよう」
「あ、はい…」
そう言っていそいそと学食を後にしたニコラの去り際の顔は泣き顔に近いものだった。
あんな顔のニコラ初めて見たし、見たくなかった。
何か変な事を言ってしまったか?
ニコラが座っていた正面の席を見つめながら真白は混乱してしばらく立ち上がれなかった。




