日向山 2
その後も2人は歩き続けた。
ジワジワとペースが上がっていく。
息が上る。
ペースはまだ上がる。
これ以上の速さには付いていけない。
そう思った。
のが少し前。
真白の前には浅川の背中がある。
ちゃんと付いていっている。
息を荒げながら、あれ?浅川さんもキツかったのかな?急に話さなくなったし。なんて思って顔をみると涼しい顔をしている。
浅川は真白が付いてこられる絶妙な速さで歩いてくれていた。
ペースを上げながら真白の表情や息遣いを確認して、真白にとって楽じゃないけどキツすぎないというペースを見つけてその速さを正確に刻んでくれている。
木段を淡々と登っていく浅川から声がかかった。
「真白くん、ちょっとペースを落とすから水を飲もう」
あ、夢中で水分補給を忘れていた…
この人はどれだけの事を同時に見ているんだろう。
「はい。浅川さんも水分摂ってますか?」
そう聞くと、
「うん。このソフトフラスクならペースを落とさなくても水を飲みやすいからこまめに摂ってるよ」
田坂も使ってるやつだ。次のバイト代で絶対にあれを買おうと誓った。
「浅川さんはレースではこのような坂も走るんですか?」
ペースを落としてもらって水分補給をした真白が尋ねると、
「まぁ距離やコースによるけど、50kmくらいのレースなら走るかな。登山道を走るのがトレイルランニングなんだよ」
海の水は塩っぱいんだよ。というかのようにサラッと答えた浅川に真白は驚愕した。
いや、登山道を走るのは分かるけど、この斜度の坂を?
「あの、疑ってるわけじゃないのですが、走ってもらってもいいですか?」
ちょっぴり挑戦的な口調で頼んでみたのには訳がある。今まで数回浅川や田坂と高尾外輪山で練習をしたが、2人がこれほどの傾斜の坂を走っているのを見たことがなかったのだ。
「いいよ。真白くんもちょっと付いてきてごらん」
真白が水筒をしまったのを確認した浅川が走り始めた。
マジで走っている。
歩いている時とは比べ物にならないスピード。
でも浅川の息はそこまで乱れていない。
フッ、フッ、フッと規則的に息を吐きながら、トントントンとリズムを変えずにつま先で着地しながら飛ぶように走っていく。
真白も頑張る。ドタドタした不細工な走り方で。
一気に上がる心拍数。
息が上がる。
酸素が足りない。
脚が…太ももが…ふくらはぎが…破裂する…
一気に浅川との距離が広がる。まるで真白が逆走しているかのように。
もうダメだ…
葛折のカーブを曲がったところで力尽きて膝に手を当ててゼーゼー息を荒げる真白が顔を上げると、浅川がこっちを見て立っていた。
暗緑色のエネルギーに満ち溢れた葉の間から差し込む陽光がスポットライトのように浅川を照らしていた。
憧れの人や、目標なんてなかった真白にたった今明確な目標ができた。
あの人に追いつく。
そんな真白の決意を知ってか知らずか、浅川からの声が飛ぶ。
「真白くん、もう終わりか?」
その浅川の目は、"かかってこいよ"と言っているように見えた。
重たい脚を引き摺るように浅川に追いついた真白。その様子を見た浅川がリュックから取り出した塩タブレットを差し出した。
「あ、ありがとうございます。少ししか走っていないのにこんなに辛いなんて…脚がパンパンです」
浅川はカラカラと笑いながら、息を荒げる真白の肩をポンポンと叩く。
「歩きながら話そうか。あ、水も飲んでね」
真白は悔しかった。
彼なりにこの登山を楽しみにしていた。何しろ登山の手ほどきをしてくれている師匠とも呼べる浅川との初めての遠征登山だ。成長したところを見せて、感心させてやろうと思っていた。
なのにこの不甲斐ない男は誰だ?
弱い犬ほどよく吠えるという言葉がよく似合うような言動をとって怒られ、歩いても走っても気を遣われてばかり。
自分で自分を殴りたい気持ちを唇をギュッと噛み締めて我慢していると、
「しかし真白くんは成長したね」
さっきまでのスピードは幻だったかのようにのんびり歩きながらエナジーバーを齧る浅川から声がかかった。
「しっかり研鑽を積んできた真白くんにこれあげる」
浅川からチョコレート味のエナジーバーをもらって、同じように齧る。
「ありがとうございます。でも、もうちょっと頑張れると思っていました…浅川さんなんか息も上がっていないし。散歩みたいなもんですよね」
しゅんとしてエナジーバーを齧る真白に浅川は苦笑いを浮かべる。
「まぁそうだね。まぁベストペースに付いて来られたら僕の立場がないよ。真白くんよりもどれだけ長く山をやってると思う?まだまだ負けてらんないよ」
「そういうものでしょうか。何度か浅川さんや田坂さんの練習にご一緒させてもらって、足を引っ張ってばかりだったからちょっとはマシにならないとと思って頑張ったんですが…」
「マシになってるよ。初めて一緒に山歩きした時とは別人だ。さっき登山者に腹を立てたのも、真白くんが日頃から山で他人を気遣う言動をとっている証拠。だからちゃんとしない奴が目についたんだ。体力も精神面も向上してるよ。自信持ちな」
浅川の言葉は真白の言って欲しかった言葉だったらしく、泣きそうになった。
「この階段面白いよね。タイヤが埋まっているんだよ」
浅川が足元を指差しながら言う。真白がその先を見ると、薄切りにされたタイヤが木段に混じって埋まっていた。
「本当だ。なんでこんな事をするのでしょう」
まじまじとそれを見ながら真白が尋ねる。
「うん。これは登山道保護のためだよ。土壌が脆弱な箇所にタイヤを埋めて土を詰める事で、土砂の流出を抑えて登山道がすり鉢状になるのを防ぐんだ」
「以前ニコラ先輩から木材を使って橋を作ったり、階段状に積んだりして土砂の流出を防ぐと聞きましたが、同じ目的でしょうか」
「うん。その通り。タイヤを使う理由は、正確には作業をした人に聞かないと分からないけど、一般的には廃タイヤを利用するから資源の節約になるのと、木材よりも劣化しにくい事かな」
「登山道も誰かが試行錯誤しながら整備しているのですね。浅川さんに言われなかったら気にも留めなかったかもしれません」
「そんなもんだよ。色々な事に疑問を持って調べてみるのも楽しいから意識してみてね」
「はい。それにしても坂より階段のほうがやっぱり疲れますね」
「うん。脚を高く上げないといけないし、体重を踏み込んだ脚以外に分散できないからね。さっきの足場が悪いところと同じように少しでも楽できる歩き方を心がけてみてよ」
今はゆっくり歩いているから会話する余裕ができた。
タイヤの話から始まり、浅川から色々な事を聞きながら歩いた。
楽な歩き方、ロードとトレイルの走り方の違い、ソフトフラスクの値段や使い方。
途切れる事なく会話をしていると周囲の様子が変わってきた。
木が細く低くなり、数も減ってきた。
その代わり一面に笹が生い茂っている。
「何か周りの雰囲気が変わりましたね」
キョロキョロしながら真白が呟く。
「もう1,600mに近いところまで上がってきたからね。この辺りの山域は1,500mを越えたあたりから植生が目に見えて変わってくるんだ。来月にみんなで行く甲斐駒ヶ岳みたいな3,000m近い山になると、山頂付近は何にもなくなるよ」
「木が無くなるんですか?山なのに?」
「うん。森林限界って言ってね…あ、もう山頂だ。この話はまたその時に。さあ、真白くん、その木を潜ったところが山頂。先にどうぞ」
浅川に前を譲ってもらった真白が胸くらいの高さにある木の枝を潜ると、信じられない光景が広がっていた。
何にもない。
一面真っ白な砂で覆われた地面。
目の前は180°視界が開けていて、左には日向山よりも高い山々が聳え立っていて、右を見ると眼下に北杜市の町並みが広がっている。
正面から奥に向かって斜めに切れ落ちている斜面は断崖絶壁ではないが、脚を滑らせたら遥か下まで一気に滑り落ちるだろう。
天空の砂浜とはよく言ったもので、白い砂を手に取るとまさに海岸のそれと同じ手触りだった。
夢を見ているかのような美しい景色だけでなく、山の厳しさという現実を見せつけるかのような荘厳さも併せ持つ。標高だけ見れば低山に部類されるであろう日向山だが、山の魅力は高さだけではないという事を体現しているように思った。
「凄いだろ。正にオンリーワンの絶景だよ」
浅川が横に並んで呟いた。
「あの辺りが比較的平らだから、場所取りをして2人を待とう」
浅川に促されて街が見下ろせる方に向かった。
「真白くん、リュックはそこに置いてあっちに行ってみよう」
自分のリュックを下ろした浅川が反対側、山々を臨める側を指差して歩いていくので、真白もそれに続く。
「あれが甲斐駒ヶ岳だ」
目の前にはゴツゴツした荒々しい様相の高い高い山が聳え立っていた。
「来月はあれに登るんだ。楽しみだな」
その言葉を聞いて、真白は武者震いをした。
今までなら「無理」のひと言だったろう。でも今は違う。
あの山の登山道ではどんな物に出会えるんだろう。山頂からはどんな景色が見えるのだろう。好奇心が湧き上がってくる。
真白はしっかりとその山の姿を写真に収めた。
やる気に満ち溢れた真白がリュックを置いた場所に向かって歩いていると灯とニコラが到着した。
…何か様子がおかしい。
真白を見つけたニコラが詰め寄ってきた。
「さっき凄くムカつく野郎がいてね!凄い勢いで上から降りてきてぶつかりそうになったのに謝りもしないで逆にガンつけてきやがって!文句言ってやろうとしたら姉さんに止められてね、…」
捲し立てるニコラを灯と浅川がやれやれといった顔で見ていた。




