日向山
「さあ行くよ!」
灯が大きなリュックを小さな体で力強く背負って先頭を歩き出す。
トイレも行った。軽く体も動かした。忘れ物もなし。
各々のペースで準備をして、みんなのそれが済んだタイミングで灯が動き出した。
駐車場からすぐに未舗装路に入る。
本当は新調したウインドシェルを着て歩きたかったけど、季節はもう初夏だ。今日は半袖でちょうど良いくらいまで気温は上がっている。気付かないうちに汗をかいてしまうこの季節は、脱水状態になる危険性が真夏と遜色ないくらい高いらしい。
「もう夏の気温だね。今日は汗かくよー」
灯が濃い青色に浮かぶ金色を見上げて呟いた。
「真白くん、くれぐれも水分をこまめに摂るようにね。今日は山頂まで一気に行くから」
一番後ろを歩いている浅川から声がかかった。
「はい。意識して摂るようにします」
身舗装路に入ってすぐに左手にキャンプ場が、右手に登山道入り口を示す看板があった。
「じゃあ怪我なく行って戻りましょう!」
「はーい!」「はい!」「はい!」
灯の号令にみんなで返事をして歩き始めた。
先頭は灯、その後ろからニコラ、真白、浅川の順でトレイルに入る。
登り始めるといきなり斜度が急になる。
木の根や大きな岩が剥き出しになった急登がいきなり真白の体力を削りにくる。直登せずに迂回する葛折の歩きやすい箇所もあるが、ほぼ真っ直ぐに上へ上へと上がっていく。そんなタフな登りでも、北高尾の難所で足場が悪いトレイルの歩き方を教わってきた真白は、その成果を発揮して息を荒げながらも黙々と歩みを進めていく。
「真白くん、いい感じだよ。教えた通り上手く歩けてる。あとはもうちょっと楽して登るようにしてごらん」
後ろから浅川の声がかかる。
「楽して?」
ゆっくり歩けという事だろうか。言葉の意図するところが分からず訝る真白に浅川が続ける。
「そうそう。こういう木の根とか岩場の段差を上がる時に、いつも真っ直ぐ最短距離に足を置くのではなくて、できるだけ段差が低い箇所に足を置いて蹴り上げる高さを可能な限り低くするんだ。こんな風に」
浅川がスッと真白の前に出て歩き始めた。
浅川が指摘したように真白はまっすぐに最短距離を脚力をフルに使ってグイグイ登っていた。しかし浅川は登山道を右に行ったり左に行ったり一見無駄とも取れる動きをしている。
「ここ。まっすぐ行くと一歩で行けるけど、膝の高さまで足を上げないといけない。でもちょっと右に足を置くと一歩ではいけないけど、足を上げる高さが半分ですむ。数十センチ余計に動く事で、足を上げるために使う脚力を半分に減らせるんだ。どっちが楽かこの先の登りで試してごらん。俺の歩いた道を歩いて。ニコラちゃん、殿変わってもらえる?」
"はーい"と言って立ち止まるニコラを浅川が抜かしていく。
「日向くんも先にどうぞ」
ニコラがどやーっとした顔をしながら手で先に行くように促す。灯も「あたしもニコラちゃんとゆっくり行くね」と言って先を譲った。
「ありがとうございます」
浅川に続いてニコラと灯を抜かした真白はしっかりと浅川の後ろにつく。
「まずは最短距離をいく歩き方」
そう言って浅川がさっきとは変わって無駄な動きなく真っ直ぐに登っていく。段差はお構いなしにグイグイ進む。真白も続くが、浅川が速い…少しずつ距離が開いていく。
「どう?」
しばらくすると浅川との距離は10メートルほどに開く。ヒイヒイ言いながら追い縋る真白を、息一つ乱さずチラッとみて立ち止まった。
「どう?」
どう?って…
「めちゃくちゃ足がきついです。太ももの前側がパンパンです」
腰に手を当てて息を荒げる真白に涼しい顔をした浅川が我が意を得たりとばかりに続ける。
「そう。それがこの歩き方のデメリット。確かに最短距離だし、脚力をフルに使うからスピードは出るけどめちゃくちゃ疲れるんだ。長い距離を歩くには不向きだね。じゃ次は楽する方」
浅川が踵を返してまた歩き始めた。今度はさっき見せた一見無駄な動きとも取れるような右に左に足の設置箇所を変えていく歩き方。さっきは一歩で上がった高さを、小さな段差や斜面を利用して二歩、時には三歩かけて登っていく。真白もそれに倣ってみる。そして驚いた。
楽だ!
浅川には遅れをとるが足の余裕度が段違い。さっきほど息が上ることもなく進んでいける。スピードは遅くなったが、もとからそこまで速くないから気になるほどじゃない。これなら長い距離を登るのも楽になりそうだ。
「どう?違いは分かった?」
「はい!驚きました。多少の余計な動きをしてもお釣りが来るくらい体力を温存できそうです」
「でしょ?今日はそれを意識して登ってみてね。山頂まで2時間くらいかな。そんなに長時間登り続けるのは初めてだろうから、そうやって楽しながらね」
あ、だから歩き始めてすぐにこのテクニックを教えてくれたのか。
前を歩き始めた浅川の背中がさらに大きく見えた。
一行は開けた場所に出た。
「ここにも車を停められるんだよ。でも俺は下の駐車場派なんだ。なんかあそこからの方がやる気でるんだよね」
登山はもちろん、アウトドアやスポーツをする上で始める前の気分というのは結果を左右するくらい大切な物だと思う。
そういえば、宵の明星の面々は験担ぎをよくする。それも気持ちのコントロールの一種だろう。
真白も子供の頃から験担ぎをする方だ。学生時代の水泳の大会の際には上手く泳げたレースの前後で自分がした行動を覚えておいて、大事なレースの際には全く同じ行動を取ったりした。だからといっていつも上手くいくわけじゃないが、それよりも上手くいかなかった時にあれをやらなかったからだ…なんて後悔をしたくないという気持ちの方が強かった。
浅川が駐車場にこだわる気持ちはそれに近い物だと思うし、真白でもそうする。これから山登りという危険と隣り合わせのアクティビティにのめり込んだとしたら、今以上にそういうルーティーンみたいなのができるのかもしれない。
そこから本格的な登山道に入った。
さっきまでの急登から打って変わってとても歩きやすくなった。
トレイルは明瞭で段差もなくなりサクサク進める。早朝でも日差しは強く照り付けているが、木々の間を縫うように整備されているトレイルを歩いていると日差しは木漏れ日程度に軽減されて体にかかる負担を和らげてくれる。
爽やかな気持ちになった真白はちょっと立ち止まって水筒の水を一口飲む。それを見た浅川が満足げに言った。
「言わなくてもちゃんと水分摂っているね。ここからは歩きやすくなるからペース上げていくよ」
「はい。臨むところです。今日のために練習してきましたから!」
真白は啖呵を切った。彼はこの日の登山に並々ならぬ闘志を燃やしていた。浅川や田坂と山に入ると2人は真白のペースに合わせてくれる。途中で待ってくれたり、ペースは速くないか気にしてくれたり、真白を先に行かせてペースを任せてくれたり。それらの気遣いは最初は有り難かったが、少ししたら悔しさに変わった。だから練習をした。2人に練習メニューを聞いてそれらをこなしてきた。たった2ヶ月ちょっとの期間だが、若い真白はメキメキ力をつけていった。今日はそれを発揮する機会だと、いつもの真白とは気合いが違った。
「2人は先に行っていいよ。あたしとニコラちゃんはゆっくり行くから。山頂で落ち合おう」
灯がそう言って真白のザックをポンポンと叩いた。
「じゃあ真白くん、行くよ」
「はい!」
浅川の号令で2人は歩き始めた。
最初は話しながら歩く余裕がある速さ。
そう言えば一緒に高尾外輪山以外の山に行くのは初めてだよね。
水筒の中身は水?麦茶?
この先は木段が出てくるけど、さっきと同じ要領で歩くようにね。
そんな事を話す浅川に返事を返す余裕もある。
途中で登山者を追い越しながら進む。
こんにちは!と挨拶する2人に、
元気だねぇ。頑張って。なんて声をかけてくれる。それが真白のやる気を後押しした。
そんな風に柔らかな時間が過ぎていたそんな時、
すれ違いの際に下ってきた登山者がこちらに目を向けて気付いているにも関わらず立ち止まるそぶりも見せずに凄い勢いで突っ込んできた。真白と浅川が立ち止まって先に行かせたのに、お礼はもちろん挨拶どころかこちらを見ようともしない奴がいて、腹を立てた真白が文句を垂れた。真白は浅川に愚痴ったつもりだったが、そいつにも聞こえたらしく、足を止めてこっちを振り返った。引かずに睨み返した真白の襟首を浅川が無言でグイッと引っ張って連れていく。それを見た相手も舌打ちをして下っていった。
むすーっとする真白だったが、浅川に怒られた。
「今の真白くんの言動で誰が幸せになった?山に遊びにきて、トラブル起こして帰るなんて馬鹿げてるだろ。上り優先だの挨拶だお礼を言うだのはマナーであり、ルールじゃない。自分の価値観を相手に押し付けるもんじゃないよ。しっかり相手の気持ちを受け取った言動をできる君が、ああいう奴の土俵に上がっちゃダメだ。分かるね?」
「はい…すみません」
歩きながら、真顔で声を荒げることなく冷静に諭すように真白を叱る浅川の言葉には確かな説得力があった。
「分かってもらえればいいんだ。あんな奴を気にしてせっかくの登山を台無しにしちゃ勿体ない。切り替えて進むぞ」
しょんぼりして反省する真白の様子を見た浅川はにっこりと笑ってそう言うと先へ進んで行った。
言行一致の言動をとり、いつまでも引き摺らない。そんな浅川の言葉だから真白にしっかり響いた。




