まずは水汲みに
待ちに待った日曜日がやってきた。
朝ごはんをしっかり食べて、新しいクライミングパンツを履いて、お気に入りのTシャツを着た真白は走り出さんばかりの勢いで待ち合わせ場所である宵の明星に向かった。
まだ6月下旬なのに真夏のような日差しが照り付けている。昨日は雨が降ったり止んだりの天気だったが、今日は雨予報を覆してすっきり晴れている。
宵の明星が誇る晴れ女、灯パワーだ。
店の前には灯とマスターがすでに到着していた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おはよう真白くん。晴れてよかったね」
「飯は美味いの作っておいたから楽しみにしていてな。あとは浅川くんとニコラちゃんか」
マスターは朝から真白達の昼食を作ってくれたらしい。参加しないのに有難い事だ。ってか灯さんも作れるんだよな?
「作ってもらったご飯の方が自分で作ったご飯より美味しいじゃん」
「そうそう。真白くんには言ってなかったが、前に一緒に行った時にみんなで食べた昼飯はフルーツ盛り以外は灯が作ったんだぞ。俺らは登山に行かない方が飯を作るって決めてるんだ。だから気にすんな」
そうだったのか。あのお稲荷さんは灯が作ったのか。
「知りませんでした。灯さん、すごく美味しかったです。ありがとうございました」
「やめてよー!これから何回もあたしやマスターのご飯食べるんだから!好きでやってる事だから気にしないでね」
お礼を言うのが遅れてちょっと申し訳なさそうに言った真白。灯は体の前で両手を突き出してぶんぶん振りながら、そんな事どうでもいいと言う。
「あ、浅川くんだ」
灯がそう言って視線を向けた方に目をやると、黒のSUV車が店の駐車場に入ってきた。サングラスをかけた浅川が運転している。めちゃくちゃカッコいい。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくねー!」
浅川が車から降りてくると、灯はトランクを勝手に開けて自分のリュックと着替え等が入っているらしきトートバッグを乗せた。真白もそれに倣う。真白の小ぶりなリュックの横に並んだ灯のリュックは前にマスターが背負っていた物と同じくらい大きく、鮮やかな赤色だ。
「おはよー!」
ニコラ到着。これでみんな揃った。待ち合わせの時間ぴったり。
ニコラがトランクに自分の荷物を放り込み、ペットボトルのお茶だけ持って慣れた様子で後部座席に乗り込む。
「じゃあ行ってくるからよろしくね」
灯もそう言ってニコラの隣に乗る。
「あの、俺が助手席でいいんですか?」
「うん。後ろより広いからね。それともニコラちゃんの隣に座りたい?」
灯が窓を開けてニヤニヤしながら言ってくる。
「いえ、結構です。浅川さん、お願いします」
そう言ってサッと助手席に乗り込んだ真白に「即答するな!」とかギャーギャー文句を垂れるニコラ。そうそう。彼女はこうでなくっちゃ。
桜田や瀬尾から忙しさに忙殺されて疲れ果てたニコラの様子を聞いていた真白は少しホッとする。
「じゃあ浅川くん、気をつけてな」
車に乗り込んだ浅川にマスターが声をかけた。
「はい、ありがとうございます。では行ってきます」
真白の初めての登山遠征が始まった。
時刻は朝7時。まだ中央道の渋滞情報は出ていない。
「この時期にこれだけすっきり晴れてる日はみんな出かけたがるからもう混んでいるかと思ったけど。灯さん、とりあえず白州の道の駅に向かえばいいですね?」
「うん。そこで水を汲んで行こう」
「オッケーです。真白くんも緊張しないでゆっくりしてな」
「はい…」
初めて乗る浅川の車。
仄かに爽やかな芳香剤の匂いがする。車内は整頓されているが足元は土や砂利がパラパラ落ちていて、浅川がこの車と共に色々な場所に遊びに行っている事が見て取れた。
「浅川さん、音楽かけていい?」
ニコラが後ろから身を乗り出してきた。
「いいよ。ニコラちゃんのスマホはこの車のオーディオと接続してあったよね?」
「うん。姉さん、どれにする?」
「うしうしPでいいじゃん。先週浅川くんが作ったMVを使った新曲がアップされたばかりだし」
「はーい」
明るいアップテンポのボカロが流れた。
山に向かうウキウキする気分を一層盛り立てる曲だ。
シャッフルで流しているが、どうやらめちゃくちゃ有名な曲が最初に来たらしく、灯とニコラは"幸先いいね!"と喜んで歌いながら体を揺すっている。真白も知っている曲だが、流石に一緒に歌う勇気はなかった。
「新曲のMVは早くにできたんだけど、先週がちょうどあいつが初めての曲を発表してからちょうど15年でね。そこに合わせようって話になってさ。田坂ちゃんにやたらと急かされちゃったよ」
「田坂さんはうしうしPの大ファンって言ってましたからね。前に田坂さんにうしうしPのことを聞いたら、MVが10本くらい送られてきましたよ。田坂さんのおススメ順に」
「あはは。田坂ちゃんはお姉さんも大ファンみたいで、2人ともファンクラブに入っているくらいだからね。来月のライブにも2人で行くらしいよ」
「ボカロPのライブってどんな感じなんですか?」
「またMeTubeで見てごらんよ。あ、これが新曲だよ」
すごく耳に残るメロディが流れてきた。歌詞は全て聞き取れないが、テンポが良く癖になる曲だ。
「100キロ以上のレースとか単独で走る時間がすごく長い時には直近で聞いた音楽が頭の中で無限ループするんだよ。たまに口ずさんじゃう時もあるくらい」
灯がニコラと体を揺すりながら言う。
「登山でもそうですよね。無心で登るよりも音楽を頭の中で流しながらだとキツい時間も気付いたら終わってる時がある」
浅川も同意らしい。
「今日の登山ではこの歌が頭の中で流れそうです」
真白が言うと、ニコラが反応する。
「今日は姉さんがワイワイ騒ぐからそんな暇ないよ」
あんたもな!と真白は口に出しそうなくらい強く思った。
「今真白くんは、あんたもな!って思ったよ」
浅川はたまにエスパーだ。
「それ浅川さんが思っただけでしょ!真白くんじゃなくて!私がいつもうるさいってこと!?」
ニコラが身を乗り出して文句を垂れる。
「今ニコラちゃんの命を握ってるのは誰でしょう?ちゃんと座ってないと何が起こるか分からないよ」
浅川がバックミラー越しにニコラを見た。
「ひー!ごめんなさい!」
ニコラが体を引っ込める。
ニコラが返り討ちにあった!これは前代未聞だ!マスターが言っていた通り浅川はかなりの強者らしい。
そんなこんなで楽しい道中だったものだから、気付いたら目的地である白州の道の駅最寄りの須玉インターを降りていた。
「みんな道の駅で水を汲むんですか?」
真白は灯が道の駅で水を汲むと言っていたから水筒を空にして持ってきたが、スポーツドリンクやお茶を持ってくることも考えた。
「うん。特に深い意味はないんだけど、日向山や甲斐駒ヶ岳に登る時には道の駅で水を汲むのがいつもの流れなの。他の飲み物が良ければ自販機もあるからね」
灯がニコラと音楽にノリながら答える。何故か2人は肩を組んでいる。
「間も無く着きますよ。あ、トイレは登山道近くの駐車場にもあるからね」
白州の道の駅は駐車場が細い川を挟んで3つに分かれていた。一番甲府寄りの駐車場に車を停めて一行は各々の水筒等を持って水汲みに向かった。
食堂や地元の野菜などを売る物販店が入った施設の前に水汲み場があった。
組み上げているポンプのような物から4箇所くらい管が出ていて、そこから水が流れ出ている。
真白達の前にはポリタンクを持った男性が水を汲んでいた。キャンプにでも行くのだろうかとまじまじ見ていると、
「家庭用に汲みに来る人も沢山いるんだよ。さ、あたしたちの番だよ。サッサと汲んで山に向かおう」
灯が真白を急かす。その横で浅川は水筒に少し入れて味見をするようにグッと飲み干した。
「あー、やっぱりここの水は美味い気がするな」
その仕草が妙にイカして見えたから、真白もすかさず真似をする。
余談だが、真白は面白い、カッコいいと思ったことはすぐに真似したくなるタイプだ。子供の頃はそれが原因で真似するなよと同級生達にいちゃもんつけられることも多々あった。
「冷たくて美味しいですね。売れるんじゃないかって思います」
「ね!わざわざ汲みに来たくなる理由が分かったでしょ?」
でっかい硬いビニール製の袋みたいなのにパンパンに水を詰めた灯がそれに蓋をして、別の500mℓくらいの水筒にも汲んでいる。
浅川とニコラはすでに汲み終えて車に向かっている。
「他の飲み物は買わなくても大丈夫?私達に合わせることないよ」
灯にそう言われたが、真白は首を振る。
「僕は水だけで行きます。灯さん、その袋持ちましょうか?」
灯が抱えている水の入った袋を示して聞くと、
「ありがとう!でも大丈夫だよ。真白くんよく気がつくねー。モテるよ!田坂ちゃんにも報告しておくからね」
「あ、いや。な、なんで田坂さんが出てくるんですか?」
焦っている真白を見て灯はニコニコしている。
「真白くん、姉さん、早くー!」
ニコラが車のドアを開けてぴょんこぴょんこ飛びながら煽ってくる。浅川はすでに車に乗り込んでエンジンをかけている。彼も早く行きたい気持ちはニコラと同じらしい。
改めて出発してから10分ちょっとで登山道最寄りの駐車場に到着した。
右も山、左も山。森の中にあるような駐車場にはトイレの他に売店も併設していた。
車から降りると少しひんやりした風が真白の頬をなでた。
よく来たな!
そう言われているようだった。
楽しい登山がいま始まる。




