水筒
灯からメッセージが届いたのは、学食で昼食を食べている時だった。
"今度の日曜日は予定空いてる?姉ちゃんが店に出てくれるから、その日に山に行こうと思うんだけど"
メッセージを見て、パーっと明るい顔をした真白を訝しむのは同席しているクラスメイトたち。午前中最後の講義が学科のクラス単位でやる少人数のものであったので、終了後はその流れで一緒に学食に来た。
「日向がそんなに嬉しそうな顔するの初めて見たな」
「好きな人から飯にでも誘われたか?」
いつも無表情で、ボーッとしている印象を持たれている真白の意外な表情に彼らは興味津々だ。
「前に山登りを始めたって言ったじゃん。バイト先の上司からその誘いだよ。うちのバイト先の先輩はみんな山登りをするから」
「へー!アクティブな人達なんだなー。前に見かけた美人さんもやるのか?」
「俺もせっかく八王子に通ってるんだし高尾山には行ってみようかな」
同級生の1人の反応に真白はピクッと反応する。
「いくつも登り口があるけど、初めて行くなら…」
ドヤ顔をして語り始めた真白に若干引き気味のクラスメイト達。こいつってこんなにペラペラ話すやつだったんだ。真白が見せた意外な一面は彼らとの距離を一気に縮めた。夢中になっている事を楽しそうに語る奴ってのは見ていても気持ちの良いものだ。まぁ、あくまでも常識の範囲内で他人に迷惑をかけていない奴に限るが。
「ま、また登る時には聞くから色々教えてくれよ」
「もちろんだ。何でも聞いてくれ」
まぁ全部ニコラから教えてもらった事を復唱したようなものだが、ちゃんと覚えているという事で…
最後は偉そうにドヤ顔してやがったのはご愛嬌としておこう。
午後はクラスメイト達とは別の講義。食堂を出て彼らと別れた真白はトイレだけ済ませて少し早いが講堂に向かった。
講堂に着いたがまだ講義までは時間があるので、灯にメッセージを返す事にした。
"空いています。行き先は以前行く予定だった日向山ですか?"
すぐに既読が付いて返事が来た。
あの人仕事中だよな…
"それでいいよね?あたしも暫くぶりだから行きたくてさ。帰りに温泉入ってこようって話してるんだ"
"はい。山も温泉も楽しみです。明日仕事なので、その際に詳細を伺ってもいいですか?"
"オッケー"
灯の父の急病で延期になった登山の日程が決まった。すぐに天気予報を見たら曇りと傘マーク。梅雨らしい天気になりそうだ。
でもそういえば田坂が、灯は究極の晴れ女って言っていた。マスターは雨男。去年の夏に宵の明星のみんなで八ヶ岳に行った時には雨と晴れを交互に繰り返したらしい。田坂曰く"力が拮抗していた"との事。この日も彼女がなんとかしてくれるのではないか。
しかし楽しみだなぁ。
中止になってからも日向山について色々調べた。
天空の砂浜。
その名に恥じぬ美しい山頂の様子を写真で見てから早く行きたくてしょうがなかった。
今日は火曜だから、日曜までまだ時間があるな。前回の登山の時みたいにおやつとか軽食を買ったり…あ、水筒!登山用品店で見たアウトドアメーカーの水筒がカッコよかったんだ。あれなら高尾にある大型ショッピングモールに入っている店舗でも売っているだろう。今日の帰りに見に行こう。
妄想に耽っていると、気づけば講義が終わりそうだ。
早々と片付けをしていると講師が締めの挨拶をして講義は終了した。
原付を停めてある駐輪場に向かう道すがら、ニコラにあった。
「お疲れさま。今帰り?」
「ニコラ先輩。お疲れさまです。はい。今から水筒を買いにショッピングモールに行くところです」
「いいじゃん!そろそろペットボトルから卒業したいもんね。それに1人で高尾の外輪山に行き始めたらしいじゃん」
「あ、よくご存知で。ニコラ先輩達と登ってから、2回ほど田坂さんと浅川さんに付いて行ったんです。南高尾まで行きました。二人からもう1人でも大丈夫だとお墨付きをもらって最近は1人で山歩きをしています」
「トレイルランニングにも興味があるんでしょ」
「はい。秋くらいに一緒に大会に出てみようかと浅川さんに誘ってもらいました。どの大会に出るかはまだ考え中ですが」
「決まったら教えてね。私も出るから」
「はい。分かりました。あ、週末はみんなで山に行くんですよ」
「え?いいね。私も行く」
「はい。よろしく…って。え?ニコラ先輩は今忙しいんじゃ」
「おかげさまで来週からSNSやポスターを掲出してくれた懇意にしているお店を通じて募集をかけるよ。だから今は落ち着いたよ。今回は誰が行くの?電車で行くの?」
「あの、駐輪場に着いちゃいましたが、ニコラ先輩はバスですよね」
「じゃあショッピングモールで待ち合わせね。着いたら連絡するから」
そう言って走って行った。
いつもの事ながらニコラのマイペースは変わらない。でも先週までは本当に忙しかったらしく、たまたま学内で会った桜田や瀬尾と話した際に2人は"ニコラは根詰めすぎている"と心配していた。"目標が決まるとひたすら突っ込んでしまうのはニコラらしいが、体調だけは崩さないようにしてほしい"と言っていた。確かにニコラは元気なのが似合う。
真白にとって初めての遠征とも言える登山だ。ニコラが来る、来ないは別にして、初登山の前のように何らかの情報を得ることができれば、万全の体勢で臨めるだろう。
ショッピングモールに着くと、まずおやつを買いにスーパーに向かった。食べたいものくらいは自分で選べるし、これまで数回行った山行で持っていくものも固まってきている。
ニコラはバナナ、浅川は柿ピー、田坂はグミ、灯はポテチ、マスターはチョコレート菓子。お菓子自体の種類は無数にあれど、大きく分ければ選択肢は甘いのか塩っぱいのかどちらかに分かれるが、各々の好みは分かってきた。
では真白はどっち派か。
真白は塩っぱいの派だ。
これまでの複数回の山行で色々試した。
甘いのも、塩っぱいのも、色々な種類のお菓子類を試した。その結果、真白は運動中には甘いものよりも塩っぱいものを欲することが分かった。
私生活では真白は甘党だ。甘いものなしの人生は考えられないというくらいの甘党だ。
でも山では塩っぱいものが欲しくなる。それは真白が汗っかきだからだろうか。
以前灯に聞いてみたら、"なんでだろうね?"と興味なさそうに言われた。"難しい事を考えないで食べたいものを食べたらいいよ"と言っていた。
今回はおかきと塩せんべいを持っていくつもりだ。おかきに海苔が巻いてあるやつが特にお気に入り。塩せんべいも食べ始めると止まらない。
中身が一つひとつが個包装されている物を3袋買った。これをバラして持っていこうと思っている。
補給食の買い物が済み、スーパーを出たタイミングでニコラから電話がかかってきた。
待ち合わせに指定されたスポーツ用品店の前でニコラが待っていた。
「ん?何買ったの?」
「お菓子です。これをバラして何個ずつか持っていこうと思ってます。食事は灯さんが用意してくれるとの事ですので」
ビニール袋の中身をしげしげと眺めるニコラに甘いのよりも塩っぱい物の方が好みだと話すと、甘い→塩っぱい→甘い→…のローテーションが自分好みだと熱弁し始めたので、勝手に話させておいてサッサと店内に入っていく。
「ちょっと無視しないでよ」
ちょっと拗ねた感じでニコラも付いてきた。
あったあった。様々な大きさの色とりどりの水筒。マスターや浅川が使っているのと同じメーカーの物。値段も100均程は安くないものの、他の登山用具に比べると身近に感じる程度。長く使うものだし、これから暑くなるから麦茶でも入れて大学に持っていけば飲み物代も節約できるだろう。
「とりあえず山に持っていくのに一本あれば良いサイズのこれくらいのとザックのポケットにはこっちのを入れて、中身が減ったら継ぎ足していくのはどう?」
ニコラが1ℓの物と、500mℓの物を両手に持って提案してくる。
500mℓだとちょっと小さいし、1ℓだと持ち運びには大きい。ニコラはこれから夏になると低山でも2ℓは水が必要になると言う。なら今のうちからその重さに慣れておくのも良いだろう。
「そうですね。500mℓのやつは学校に持っていくのに良いし、2つ買っても予算内なのでそうします」
青とオレンジの物を手に取り、レジに向かおうとするとプロテインなどのサプリメント類が並んでいるエリアの、なんか見覚えがあるようなないような物が目に入った。
「それはトレイルランニングのレースで使われるエナジージェルだよ。その大きさ、その軽さで、おにぎり1個分に近いエネルギーを補給できるの。山登りをする時みたいに沢山の食料を持って行ったら重たくて走れないでしょ。だからランナーはその小さいジェルを使うんだよ。試しに一個買ってみたら?」
あぁ、以前浅川が買っていたものだ。
ニコラによるとジェルにも色々と種類があり、液体に近い物、ハチミツみたいな粘性がある物や、ゼリーみたいな物、味もたくさんあった。ほぼ全て甘いのは共通しているが、成分は微妙な違いがあるらしい。
「まだレースで使うわけじゃないし、美味しそうな物を試してみたらいいよ。いい値段するから私はレースでしか使わないけど」
確かにいい値段だ。1つで500mℓのペットボトルジュース2本分くらいする。でも好奇心を抑えきれない。
「ニコラ先輩はどれを使っているんですか?」
「私はこれとこれとこれと…」
「あ、あの、一番好きなやつはどれですか?」
「これかな。一番無難で、甘すぎないし」
「じゃあこれにします。会計してきますね」
ニコラがおススメしてくれたグレープフルーツ味の物を一つ手に取り会計に向かった。
会計を済ませた真白はニコラに手を引かれてカフェに連れて行かれた。今度の山行の詳細を聞きたいらしい。
コーヒーを注文してテーブルに着くと、ニコラがキラキラした目で聞いてくる。
「で、どこに行くの?誰が行くの?」
真白が詳細を話し終わると、ちょっと待ってねと言って一旦店の外に出ていくニコラ。
2、3分くらいしたらニコニコして戻ってきた。
「姉さんに連絡したよ。ちょうど浅川さんもいたみたいで確認してもらったら、まだ車に余裕があるから私も行けるって!だから週末はよろしくね!」
やっぱりこうなったか。また賑やかになりそうだ。
日向山かー。久しぶりだなー。なんて鼻歌を歌うように呟いているニコラに、
「あの、ニコラ先輩。日向山の情報を教えてもらえますか?」
「初心者向けの優しい山だから心配することないよ。あの山は山頂がすごく綺麗でね…」
嬉々として話し始めたニコラの話は概ね灯から聞いた話と同じだったが、2人とも大絶賛している事は伝わった。
コーヒーを飲み終えて、ニコラと別れて帰路についた真白は、帰宅後すぐに水筒を洗って麦茶を入れ、散歩に出た。
いつも散歩や走る時に持っていくのは空のペットボトルに麦茶を入れた物。水を入れる入れ物が変わっただけで、服装も水筒の中身も変わらないが、ウキウキする気分を抑えられなかった。
新しいギアを買った奴は大体こんな感じになる。
これも登山の楽しさのひとつなんだろうか。




