特別シフト
真白は夕方からの仕事に向かっていた。
宵の明星の駐車場は狭いため、従業員は徒歩で出勤している。
講義が終わると、一度帰宅してシャワーを浴びて着替えてから出勤するというルーティーン通りに店に向かっていると、後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえた。
「真白くん、お疲れさま!」
田坂だ。
真白が1人でホールを回せるようになってからはいつもの平日はマスター夫婦が終日、浅川が週に3回ほど昼ピークから夜ピーク、浅川のいない日は田坂か真白が16時から。というシフトが基本だ。
でも今日は珍しく田坂と真白2人が16時からのシフトに入っている。浅川と一時的に被る時はあるが、田坂と一緒になるのは土曜か日曜くらいだから、平日にまるっきり同じ時間に働くのは初めての事。
これは、灯が午後から実家に帰っているため。
灯の父は大事はなかったが、貧血で倒れて頭を打って入院した。本人は退院した次の日から働くと言ったが、周りが猛反対。今回は自宅の居間での出来事だったが、万が一調理中に倒れたら大怪我をする恐れがあるし、周りも巻き込みかねない。
退院後、2週間が経ったら再度経過観察に病院を受診する。そこで異常なしとの診断をもらうまで休養をするように皆が主張した。
灯の父は渋々ながらもそれに従う事にしたのだが、すでに後進に道を譲り、第一線からは退いた身とはいえ彼の抜けた穴は大きく、予約が集中したりした忙しい日は大変だった。
そこで灯と入江母が助っ人で呼ばれて、忙しい日は実家を手伝っているのだ。
幸い宵の明星は平日であれば調理担当のマスター以外に2人いれば仕事は回る。
昼ピークが終わるまではマスター夫婦と浅川。灯が離脱後は夜ピークが落ち着くまでマスターと浅川に加えて、田坂か真白の3人、ピークが過ぎたらそこから浅川が帰宅するというシフトになった。
しかし今日は浅川が休みのため、昼ピークまではマスター夫婦のみで対応。夜ピークに合わせて田坂と真白の2人が灯と入れ替わりで入るという珍しい組み合わせになった訳だ。
「平日で同じ時間に入るのは初めてだよね。なんか新鮮だね」
「そうですね。今日は田坂さんがいつも灯さんや浅川さんがやっているポジションに入ってくれるんですよね」
「うん。そのうちに真白くんもやると思うよ。今回の一件があって、灯さんの実家ではお父さんがいなくては店が回らないという状況を改善するために動いているから、暫くはこっちもこんなシフトが続くだろうし、それは宵の明星としても対岸の火事って訳にはいかなくて、みんながある程度のことはできなきゃいけないって話になったみたいだよ。流石に調理までは無理だけど、今の浅川さんくらいまでは叩き込むって灯さんが張り切ってるから」
「俺としては新しい事を教われるのは嬉しいですね」
「まだ入江くんがいた頃に最古参だったアカネちゃんは調理学校を出ていて、お菓子の作り方も灯さんから伝授されていたから特大の戦力だったんだけど、今はニュージーランドにいるからなぁ」
「浅川さんから聞いた事があります。灯さんが2人いるようだったって」
「まさにそうだね!あんな感じだよ」
入江を含めた宵の明星のみんなの話にしばしば出るアカネさんは、強烈で、好き嫌いがはっきりしていて、エネルギッシュで、一緒にいて安心感が半端ない人だったらしい。
会ってみたかったなと思った。
そんな話をしているうちに店に着く。
灯はもう実家に向かったらしく、マスターが1人で厨房にいた。
「真白くんはホール全般。田坂ちゃんは厨房補助メインで混んできたらホールのヘルプ。いつも灯がやってる感じで。厨房補助はできる範囲でいいから」
マスターからそう指示を受けて、その日の仕事が始まった。
夜ピークに入る前に店内は混み始めた。やはりハイキングにはもってこいの季節だからだろう。ほぼ全員が登山ザックを持った人や、高尾山参拝に行った帰りのお客さんだ。
しかし、数日前のあの忙しさを経験したからか、1人でもそれなりに対応できる。慣れ…というか、経験というのは凄く人を成長させるものだと思った。
ハイキングや参拝のお客さんが落ち着くと、近隣のお客さんが来るようになる。
そして夜ピークを越えて店が閑散とし始めた。
間も無くラストオーダーの時間だなと思っていると、1人の若い女性客が来店した。
「いらっしゃいませ。空いている席へどうぞ」
真白はそう言ってメニューと水、おしぼりを取りにいく。
しかし…とんでもなく綺麗な人だな。
真白よりも背が高いから170cmは超えているであろう長身にナイスバディ、真っ黒と言う表現がまさにピッタリなほどの艶のあるサラサラ黒髪ロングヘア、切れ長の目、それ以外の首から上のパーツは顔を含めて全て小さい。
「ご来店ありがとうございます。こちらがメニューです。決まりましたらお声がけください」
そう言ってメニューを渡すと、黒髪ロングは真白の顔をチラッと見てニコッと笑いながら軽く頷く。
なんでチラッと見て笑った?
まず鏡で顔や歯に何かついていないか確認。
大丈夫。
鼻からチョロっと出ていないか確認。
これも大丈夫。
実は自分がイケメンだったんじゃないか確認。
こっちも大丈夫。
いつもと変わらないのになぁ…なんて考えていると彼女に呼ばれて注文を受けた。
「とんかつ定食、ご飯少なめ頂きました」
カウンターから厨房に伝えると、「はいよ」というマスターの声と「はーい」という田坂の声が返ってきた。
真白は彼女に料理を持っていくのが楽しみだった。
容姿や年齢、性別に関係なく、感じの良いお客さんには、ただお待たせしましただけを言うのではなく、料理の説明とか何とかを一言二言加えちゃう奴なのだ。
暫くして料理ができたらしくマスターから呼ばれた。
よっしゃ!と鼻息荒く厨房に向かおうとすると、そのタイミングで帰るお客さんの会計が入ってしまった。
仕方なく田坂に料理提供を任せて会計をしていると、料理を持って厨房から出てきた田坂が素っ頓狂な声を上げた。
「あ、お姉ちゃん」
会計をしていた真白は「え?」と声にだして反応してしまった。
慌てて目の前のお客さんに謝る。お客さんは"いいよ、いいよ。なんかあったの?"と笑っていた。
お客さんを見送ってから黒髪ロングに目をやると、田坂と何やら話している。
田坂に手招きされた。
「真白くん。この人は私のお姉ちゃん」
「あ、同僚の日向真白です。田坂さんにはいつもお世話になってます」
こういった自己紹介も常連のお客さんに何度かするうちにすっかり慣れた。
「初めまして。マルちゃ…いや、桃子の姉です。たまにこうやって来るからよろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。そういえば田坂さんの下の名前は桃子さんでしたね。なんか新鮮です」
「うん。お姉ちゃんは桜子。2人とも春に産まれたからだって」
田坂姉が何か言いかけた時に田坂が姉に向けて見せた鋭い目を真白は見逃さなかった。
田坂の名前から推測して何となく分かるその呼び方までどこかの国民的人気漫画のキャラクターみたいだけど…凛としている2人の雰囲気に春という季節はぴったりだと思った。
「マルちゃ…いや、桃子から聞いてるよ。真白くんも山が好きなんだって?」
「はい。まだ始めたばかりですが」
「これからも桃子と遊んであげてね。周りに山をやる女の子なんていないから、一人で山に入るのが多いんだけど、ちょっと心配だから」
「こちらこそ是非お願いしたいです。なにしろまだ何も分かってない初心者なので」
なんて話していると、マスターに呼ばれた。
「桜子ちゃんが来てるんだろ。じゃあ田坂ちゃんにはもう上がってもらうから。桜子ちゃんと一緒に飯食って帰ればいいだろ。だから真白君に締めまでお願いできるかな?」
「もちろんです。田坂さんに伝えてきます」
田坂にその旨を伝えると、彼女は申し訳なさそうに了承した。
「賄いは生姜焼きです。もうできるみたいですよ。俺は外の片付けに行きますのでごゆっくり」
「あ、こっちで食べていいの?」
「はい。もう上がって良いとの事です」
「ありがとう。じゃお言葉に甘えて。お姉ちゃん、私も着替えてから一緒に食べるから、ちょっとゆっくり食べてて」
「はーい」
そんな2人の会話を聞きながら外の片付けに向かった。
簡単な掃き掃除をして、暖簾とA看板を店内にしまい、入り口の照明の電源を切ると、外の片付けは終わりだ。
漏れがない確認を済ませて、レジ締めをしようとカウンターに向かうと、田坂姉妹が目に入った。
2人は親友同士のように楽しそうに食事をしていた。
灯から田坂姉妹の仲の良さは聞いていたが、真白が思っていた以上だ。
田坂姉は最初はテーブルに背筋をピンと伸ばして坐り、注文する時の手の挙げ方から水の飲み方まで、一挙手一投足全てが表情も含めて優雅だったが、田坂と食事を始めてからは、終始ニコニコしていて、姿勢は崩れていて、口調も子供っぽくなっている。
レジ締めを終えて厨房の片付けの手伝いに入ると、田坂が食器を持ってきた。
「ご馳走さまでした。じゃあ先に上がらせてもらいます」
「はいよ。お疲れさん!桜子ちゃんもありがとな!2人とも帰り道は気をつけて」
「はい。久しぶりに灯さんに会いたかったけど、また来るって言っておいて下さい」
「真白くんもお気遣いありがとう。先に上がるね」
「お疲れさまでした。週末はまたお願いします」
「うん。じゃまたね」
ひらひらと手を振って美人姉妹は帰って行った。
真白は入り口の施錠をして、ホールの掃除に入った。
田坂には真白くんって言われてるし、桃子さんって呼ぶのもアリなのかな…いや、それだと付き合ってるみたいじゃん…ん?それも悪くない気がしてきたぞ…
なんてアホなことを考えながらシャカシャカ動いていると、あっという間に掃除は終わるものである。
全ての締め作業を済ませて厨房に行くと、ちょうど賄いが出来上がったところだった。
「ありがとうな。締め作業を全部1人でやるのは大変だったろ」
「いえ。だいぶ慣れたと思いますので問題ないですよ。頂きます」
「はいよ。召し上がれ。じゃ俺も頂きます」
マスターから田坂姉妹の話を聞いた。
田坂姉は月に1〜2回くらいの頻度でこの時間に来店するらしい。平日の田坂がいる日に来るから、真白が今まで会った事がなかったのにも納得だ。
田坂曰く、大学入学を機に一人暮らしをするといった彼女を両親よりも姉が心配して、一人暮らしをしていた部屋からわざわざ2人で住める部屋に引っ越してまで同居を勧めてきたとの事。
「お姉ちゃんは昔から過保護なんだよ。山遊びを始めた時にも危ないからやめろって大騒ぎだったし、この間だってソロキャンプを始めるって言ったら絶対ダメって」
以前ニコラにそんな愚痴を漏らした田坂だったが、さっきの2人の様子を見ていたら何となく田坂の恥ずかしいって気持ちも分かる気がした。
「マルちゃん、お腹空いたでしょ。ご飯足りる?」
「マルちゃん、これも美味しいよ」
なんて田坂姉が田坂に料理を勧めていたりした。その度に田坂はチラチラ真白を見て顔を赤らめていた。
入店した時に見たツンとした口数少なそうな美女の言葉とは思えないが、田坂と食事をしている時の雰囲気にはぴったりの口調だ。
「田坂ちゃんは桜子ちゃんが自分を大事にしてくれてるって分かってるからスルーしているけどな。2人で出かけるとたまに恥ずかしいって言ってたよ。マルちゃんって呼ばれるのが特に恥ずかしいんだと」
でもあの仲の良さは見ていて気持ちが良かったな。
浅川は会った事があるのだろうか。
田坂姉と浅川ならまさに美男美女。
いや、それなら田坂と浅川でも美男美女か。
「あの2人は地元でも田坂美人姉妹って有名らしいぞ」
まぁ、あの美貌ならそうなるだろう。
いいもの見れたし、今日は良い日だったな。
帰り道、マスターと別れた直後にスマホにメッセージがきた。
田坂からだ。
"今日は先に上がらせてもらってありがとう!お姉ちゃんが真白くんはクールだねって言ってたよ!じゃ週末はよろしくねー"
クールって…ただの人見知りなんだけど…
灯が以前言っていた。
「人にちゃんと感謝できる人は、何かしてもらった時にお礼をするのが早いんだよ。それから何事にも"すみません"じゃなくて"ありがとう"っていう言葉をよく使う人になりなよ。その方が言われて嬉しいでしょ」
そういえば宵の明星の面々は"〜してもらっちゃってすみません"ではなく、"〜してくれてありがとう"といったように、ありがとうという言葉ををよく使う。
"こちらこそお姉さんにご紹介頂きありがとうございます。週末はよろしくお願いします"
こんな感じだろうか。
今はまだ意識しないとできないけど、そのうちにいつでも自然とその言葉が出る人間になりたいと思った。




