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「…日向山ですか?」
真白はその日のバイトが終わり、賄いを作ってもらっていた。
今日の賄いは味噌ラーメン。マスターの作る味噌ラーメンは野菜たっぷりでとてもヘルシー。
そしてとても美味しい。
茹でた野菜をザルに移しているマスターの背中を眺めながら、厨房の隅の賄い席と呼ばれる椅子に座っていると、ホールの片付けを終えて、今は在庫チェックをしている灯から声をかけられた。
「そう。日向山。山梨県の北杜市に登山口があってね。登山初心者にはもってこいの登りやすい登山道と、山頂からの迫力満点な絶景、そして何よりも山頂の美しさ」
灯はその美しい山頂を思い浮かべているのか、うっとりとした顔で続ける。
「天空の砂浜っていう二つ名みたいなやつがあってね、山頂は真白な砂浜みたいなんだ。もう何回行っても飽きないんだから。っていうか日向山って日向くんみたいだね。漢字が一緒だし、山頂は真っ白だし」
それは真白も思っていた。俄然興味が湧いてきた。
「月末…あ、もう次の日曜日になるのか。そこで高尾周辺の山に行こうと思っているので、来月以降に行ってみたいですね」
マスターから味噌ラーメンを受け取り、箸を手に取りながらそう言うと、
「えー!その日に行こうよ!高尾周辺ならいつでも行けるじゃん!」
まぁ確かにそうか。それに明日は給料日。学校の帰りに買いに行く予定の新しい登山グッズ。それのデビュー登山が"天空の砂浜"なんてイカすじゃん。
「そうですね。灯さんがご一緒してくれるんでしたら安心ですし」
北杜市まで行くなら電車だろう。駅から歩いて行けるのかな?そんな事を呟くと、
「大丈夫!浅川くんが車出してくれるから」
灯には聞こえていたらしく、でかい声が返ってきた。
「日向くん、バター」
マスターがそう言って味噌ラーメンにバターを一欠片載せてくれた。
「浅川さんもご一緒できるんですか?」
「うん。浅川くんは前回行けなかったからね」
在庫確認が終わったらしき灯が鼻歌まじりに答える。
「味噌風味ラーメン〜バターを一欠片添えて〜だ」
マスターがフフンとドヤ顔をする。
「フランス料理っぽく言ってるけど、ただの味噌バターラーメンでしょ。昨日は焼肉丼だったから今日はさっぱりしたのが良かったのに」
灯が毒づく。
「味噌ラーメンはさっぱりしてるだろ。そもそもお前の腹はさっぱりとかコッテリとか分かんないじゃねぇか」
「なにー!!………!…
いつもの痴話喧嘩を始めた2人は放っておいてラーメンを食べ始める真白。
「登山道入口に向かう途中に道の駅があるんだけど、そこで白州の水を汲める場所があるんだよ。あの辺りは水がすごく綺麗で有名なんだ。ウイスキーの蒸留所もあるくらい。だから行きしなに寄って汲んでいこう」
まだギャーギャー言ってる灯を宥めながらマスターが言う。
「道の駅で水を汲む?買うんじゃなくてですか?」
ピンとこない真白は首を傾げる。
「うん。水汲み場があってさ。そこで自由に汲めるんだよ。ポリタンクを持ってくる人もいるくらいなんだよ」
ポリタンクって…まぁそれだけ綺麗な水なんだろうな。しかし北杜市ってずいぶん遠いな。
「あの、それと、俺でも登れる山なんでしょうか。灯さんは初心者向けと言っていましたが、俺なんかこの間のが初めてで初心者とすら呼べないと思うんですけど」
おずおずと尋ねる真白に浅川は笑いながら答える。
「大丈夫。その時の様子を聞いたらずいぶん余裕があったみたいだし、あれ以降も走ってるんでしょ。田坂ちゃんが見かけたって言っていたよ」
見られたのか…走るコースは田坂さんからアドバイスもらったから、田坂さん自身もあの辺りを走っているんだろうな。
「でしたら是非行ってみたいです。よろしくお願いします」
「うん。でも日向くんはレインウェアを持っていないんだよな。当日は俺のお古で良ければ持ってくるよ。滑落や遭難するような山じゃないけど、備えあれば憂いなしだ」
山登りをする時にはレインウェアを持っていくべきだと灯から借りたアウトドア雑誌に書いてあった。
「ありがとうございます。実はウインドシェルだけではなく、レインウェアも買おうと思っているんです。ゴツいやつじゃなくてウインドシェルみたいにコンパクトになるやつ」
先日の買い物で登録したその店舗のアプリの情報によると、今セールで安くなっているとの事。季節を問わずに携行品として大切なレインジャケットは雨の日の練習でも使えそうだし、買っておいて損はないだろう。今回はとりあえず上だけ。
「なるほど。よく考えてるね。あたしもそれが良いと思う。他は前回と同じで問題ないし、装備は大丈夫そうだね。昼ごはんはまたこっちで用意するから楽しみにしていてね」
自分の分の味噌ラーメンにコーンまでトッピングしようとしている灯。ちゃっかり半ライスも用意している。うーん、炭水化物+炭水化物。料理人って栄養バランスとか気にしないのかな。真白の視線に気づいた灯が半ライス用のお椀を持って「いる?」とでも言いたげに差し出してきたが、「ラーメンだけで十分です」と遠慮した。
それから賄いを食べながら2人から日向山のことを聞いた。灯が見せてくれた日向山の写真の一枚である山頂の景色は本当に砂浜みたいだった。
いつもなら賄いを食べ終わるとすぐに帰るのだが今日は長居してしまい、片付けを終えたマスター達と一緒に店を出た。
「日向山か。いいなぁ。その次は俺と一緒に甲斐駒に行こうぜ」
甲斐駒?山の名前かな?
「いいねー!黒戸尾根からの甲斐駒!久しく行ってないから夏に行こうよ。登るだけじゃなくて下山してからの川遊びまで楽しいんだよね。それまでしっかり鍛えておくんだよ、日向くん」
灯もノリノリだ。
「甲斐駒って山の名前ですか?どこにあるんですか?」
キョトンとしている真白にマスターが補足する。
「甲斐駒ヶ岳。日向山と同じく北杜市に登山口がある標高2,967mの国内でトップクラスの高さを誇る山だ。いくつか登山道があるんだけど、一番難易度が高いのが灯が言った黒戸尾根コース。入り口は日向山の登山道入り口のすぐそばだから、今度行った時に行ってみよう」
国内トップクラス?難易度が高い?無理無理!
「流石に夏には厳しいんじゃないですかね。来年とかなら…」
怖気付く真白の背中をマスターが叩いた。
「大丈夫。今みたいに急がず休まず鍛えていけば。まだ夏が終わるまで3ヶ月以上あるから、無理せずやっていこう」
灯も続く。
「そうそう。その時はお店休んでみんなで行くよ!」
甲斐駒ヶ岳。名前がカッコ良すぎる。
日本最高峰の山に俺も行ける?
なんか腹の底から沸々と何かが込み上げてくる。寒いわけでもないのに体がブルブルッと震えた。
「その前に日向山を楽しもうよ。今のところ天気も良さそうだし、きっと甲斐駒も綺麗に見えるよ」
灯の言葉に我に帰る。
そうだ。まだ俺は初心者。油断せずに、欲張らずにしっかり準備しよう。
とりあえず明日は買い物に行く。
週末の登山を思い切り楽しむためにしっかり準備しよう。
そんなことを考えていると、
「だから!明日の賄いは魚がいいって田坂ちゃんも言ってたよ!鯖の塩焼きにしようよー」
「だめだ。明日は野菜炒めにして在庫を整理するんだ。っていうか明日は田坂ちゃん休みじゃねぇか!」
なんてギャーギャー騒ぐ2人…いや、騒いでいるのは正確には1人が現実に引き戻した。
そういえばマスター夫婦と帰るのは初めてだ。
今までで一番賑やかな帰り道は、真白が夏の目標に向けて歩き始めるスタートとなった。




