浅川の過去
浅川は映像クリエイターとして会社勤めをしていた。
仕事が入るとしばらく休みなく…というか、ほぼ会社に泊まり込みで取り組むのがその会社の普通だった。
依頼を受けてから様々な工程を経て完成までは早く片付けば1週間。最も長かったのは3ヶ月というのがあった。その間に帰宅するのは3日に一度、着替えをとりに行くくらい。超絶ブラック企業に見えるが、浅川は、いや、浅川だけではなく他の数名の社員もいたって健康だった。
社長は社員がとことん働きやすい環境を作ってくれた。
個室の作業ルーム、清潔な個室の仮眠室(リネンは毎日新しいものに交換)、シャワールーム、ゆったりとくつろげる広い休憩スペース、仕事の質を高い水準で安定させるために1日6時間以上の睡眠と食事は3食摂ることが決め事となっており、そのためなら中途半端でも作業を中断しなくてはいけなかったからみんなキリの良いところで睡眠や食事を摂っていた。食事も1日一食は、主に夕食になるが、会社が懇意にしている近隣の飲食店から栄養満点の定食を会社負担での提供。打ち合わせや共同作業を行う部屋には最新の機材が揃っていた。
毎日同じだけ…とはいかないものの、みんなしっかり食って、しっかり寝ていたし、清潔にしていたから仕事もめちゃくちゃ捗る。そんな会社は業界では一目置かれる優良企業だった。
だから仕事も稼げるやつが沢山くる。だから給料も良くなる。だから業界トップクラスの人気企業になる。だから新入社員を雇う時にも即戦力になる逸材が沢山くるから選び放題。だから下からの突き上げが激しくて、その切磋琢磨で揉まれて社員のレベルが上がる。だから良い仕事をすると評判が上がり、じゃんじゃん稼げる仕事が入ってくる。の無限ループ。最強企業だった。
「一度仕事に取り掛かると、終わるまでそのチームはひたすら働き続ける。終わったら、まぁどれだけ時間がかかったかにもよるんだけど、1週間くらいガッと休む。そしてまた働く。漁師みたいだよね。俺は会社の施策とかどうでもよかったし、仕事は生活と遊びのための金を稼ぐためだけだったから。だからやる事だけやって、一気に休みをとって、そのたびに山に篭ってた。春夏秋冬問わずね」
浅川は中学生の頃にガチのクライマーだった叔父に師事を受けて山を始めてから、学生時代は部活に所属せずに山に入り浸った。時には叔父と、時には単独で。コミュニティには属さずにありとあらゆる山に登りまくった。大学生の時の夏休みは様々な山小屋でアルバイトをした。社会人になってからは仕事の合間に高い山、険しい道、見たことのない景色を求めて季節を問わず更に難易度の高い登攀を繰り返した。
しかしある時、実家の近所の里山を歩いている時間が一番落ち着く事に気付いた。
まだ中学生の頃に叔父と登った山。浅川にとっての初めての登山。
石割山。
400段以上の階段を登り、林道、石割山の名前の由来となる真っ二つに亀裂の入った大岩と隣接する神社、急峻な登山道を経て辿り着く山頂は山中湖と富士山をセットで見られる絶景スポットだ。
その景色は浅川が幾度となく挑んできた〇〇アルプスなどでのクライミングや、冬季のラッセルなど、ヒリヒリするような緊張感を経て辿り着く絶景とは全く違う。
「景色だけじゃなくてさ、そこまで歩いてきた時間がすごく良かったんだよ。今までのガチの登山が旅行先の老舗旅館や豪華ホテルだとしたら、石割山登山は実家やおばあちゃん家みたいな?分かりずらいか?とにかくホッとしたんだよなぁ。もうこれでいいなぁって思ったんだ」
それから浅川はトレイルランニングやサクッと帰ってくる日帰り登山を主体に切り替えた。山にいる時間を減らしたら、ぼーっとする余裕が生まれて、今までは気にしていないつもりだった事が実は物凄くストレスになっていた事に気付いた。
「今思うと、仕事のストレスを発散するために刺激のある山行をやっていたのかな。映像作ったりするのは好きだったけど、それが仕事になっちゃうとまた違うんだよ。勤め人ってのは色々と我慢しなくちゃいけない事が沢山あってさ。俺の仕事なんて職人に近いからね。自分の個性や考えが作品に現れてそれをどう評価されるかっていうステージの上でこそ、それぞれのアイデンティティが輝くんだ。でも…嫌でも、間違ってるって分かっていても会社の方針に従わなくちゃいけないのが会社員。それに急に嫌気が差しちゃって。だから辞めた」
浅川は退職してすぐに都心部から高尾に引っ越した。仕事は前職で得た人脈でフリーランスとしてやっていけた。実際に浅川が退職した事を知った他企業からスカウトが来るほど業界では名が知れていたのだ。
とはいえ今まで腕利きのメンバーが集まったチームでやっていた作業を一人で全てやるのだから、こなせる仕事量は激減して、収入はガクッと減った。それでも生活していけるだけの稼ぎくらいにはなり、元々贅沢をするタイプでもなかったから、仕事をしつつ高尾周辺の山を歩いたり、走ったりしながらのんびり過ごす日々に大満足していた。そんなある日、
「宵の明星に行ったんだ。たまたまね。まだオープンして半年くらいだったかな。そこであの強烈な夫婦に出会ってね」
その日は雨だった。しかも昼ピークも終わった時間だから店内には浅川しかいなかった。
「日替わり定食を頼んだらさ、キッチンからギャーギャー声がするんだよ。"やっぱり賄いは日替わり定食がいい!"とか、"うどんを作っちまったから我慢しろ!"とか、"じゃああたしが自分で作る!"とか、"じゃあたしが姉さんのうどんも食べていい?"とか。"お前今食ってるので3杯目だろ!"とか。もう可笑しくてさ。声出して笑っちゃったんだよ。そしたら厨房にいた3人が一斉に顔を出して、すぐに引っ込めて…今思い出しても笑えるんだけど。しばらくしたら灯さんがすまし顔で接客してきて。いや、もうあんた達のノリはバレてるから!みたいな。その日からよく行くようになったんだ」
なんか真白には既視感がある話だった。
さて、常連になった浅川に宵の明星のスタッフズ(主に女子2人)は絡む絡む。イケメンだし、礼儀正しいし、オシャレだし。そのうち灯ともう1人の女性従業員が賄いを持って同じテーブルにやって来るようになったらしい。
「しばらくしたら、こっちの仕事の話もするわけじゃん。フリーランスって仕事を選べばいくらでも自分の時間を作れるって話したら、じゃあうちで働かないかって。なんかよく分からなかったけど、その場ではいって返事をしちゃって今に至る」
話し終えた浅川は、水を一口飲んでフゥッと息を吐いた。
決して波瀾万丈な過去ではない。
涙涙の感動話ではない。
有り体に言えば、好きな事を思い通りにやるために仕事を辞めた。それだけのこと。
でも、そんな思い切りのある行動をどれだけの人が取れるだろうか。
確かに浅川は腕利きの動画クリエイターだ。コネクションもある。
でも、高収入も、恵まれた職場環境も全て捨てて、丸腰の身一つという状況に自ら飛び込む事を躊躇いなく行える人はどれだけいるだろうか。
真白も瀬尾もまだ学生で、誰の力も借りずに一人で生きていく社会人の大変さを知らない。そんな二人に浅川の選択の重さはイマイチ伝わりきらないが、枠にハマらず、安定を求めず、思うままに生きる事を決めた浅川は単純に凄くカッコよく見えた。
その後は就職活動を控えた瀬尾が浅川に色々と悩みを聞いてもらっていた。
浅川は瀬尾の話を遮る事なく丁寧に聞いていた。そして答えられる事は答えていき、何一つとして否定をしなかった。その会話は真白にとっても価値あるものであった。
食後のコーヒーを飲み終えて店を出る時には、悩みを全て吐き出した瀬尾は晴れやかな顔をしていた。
ニコラと同じく、お転婆を絵に描いたような人間だと思っていたが、実際のところ色々と溜め込んでいたようだ。それに憧れの浅川とたくさん話せたのが嬉しかったらしい。真白が教えた浅川の現在の仕事についての話題は次回に持ち越しとなったが。
「日向くん。ありがとう」
浅川が真白達の分も一緒に会計してくれている時に、瀬尾が隣にいる真白にだけ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「はい。俺にとっても実り多い時間でした。それに瀬尾先輩だけじゃなくて浅川さんも楽しそうでしたね。ちゃんと買い物にも付き合って下さいよ」
そう返した真白に、会計中の浅川の背中を見つめながらちょっぴり頬を赤らめた瀬尾は「もちろん」と頷いた。
真白は彼女を連れてきて良かったと思った。




