仲間たちの道具
田坂はニコラの暴挙には何の反応も示さず、ソフトフラスクなる物から水を飲むと、ふうっと息を吐いた。
マスターは何やらチューブ先を咥えている。水を飲んでいるようだが、そのチューブはリュックの中に繋がっている。これも水筒の一種だろうか。
「あ、これか?これは給水リザーバーって奴だ。リュックの中に本体が入っていて、今日使ってるリザーバーの容量は1.5リットルだな。登山の時はこいつがあればいつでも水が飲めるから便利なんだ。ニコラちゃんと田坂ちゃんのは一本500ミリリットル。今日は2本持ってるから1リットル。俺は汗っかきだからそれだと少なくてな。いちいち継ぎ足すのも面倒だから一回で沢山入るこいつを使ってる。難点は残量が分からない事だな」
自分が水を飲む姿をしげしげと眺める真白に気付いたマスターが説明してくれた。
「私もレースや練習内容によってはマスターが使ってるリザーバーも使うよ。でも手入れが大変なんだよね」
田坂が少し困ったような顔で話す。
「大変なんですか?」
実物を見た事がない真白は何が大変か分からない。マスターがその反応を予期していたかのように続ける。
「そうそう。特にチューブがな。ちゃんと洗って乾かさないと中にすぐにカビが生えるんだ。長いから洗いにくいし、中々乾かない…」
あー、そういう事か。確かに田坂やニコラが使っているボトルはくにゃくにゃしてるのと、飲み口が変わっている事以外は普通の水筒と変わりはなさそう。でもマスターのそれはチューブも細いし、あの中を洗って干すのってどうやるんだろうと疑問になる。
「私も登山を始めた頃はマスターのみたいなのを使っていたけど、2、3本ダメにしちゃってね。それ以降はもっぱらこれ」
ニコラがリュックのポケットのソフトフラスクを指差して言う。
「このリュックにも収納できそうですね。このポケットは水を入れるためのものだったんだ」
真白は変な位置にあるなぁとしか思っていなかったポケットを弄った。
「今日はペットボトルを持ってきたの?」
ニコラに聞かれて歩きながらリュックを開いて麦茶が入った100均の水筒を取り出す。
「これです」
そう言いながら「おっと」とつまづいた真白にニコラは続ける。
「歩きながらだと転ぶよ。リュックから物を出す時はできるだけ止まって、道の端っこでやる事。登山道なら谷側じゃなくて山側でね。それにその大きさなら日向君のリュックのポケットに入るよ」
あ、気をつけます。と言いながらポケットに差し込んでみた。すっぽり入って驚いた顔をしている真白を見て、
「そこに入れておけば歩きながらでもよそ見せずに取り出せるでしょ。あ、取り出すだけじゃなくてちゃんと水飲んでね」
うんうんとニコラの言葉を聞きながら水分補給した真白はホッとひと息つく。
それにしても歩いているだけなのに汗をかいた。
夢中で歩いていて気づかなかったが、他の3人はすでにウィンドブレーカーを脱いでいる。
マスターとニコラは半袖シャツ。田坂は半袖シャツと腕にアームカバーを付けている。真白もジャージの上着を脱いで半袖シャツ一枚になる。
肌に直接当たる風が気持ちいい。
「あと半分くらいだな」
時計を見ながらマスターが言う。ずいぶんゴツい時計だ。
「マスターの時計は凄く…何というか頑丈そうですね」
マスターは改めてチラッと自分の時計を見た。
「これは登山やトレイルランニング用の特別な仕様なんだ。時間だけじゃなくて、距離や獲得標高に現在の標高だけじゃなく、心拍数や歩幅までタイムリーに分かる。バッテリーもソーラー充電でフルにすれば1ヶ月はもつ。アプリから取り込めば地図や登山ルートの登録もできて、道を逸れたら音や振動で教えてくれる。登山する上ではこの上なく頼りになる相棒だな」
なんか凄いのは分かったけど、獲得標高?現在の標高?ルート?
頭の上にクエスチョンマークを浮かべている真白にニコラが説明してくれた。
「獲得標高っていうのは、登山をスタートしてから今までの登った部分を全部足した標高。現在の標高っていうのは、読んで字の如く今いる箇所の標高。ルートは今日はここを通ってここまで行こうっていう事前に計画した行程の事。マスターがさっき言っていたみたいに山にはいくつも登り口や分かれ道があるから、間違いのないようにルートを登録しておくの。特にレースでは人によっては凄い速さで走ってるし、登山者とバッティングしないようにあえて普段あまり使われていない荒れて道が不明瞭な箇所がコースだったりするから道に迷いやすいんだよ。そんな時にマスターが使っている時計があれば、地図を開かなくても現在地が分かるし、道を間違えたら教えてくれるの。バッテリーも長く持つし。中には一昼夜走るレースもあってね、普通のランニング用の時計だとバッテリーが持たないんだよ」
ふむふむと聞いていた真白だが、最後の部分が気になった。
「一昼夜?」
真白は田坂の方を見て呟いた。
「うん。特に夜だと試走をしていても疲労が溜まってくると集中力を欠いてマーキングを見落としてロストしちゃうんだって」
よく分からない。
「だな。夜はヘッテンの明かりだけだから眠くなるし」
マスターが反応する。
よく分からない。
「マーキングに反射テープが付いていても風とかで木に巻きついちゃってると見えないんだよね」
ニコラも続く。
よく分からない。
「あ、トレイルランニングのレースは長いものだと100キロ以上になるの。ちなみに田坂ちゃんが先月に出たレースは70km」
は?
真白の頭がおかしくなってきた。
「レースではコース上の木に長いリボンみたいなのが規則的に付けられていて、それを目印に走るの。中にはそういうのが一切ないレースもあるけどね。夜はテープが見えにくいから、光が当たると反射するテープやチカチカ光ってるライトがつけられてるんだよ」
ニコラの説明でレースやマーキングとやらについては何となく分かった。彼女は続ける。
「あとはー…ヘッテンか!ヘッドライトのことだよ。夜はそれを付けて走るの」
いや、そこじゃない。
あ、そこも知らなかった部分ではあるけど、今一番食いつきたいのはそこじゃない。
「田坂さんが山の中を夜も走るんですか?山の中ってこういう山の中を?」
想像できない。
可愛い田坂だからじゃない。
人間が夜通し、何十キロも山の中を走っているのが想像できない。
「そうだよ。言ってなかったっけ?先月初めての50kmオーバーのレースに挑戦したんだよ。まさか入賞できるなんて思わなかったけど」
ニコニコしてそう答える田坂が嘘を言っているようには見えない。
「よく見れば田坂さんもマスターみたいな時計をしていますね。それも同じ機能なんですか?」
ふと見ると田坂の腕にはマスターのと同じようなゴツい時計があった。
「うん。マスターのとメーカーは違うんだけどね。お値段はこっちの方が少し安いんだよ。先月のレースに向けて買っちゃったんだ。私が持っている物の中で一番高いのがこの時計だよ」
田坂は大事そうに時計を撫でる。
「2人ともいいなぁ。私も早くお金たまらないかなぁ」
指を咥えて2人の時計を眺めるニコラに2人はウリウリと見せつけている。
「時計よりも田坂さんの走っている距離に驚きました。俺もやってみようかな」
言ってから、あ、これは「そんな軽い気持ちでやれるものじゃない」とか言われる流れだと思った。
しかし、当の3人の反応は違った。
「うん。やってみなよ。宵の明星のみんながその大会に一度は参加してるよ。入賞は田坂ちゃんが初めてだけど。灯さんは100マイルっていう一番長いカテゴリーで第一回から全部完走してるし、マスター含めてみんなが長いのも短いのも含めて色々なレースに年に何回も出てるよ。私も一緒に出たりしてるし。流石に100キロは走らないけど。やってみるっていうか、日向君もそれをやるために宵の明星で働き始めたんじゃないの?」
今日の朝ごはんは何を食べた?って質問に答えるようにサラッと言葉を紡いだニコラ。
マスターと田坂も、こいつは今更何を言っているんだ?という顔で、こっちを向いて目をぱちぱちさせている。
「は?」
真白は上京して一番の驚愕の表情をした。




