バナナ
日影沢林道の難所を越えた一向は、ギャーギャー喋りながら小仏城山山頂に向けて歩いている。
快晴の5月の早朝という登山をするのにこれ以上ないコンディション。木々の間から差し込む日の光は優しく、時折吹く風はひんやりとしていて急登を登って火照った体に心地よい。
そんな癒しの時間を仲間達と満喫していた真白に衝撃的な言葉がかけられた。
「え?みんなから何にも聞いてない?このお店で働く人はみんな登山とかトレランをやるんだよ」
ニコラは冗談を言っているように見えない。
むしろ真白に対して、"こいつは今更何を言ってるんだ?"って顔をしている。
この人は真面目に話している。
「ちょっと待て。日向君、そんな事ないからな。たまたまみんなやってるだけで、強制なんかしないから。蒼もたまに登山には行くけど、本格的なトレランはやってないからな」
マスターが慌てて軌道修正を図る。
「いえ、皆さんがやっているという事実には驚きましたが、俺自身もすごく興味があります。その…やるかどうかは分かりませんが…」
角が立たないように話をまとめようとする真白。
でも実際彼は腹の底からじわじわと好奇心が湧き上がってきている事に気付いていた。
「やるかやらないかなんて今考えなくていいじゃん。あと少しで山頂だよ」
田坂がパンパンと手を叩きながら一向の意識を今やっている登山に戻す。
「そうだな。話に夢中になっていたらあっという間にこんなところまで来ていたのか。あそこに電波塔が見えるだろ。あれが山頂の目印だ」
マスターが示す先には大きな電波塔がある。どこまで登り続けるのかと思っていたけど、目標が見えると俄然足取りは軽くなる。
突然左手の視界が開けた。
真白にはその方向に見える街がどこかは分からないが、すごく良い景色だ。朝だからだろうか、見下ろす街並みはほんのり霞がかっている。朝日と言うには少し高く登ってしまっているものの、この季節の柔らかな太陽の光に照らされてキラキラ光っているように見える。高尾山に登った時もそうだったが、この瞬間を味わえるのが登山の醍醐味だと思う。
歩きながら景色に見惚れる真白にニコラが声をかける。
「よそ見して歩くと転んだり足を捻ったりする危険があるから気をつけてね。まぁここは広いし、ガードレールはあるし、足場も良いけど。でもね、知ってる?高速道路の事故多発地帯はつい見惚れちゃうような絶景ポイントなんだって」
「はい。気をつけます。でもこの景色はたまらないですね」
我が意を得たりとばかりにニコラは続ける。
「低山…あ、低い山って事ね。低山なのにこんな絶景が見られるのが高尾外輪山の特徴だよ。見通せる範囲に高い山がなくて、関東平野が広がっているから遮るものがないんだよ。だから遠くまで見えるっていうインパクトだけなら2,000m級の山にも劣らないんだから」
ニコラが、「どうよ、オレの高尾は」なんて感じで胸を張る。
そのドヤ顔は置いておいて…本当に素晴らしい景色だ。マスターが真白の肩に手を置いて、前方を指差す。
「あの標識の先。左に繋がっている道に行くと高尾山に行けるんだ。俺達はこのまま道なりにいくぞ。もうすぐ着くからな」
「はい。あ、あっちから人が歩いてくる。あの人達は高尾山から来たという事ですか?」
真白の素朴な疑問に答えたのはニコラ。
「そうだよ。ちなみに山頂からも高尾山に縦走できるよ。あ、縦走っていうのは山から山へ尾根づたいに進むことね」
山から山へ…なんか壮大だな。
そんな事を思っていると、前方に建物が見えた。
「あ、あれが山小屋でしょうか?」
思ったよりも綺麗な小屋だ。マスターは笑いながら答える。
「いや、あれは…トイレだ」
ト、トイレ…いや、あのトイレは外見だけみれば地元の公園にある公衆トイレよりも立派だぞ。
「あはは!あれだけ立派な建物だと山小屋に見えるよね」
ニコラはケラケラ笑っている。真白は顔を赤くしてプイッと横を向いた。田坂とマスターもそんな真白を見て笑った。
トイレとは反対側に向かう右カーブを曲がると、すぐに山頂に着いた。
「山頂です!ほら、天狗!」
ニコラの指さす方を見ると、いきなりデカい天狗のオブジェが迎えてくれた。鋭い目で「よく来たな!」って感じですごい迫力だ。
「あっちが都心だ。あ、ほらあれがスカイツリー」
眺望が良い場所まで移動するとマスターが説明してくれた。
しかしスカイツリーが見えるって?どこだ?
目を凝らす真白に田坂が指を指しながら教えてくれる。本当に見えた。
っていうか、スカイツリーって行ったことがないから写真やらテレビやらでしか見た事ないんだよなぁ。でもスカイツリーが見えるって事は浅草の方まで見えるって事だ。
「今日はモヤが薄くて遠くまでよく見えるな。いつもはこんなに遠くまで見えないんだぞ。日向くんはツイてるな」
マスターがそう言って笑った。
「この景色は圧巻です。来て良かった」
そんな風に呟きながら景色に見惚れている真白を呼ぶ声が聞こえた。
「マスター、日向くん!早く早く!こっちで写真撮るよ!」
天狗のオブジェの横でニコラが手を振っている。田坂はスマホで上手く自撮りできる角度を探しているようだ。
「さぁ、行こう。ここに来たら天狗と写真を撮るんだぞ」
真白はそう言って2人の元に歩き始めたマスターに着いていく。
「マスターは大きいから正面で座って。ニコラちゃんはそっち。日向くんはここ。そうすればこの角度でいいはず。オッケー!撮るよ!」
え?あ?真横に田坂さんの顔。これ。まじ?
なんてワタワタしているとカシャっと音がした。
「見せて見せて!あー!日向くん田坂ちゃんの方を見てる!」
ニコラがはしゃぐ。まぁ予想していた反応だが、写真の中の真白が横目で田坂の方を見ているのは予想外。
「いや、これは、たまたま…田坂さんが映らないんじゃないかなと思って…」
そんな2人を気にもせず、
「あとでみんなに送るね」
サラッとそんな事を言ってスマホをしまう。田坂は本当にクールビューティーだ。
ちょっと休憩しよう。とのマスターの声。
他3人は、はーい。と返事をして近くの椅子に腰掛けて各々のリュックをガサガサする。
「日向くんは疲れはどうだ?ペースは速くなかったか?」
マスターが初心者の真白を気遣ってくれる。
「はい。皆さんに色々教えてもらいながら歩けたのでまだまだいけますよ」
そう答えた。確かに急な上り坂にやられたが、無理のないペースや歩き方をしてきたおかげか、まだまだ余裕がある。新調した靴も歩きやすいし、リュックも背中にフィットしてストレスがない。
「さすが日向くん。日頃から運動しているっていうのは嘘じゃなかったんだね。ここまですごく良いペースだよ」
ニコラが持参したらしきバナナを剥きながら真白を褒める。
あ、補給食って言われたからチョコやクッキーや飴玉を考えたけど、バナナはありだな…
そんな顔していると、
「日向くんも一本食べる?」
ニコラがもぐもぐしながらシャキッとバナナを差し出してくれた。何本も持ってきているらしい。
「ありがとうございます。頂きます」
真白は受け取ってシャシャッと剥いて頬張った。
美味い…
美味い!
なんだこの美味さは!
「登山の最中に食べる甘いものは美味いだろ」
マスターはそんな真白の気持ちを読んでいるようだ。
「山に来たらバナナを食べるんだよ」
外に出る時には靴を履くんだよ。みたいな当たり前のことであるかのようにニコラがドヤ顔する。
「ニコラちゃんといえばバナナだよね。今日も一房持ってきたの?」
田坂に聞かれたニコラはリュックに手を突っ込んでバナナの房を取り出した。
「もちろん!私はバナナ担当だから」
なんだそれ。としか言えないが、バナナはカロリーも高く消化も良いし美味い。そんな登山する上での万能食らしい。
一向は水分と軽食を摂り、出発の準備を始めた。
「さ、これから小仏峠に向かうぞ。その先がいよいよ最終目的地の景信山だ。そこで美味いもん食わせてやるから頑張ろう!」
マスターがリュックを背負いながら言った。
バナナは美味かった。
マスターの料理ならもっと美味いに違いない。
しかも山の上でこの人達と一緒に食べる。
絶対楽しいやつだ。
「はい!よろしくお願いします!」
真白は今日1番の大きな声で答えた。




