マスターと灯
4人はてくてく歩く。
前を歩くのはニコラと田坂。
会話は部分的に聞こえてくる。
ルートがどうとか、許可がどうとか、ありえないとか、嘘つきとか、ぶっ飛ばすとか、やっちまえとか…
いや、何を話しているんだろう…
まぁ、女子トークに口を挟むのも聞き耳を立てるのも無粋な事だな。
真白は隣を歩いているマスターに気になっている事を聞いてみる事にした。
「あの…マスター…今日は土曜日ですけど、お店は大丈夫なんですか?」
「大丈夫って何が?」
「その…週末だし…凄く忙しいんじゃ…」
「あー、それなら大丈夫だ。灯の姉…蒼のお母さんが入ってくれるから。っていうか日向くん、俺に対してなんか余所余所しくない?」
そうなんだ。真白はまだマスターとは灯や浅川、田坂と話すようにフランクに話せない。
真白は仕事中は基本ずっとホールにいる。対してマスターはずっと厨房にいる。浅川と田坂は真白と同じくホール担当だし、灯は厨房メインだけど、ドリ場に入ったり(飲み物を作る場所を宵の明星ではそう呼ぶ)、作ったものをそのまま自分で提供に行く事がある。だから自ずと顔を突き合わせて仕事をする時間が長く、業務内容だけではなく世間話もする。だがマスターとは注文の伝達と受け渡し、賄いの依頼、挨拶くらいしか顔を合わせて話す時がない。いや、注文関連は厨房とのカウンター越しのコミュニケーションだから顔を見て話しているわけじゃない。
賄いも基本はホールで食べる。唯一キッチンで食べた時にも田坂が乱入してきた。だからほとんど会話らしい会話はした事がないのだ。
良い人。気さくな人。そんな事は分かってる。宵の明星の面々以外にも入江や天真爛漫を絵に描いたようなニコラまで懐いてるんだ。
でも…会話…苦手なものは苦手なんだ…
そんな彼が今頑張っている。
「そ、そうでしょうか?そんな事はないかと思いますが…」
「そうか?まぁいいや。いつも俺か灯が休む時には義姉に来てもらうんだ。俺がいない時には灯が俺の代わりに厨房担当で、浅川くんか田坂ちゃんは同じくホール。義姉にはいつもの灯の役をやってもらう」
「灯さんがマスターみたいに料理するんですか?」
あんぐりと口を開けている真白を見たマスターは狙い通りといった様子。楽しそうに続ける。
「意外か?」
「いえ!すみません!ま、マスター以外が厨房のメインにいるのを見た事がなかったので…その…」
あわあわしながら答える真白を見てマスターはしてやったり顔だ。
「悪い悪い。困らせちまったな。日向くんにも店の事をちゃんと話しておかないといけないよな。それに良い機会だから昔話でもするか。ちなみに俺と灯の料理の腕はどっこいどっこいだぞ。まぁ順を追って話すな」
ウキウキした顔で、それ以上に怖いもの見たさの顔で話が始まるのを待つ真白を見てマスターは思った。
本当に素直でいい奴が入ってくれたな。と。
幼い頃に母の手伝いで台所に立った日のことをマスターは忘れられない。
ポテトサラダを作る手伝いをした。
母が茹でたジャガイモを潰して、子供用の包丁を使ってきゅうりとニンジン、ハムを切り、母が用意したコーンとマヨネーズを加えて混ぜた。
マスターの初めての料理を両親も弟も大絶賛してくれた。以来マスターは料理の虜になった。将来は料理人になるという夢を持った。
料理好きの母に教わりながら基本を学び、高校卒業後は調理師の免許を取るべく専門学校に進学して技術と知識を身につけた。3年間をかけて和食はもちろんイタリアン、フレンチ、中華について学び、腕を磨いた。
そんな学生時代に実践修行として実家と学校のちょうど真ん中の駅近くにある和食がメインの定食屋の厨房でアルバイトを始めた。
学校で半年以上かけて料理の基礎を学んだ上、技術に関しては子供の頃から料理が好きだった事もあり、周りの学生に比べてかなり高いものがあった。だから少し高慢になっているところがあったマスターはアルバイト先でも即戦力になって驚かせてやろうという目論見があった…が…見事に鼻っ柱を叩き折られた。
実際の現場は学校や家庭のように自分のペース、自分のやり方で動かせてくれない。同時に3つ、4つ、果ては5つ、6つの動きを並行してやらないといけない事もある。
最初の挨拶で、調理には自信があります!すぐにでも厨房で調理したいです!と啖呵を切った上、ここで経験を積んで卒業後は有名な料亭で活躍したいです!と、一言一句覚えているわけではないが、そんな感じの大口を叩いた。そんなマスターに店主はいきなり自分の補佐を命じた。
その初日が週末のランチ営業だったという事もあったし、この定食屋は口コミだけで20年以上人気店として名を馳せている店ということもあった。とにかくめちゃくちゃ忙しいのだ。
次から次へと飛んでくる指示にパニック状態になったマスターは玉ねぎをみじん切りにしているところで完全にフリーズしてしまった。
言われた事が技術的にできないわけじゃない。だがキャパオーバーになってしまい、包丁を持った手がブルブル震えているだけで他は思考を含めて完全に停止していた。
念のため言っておくと、店主はマスターをいじめたわけじゃない。力量を見るためにやった事で、要求している内容も普段補佐に入っている人に出しているものに比べてもかなり優しくしていた。
フリーズしたマスターの元にホールを担当していた従業員がやってきた。
「どいて!邪魔!」
マスターから包丁を分捕って調理場から押しのけて続けた。
「あっちの洗い物お願い!汚れを落として食洗機に入れるだけだからできるでしょ?おっちゃん、あたしが代わったから!補助がこんなんじゃ回らないよ!」
すごい剣幕で捲し立てるその女性が灯だった。
店主は灯の叔父ではないどころか、親族ですらないのだが、おっちゃん呼びをするだけじゃなく、先に〜から作って!とか、あたしが〜作るからおっちゃんは〜を作って!とか、指示まで出している。それだけじゃなく、指示を出しながら凄まじい勢いで残りの玉ねぎをみじん切りにした後で次から次へと調理をしていく。
なんなんだあの人は…
洗い物をしながらチラチラ見ていたマスターに灯の罵声が飛ぶ。
「ちょっとあんた!あんたの今の仕事は洗い物でしょ!よそ見しながら何かできるほど余裕があるわけ?」
「灯!お前も自分のことに集中しろ!」
店主から怒鳴られた後も灯の仏頂面は変わらなかった。
しゅんとして黙々と洗い物をしていると、ランチ営業終了の時間になった。
じゃぶじゃぶ皿を洗っているマスターの肩を店主がポンと叩いた。
「おつかれさん。賄いできてるからあっちで一緒に食おうや」
「いえ、僕は賄いを頂くに値しません。調子に乗った挨拶をして本当にすみません…」
半べそをかきながら蚊の鳴くような声を絞り出したマスターの背中をバン!と叩いたのは灯だった。
「ねえ、うちは賄いはみんなで食べるの!べそかいてないでこっちにおいでよ。あたしお腹すいてるんだけど」
相変わらず歯に衣着せぬ物言いをする灯に店主のもの凄い雷が落ちた。
「てめぇは余計な口を出すんじゃねぇ!」
あ、この人怒るとめちゃくちゃ怖いわ。
「ひゃー!ごめんちゃい!」
そう言って灯は脱兎の如く逃げていった。
「ったく。気にすんなよ。それに俺は若い奴は勢いがある方が好きなんだ。自信を叩き潰されてからやり直した奴ほどすげぇ奴になるからな。あいつ…灯もそうだ。さ、行こう」
店主はマスターの肩をもう一度叩くと、みんなが待つホールへと向かった。
おずおずと賄いが用意されたホールの一角にやってきたマスターは、何故か灯の横に座ることになった。まぁ前に座るよりマシだなと思って座ると、店主の"ご苦労さん"の声を皮切りに各々が「頂きまーす!」と声を上げて食べ始めた。メニューは親子丼だった。
「ねえ!おっちゃんの親子丼美味しいでしょ?」
灯が親子丼を頬張りながらさっきまでのやりとりなんかなかったかのようにニコニコ話しかけてきた。
"あ、はい…"と呟いたマスターに灯は捲し立てる。
「そういえば歳いくつ?どこの学校行ってるの?」
「あ、あの…19歳です。学校は〇〇調理学校です」
これまたボソボソ呟いたマスターに、
「えー!あたしと同じ歳じゃん!うれしー!やっとこの店で同年代の友達ができた!」
と、友達?こいつ距離感がおかしくないか?
若干引き気味のマスターに容赦なくグイグイくる灯。最初は面食らったが、その後も仕事中は厳しく、仕事後は無邪気。そんな過去を引きずる事がない上に裏表がない人柄に好感をおぼえた。
灯と話しているとすごく勉強になる。
彼女の実家は有名な老舗の料亭で、物心ついた頃から父や他の料理人に付いて調理の修行を積んだらしい。しかし、中学生の時に、将来は姉妹のどちらかが婿をとって店を継ぐという親の方針に反発。卒業と同時に調理師免許が手に入る高校に進学すると、実家を飛び出して隣町の叔母の家に居候しながら今の定食屋でアルバイトを始めた。
「姉ちゃんは抜群に頭が良くてね、学費免除の特待生として大学に行っていて、卒業後にはそのまま大学院に進む事も決まったの。ある日学校から帰ってきたら、教授がうちの両親に娘さんを大学院の自分の研究室に下さいって頭下げてたんだから。あたしはまだ中学生だったし、詳しい話は知らなかったから爺さんって言っても良いくらいの歳の人と結婚するのかと思って驚いたよ。だから自然とあたしが継ぐって流れになっちゃったわけ。でもそんなの嫌だった。あたしは自分の店を持つのが夢なんだから」
姉や母が何度も帰ってくるように説得に来たが完全に拒絶した。遂に灯の父が折れて、好きな道を選んで良いからたまには実家に帰ってくるように話した。灯の父は仕事には非常に厳しいが決して厄介者ではなく、家族や従業員を大切にする優しい人間なのだ。そして灯は高校卒業後に今の店でアルバイトから正式な料理人となった。
ちなみに灯の実家の小料理店は灯の父の右腕であった副料理長が継いだ。彼も灯の父に若い頃から腕だけじゃなく、心も鍛えられたため大変な人格者で、灯が料理の基礎を教わり、家出中には灯のもとを訪れて灯の父の気持ちを話し、引っ込みがつかなくなって半ば意地で家出を継続している灯と、同じく年頃の娘との接し方に悩んでいる父の面会する場を作り、仲裁をした。幼い頃から灯姉妹が大変世話になっている家族以外で最も尊敬している人物である。
話を戻すと、灯とマスターでは同じ歳だけど人生も仕事も経験値が桁違いなのだ。敵うはずないわけだ。
その話を聞いて力が抜けたマスターは、以後灯に教えを乞うようになった。店主や他にも料理人はいたが、灯の生き方や性格に強く惹かれたマスターは仕事のほとんどを灯に付いて学んだ。彼女は教え方も物の優先順位の付け方も抜群に上手く、マスターはメキメキ力をつけていった。仕事後には公園や河原、たまに喫茶店で飽きる事なく料理の話をした。
そのうちに店主はマスターにも賄い作りを任せるようになった。先に言った通りこの店は和食メインの定食屋だ。だが店主は、料理人は一つに特化しているのではなく萬に通じるべきとの考えを強く抱いており、賄い担当者がメニュー以外のものも作れるように、パスタやパンも常備しているし、その他にも沢山の種類の調味料がある。
ある日、
「厨房だけじゃなくてホールもやらないとお店の仕事の半分しか知らない事になるよ」
灯にそう言われたマスターは店主にホールもやりたいと願い出た。店主は灯と順番になるようにシフトを組んでくれた。接客なんかやった事がない彼は大苦戦したが、ホール専門のスタッフ達に教えてもらいながら頑張った。ホールを経験した事で、厨房での仕事の要領が良くなり、以前よりも周りが見られるようになった。
時は流れ、そんなマスターも学校を卒業して調理師の免許を無事取得し、就職先を探す時期になったある日のこと、出来上がった料理を置くカウンターに店主が置いた料理とたった今マスター自身が盛り付けた料理をお客のもとにマスター自ら提供に行った際に店主から「なぜホール担当でもないお前が持って行った?」と真顔で聞かれた。体を射抜くような鋭い目にビクビクしながらも、ホールスタッフが注文対応に加えて会計対応に追われていて、提供まで時間がかかりそうだった事、厨房は自分が盛り付けた料理でひと段落した事、熱い料理は熱いうちに食べた方が美味しい事を伝えたところ、「そうか」とだけ答えて仕事に戻ってしまった。また地雷を踏んだかと終業までビクビクしていたマスターだったが、賄いを食べてから店主に個別に呼ばれて卒業後もここで働かないかと聞かれた。
怒られると思っていたマスターは思わずハニワ顔になるほど驚いたが、喜んで働かせて頂きます!とその場で返事をした。彼はもはや他の店で働くなんて考えられないほど、自分が働くこの店を好きになっていた。
店を出たマスターを灯が待っていた。
おや?っという顔をしたマスターに灯は聞いた。
「おっちゃん何だって?」
彼女にしては珍しく少し不安そうな顔をしている。
「卒業後もここで働かないかって」
「で…どうするの?」
「働くよ。ここで。だからこれからもよろしくな」
マスターがそう言うと、灯が、「はー!」と大きく息を吐いた。
「いまあなたが答えるまで息を止めていました!」
「なんでだよ。わざわざ待っていてくれたのか。ありがとう」
「ねえ、付き合おうよ」
「は?」
「あたしはあなたの彼女になってもいいよって言ってるの」
「うん。俺もお前の彼氏になってもいいよ」
2人は少し見つめ合ったあと、フフッと照れくさそうに笑い合った。
その日初めて手を繋いで帰った。
それから灯が製菓の専門学校に通ったり、何だかんだあったおかげで灯の父と仲良しになった店主の口利きでマスターが灯の実家である小料理店で武者修行と称して働いたりしてお互い腕を磨き続けた。
8年という交際期間を経て2人は結婚した。
結婚式は店でやった。
2人は恩返しと言わんばかりに人材育成にも熱心に取り組み、数人の腕の良い料理人を育て上げた。
ある日、すでに引退した元店主とその息子である現店主にあかりと2人で独立する事を伝えたところ、2人は快く送り出してくれた。マスターがアルバイトとして働き始めてから16年後の事だった。
世話になった定食屋の名前は「明けの明星」
マスター夫婦は元店主と現店主に自分達の店を「宵の明星」と名乗らせて欲しいと伝えた。
2人は大変喜んだ。元店主は泣いていた。
話終わったマスターはふぅっと息を吐いた。
「こんな感じかな。ってわけで、灯は俺の2番目の師匠みたいなもんなんだ。1番はおっちゃんな」
「凄く良い話を聞けました。灯さんは只者ではないオーラがありましたが、そんな刺激的な人生を送っていたとは…」
真白が感動して話していると、
「マスターの惚気話終わった?日影沢林道に着くよ」
ニコラがばっしゃーと水をぶっかけてきた。
「おう終わったぞ!羨ましかったらニコラちゃんも早く惚気られる相手を見つけろよ」
「あーセクハラだ!今のアウトだよね!ね!田坂ちゃん、日向くん、ね!」
田坂と視線があった。彼女は困ったような、いや、子供のいたずらを微笑ましく見るような顔をして笑った。
真白はこの人と惚気られる幸せな奴は誰なんだろうかと考えた。




