真白の初出勤
ニコラと宵の明星を訪れてから約1週間。その時間はあっという間に過ぎた。
大学では次週から講義が始まるが、その準備も早々と済ませてしまい、やることもないので先週末から3日くらい実家で過ごした。
アルバイトには両親とも大賛成だった。学業に差し支えがないようにとは言われたが、他には特に苦言はなく、むしろ金を稼ぐ苦労は早いうちにした方が良いと言っていた。
そして今日はいよいよ初出勤。
事前学習のために渡されたメニューは一通り読んで来た。テーブル番号も覚えた。
どんな格好で出勤すれば良いのか悩んで入江に連絡をして聞いたところ、大学に行くときの格好で良いとの事。服にこだわりがない真白は大手衣料品店の服しかないが、仕事中は制服着用のため問題ないそうだ。
約束の15時の20分前に店に到着。
入江に連絡した際に言われたこと。
「分かっていると思うけど15時からと言われたら、15時から勤務開始って事だからな。友達との待ち合わせとは違うからな」
その言葉の意味を踏まえ、挨拶と制服に着替える時間も加味したその時間に来た。
初出勤とはいえ、早過ぎても逆に邪魔だと思うし絶妙だろうと思っている。
扉を開けて中に入ると、この時間は落ち着く時間らしく店内に客はいなかった。
「こんにちは。本日からお世話になります日向です」
前に来た時に真白たちが座った1番奥のテーブルで灯が賄いを食べていたので、挨拶をする。
「おはよう。すぐに食べ終わるからその間にそこにある服に着替えちゃって。マスター!更衣室の場所教えてあげて!」
「はいよー。厨房に入ってきてくれ」
厨房に入ると、今日はマスター1人だった。また田坂さんに会えるのをちょっぴり期待していた真白だったが、頑張ってそれを表に出さぬようにした。
「次からも今みたいに正面の入り口から入ってきて。厨房の脇を通って突き当たりの扉を開けると、小さな部屋がある。入って正面が更衣室で札が貼ってあるけど右が男性用。作務衣は…あ、もう貰ってるな。ぱっと見で選んだから、サイズが合わなかったら言ってな。じゃ着替えたらまた灯のところに行って指示を受けてくれ」
そう言いながら料理の下拵えをしているらしきマスターの後ろを通り、言われた扉を開くと正面が一畳分くらいのスペース。キャンプ用のハイチェアと小さなテーブルがある。左脇には駅の中型コインロッカーくらいの大きさのロッカーが4つあり、それぞれ鍵がついている。正面には試着室みたいな個室が2つ。マスターが行った通り右に「男」左に「女」と書かれた札が吊り下げられている。中は半畳くらいの広さで壁にはいくつかハンガーがかかっていた。
真白はサッと着替えて、鞄からメモ帳とボールペンと書類一式を出して、服は畳んで荷物と一緒にロッカーにしまった。
「着替え終わりました。鍵は僕がもっていていいのでしょうか」
「おう。鍵のこと言い忘れていたな。自分で管理してくれ。貴重品は仕事中に持ち歩かずロッカーに入れて鍵を閉めておく事。合鍵はないから無くさないようにな。あと、仕事中はスマホも持ち歩き禁止な。あとは灯に聞いてくれ。がんばってな!」
「ありがとうございます。改めてよろしくお願いします」
そう言って厨房を出ようとすると、中に入ってくる灯とカチ会った。賄いを食べ終わったばかりらしく、口をもぐもぐさせながら両手でお皿とコップを持っている。
「ひょっひょわっへへ」
ちょっと待ってて。だな。
と理解した真白は頷いてホールに向かう。
誰もいないホールは前より広く感じた。
あっちから1番テーブル、2番テーブルときて…なんて予習してきた事を確認していると灯がやってきた。
「お待たせー。あ、まず書類もらうね。……うん。漏れはないね。オッケー。じゃ早速研修を始める前にうちのやり方を話すね」
宵の明星は小料理店。というか定食屋。
店の方針でアルコールの提供はなし。
登山帰りのお客さんには入り口を入る前に備え付けのブラシで靴等の土を落としてもらう事。
服が泥だらけだったり、濡れた状態での入店はお断り。
程度の基準はマスター夫婦による。
その決まり関しては他のお客さんが食事をしていたり、料理を作ったりする空間だから、衛生管理上のルールとして設けてあるとの事。
「そんな事当然なんだけど、たまーに凄い格好で入ってくる人がいるのよ。その格好でお前の家の家族が食事している食卓につかれたらどう思うんだっての」
周りに気遣いができない奴ほど、自分を気遣えと言ってくる。と灯さんは続けた。
「そうは言ってもわざわざ喧嘩売る必要なんかないから丁寧に対応するようにね。判断に困ったり、なんかイチャモンつけられたらすぐにあたしかマスターを呼ぶ事。で、仕事の事はどれくらい覚えてきた?」
「はい。分かりました。仕事内容に関してはテーブル番号と注文表の書き方。それからメニューに関しては名前は頭に入れてきました」
「バッチリだね。じゃ軽く覚えてきた内容のチェックをするね。問題なかったら私がお客さんの役をするから、来店されてから退店されるまでの流れでシミュレーションしていくよ」
そんな流れで研修が始まった。
灯の指導は丁寧で細かかった。特段注意を受けることはなかったが、表情も口調も固いという指摘を何度も受けた。
「元々感情の起伏が少ないのかもしれないけど、表情が無理なら口調を柔らかくね。笑顔を作るのが難しいなら無理しなくていいから。真顔でも余裕をもって口調を穏やかに。そうすれば笑ってなくても感じ悪くないから」
料理の運び方は細かく教わったが、材料や調理法の説明に関しては分からなかったら余計なことは言わずに他のスタッフを呼ぶように言われた。
「有る事無い事言われても困るからね。アレルギーとかがあるお客さんだったら下手すりゃ命に関わるから。その際には日向くんは横で聞いてしっかりと覚えること」
一通り教わり、入店から会計後のありがとうございます。までを何度か流した。
時刻は早くも16時半を過ぎていた。
「うん。もう大丈夫そうだね。今日はこの後にホールの子がくるから、実際に接客もやってみよう」
「はい。よろしくお願いします」
やっと形になってきた頃、お客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
そう言って迎え入れた真白にとってのお客さん第1号は…
190cmの坊主頭。この仕事を紹介してくれた同級生。入江だった。
「おう!やってるな!そろそろトレーニングも落ち着いた時間かなと思ってさ!」
「わざわざ来てくれたのか…ついさっきまで…あ、お一人でしょうか」
入江の来店に気が緩んだところで灯さんの視線に気付き、真白はすぐに仕事モードに切り替えた。
頷いた入江を2人席に案内する。
「2人がけのお好きな席にどうぞ。メニューを用意致しますので少しお待ち下さい」
そう言って少しワタワタしながらトレンチに水とおしぼりを置き、メニューを脇に挟んで持ってきた真白を見て入江は、
「作務衣、似合ってるじゃんか」
そう言って笑った。
「そうかな?まぁ…ありがとう。で、わざわざ様子を見に来てくれたのか?」
メニューを渡しながら、ちょっと照れながら聞くと、
「まあな。初対面でいきなり巻き込んだ手前少し気になってさ。日向くんに会ってみてどうだったか灯さんに聞いたんだけど、オッケーとしか言わなくてな」
入江はそう苦笑いするが、良い事であれ悪い事であれ、陰で色々と噂をされるのは気分が良くないから、そんなサバサバしたというか裏表のない灯さんの性格は真白を安心させた。
「そうか。色々と話したい事や教えてもらいたい事はあるけど…まだ世間話をしながら働く余裕はないからまたあとでな」
「ああ。俺も邪魔しに来たわけじゃないから。頑張れよ」
そう言って入江はカツ丼大盛りとアイスコーヒーを注文した。
復唱して厨房に注文を伝えに行くと、コーヒーはすぐに用意する?と灯に聞かれた。
レストランで聞かれるやつ。「飲み物はいつお持ちしますか?」を忘れていた。
確認します!と慌てて入江に聞きに行き、注文表に後と記入する。
宵の明星では、飲み物提供のタイミングをきちんと確認して食前が前、食事と一緒にが中、食後が後と注文表に記載すると教わった事を忘れていた。
早速やらかしてしまった…
真白はいそいそとその事を自分のメモにしっかり書き込んだ。
そんな一生懸命な真白を灯はじっと見ていた。
入江が来る前。真白が指導を受けている時にも3組ほどお客さんが来たが、マスターが1人で対応してくれていた。
ここからは真白が主となり対応する。
場所を覚えることも兼ねて、洗った食器類の整理や調味料類の補充等をしながら、思ったよりも穏やかに時間が過ぎていくなぁと思っていると、入江のカツ丼が出来上がった。
「お待たせしました。カツ丼大盛りです。ごゆっくりどうぞ」
すまし顔でそう言う真白に
「ありがとう」
ニカっと笑ってがっつき始めた。
そういえば初めて会った時にもカツ丼を食べていたな。なんて事を思い出していると、店内に1人の男性が入ってきた。
いらっしゃいませ。と向かうと、男性は入江に気付き、
「お、蒼じゃん。もう寂しくなって戻ってきたか」
と笑顔で手を振って近づいてくる。
「浅川さん。こんにちは。彼が俺が紹介した新従業員です。これからよろしくしてやってください」
カツ丼を頬張りながらそう言う入江。
2人の会話からその男性がここの従業員だという事は分かった。
背が高く、シュッとしてモデルのような体型をしている。ツーブロックに刈り込んだ髪はしっかりとセットされていて爽やかな印象だ。そして妙に貫禄がある。だから年齢は結構上にも見えるが、端正な容姿からは同年代とも言われても驚かない。
「日向くんだね。初めまして。浅川です。今日は俺についてもらうって聞いてるからよろしく。すぐ着替えてくるよ」
あ、はい。よろしくお願いします…なんて言う間もなく、サッと厨房に入ってしまった。中からはおはようございます。と声が聞こえた。
おはよう?
真白も出勤した際に灯に言われたが、何故おはよう?呟きながらそんな疑問を持つ真白に入江が、
「何故かは分からないんだけどな、出勤したら昼夜問わずおはようって言うんだ。うちだけじゃなくて、そういう文化があるんだと」
そう教えてくれた。
「あの人は浅川さん。今働いてる従業員で1番長い人。詳しい話はまた自己紹介でもしながら聞きなよ。俺の兄貴分で、すっごく頼りになる人だ」
入江が慕っているなら良い人なのだろうと思った。
「日向くん!もう少ししたら忙しくなって、あたしとマスターは厨房に入りっぱなしになるから、今から来る浅川君に付いてね。指示も全部出してくれるから、今日はとにかく指示通りに動いて少しでも仕事を覚えること」
灯がエプロンを付けながら厨房から出てきてそう言った。曰く17時あたりから急に忙しくなるらしい。
ちょっと緊張してきた真白を、ツンツンと入江が突いた。
「緊張してるとこ悪いけど、コーヒーを頼む」
「あ、悪い…じゃなくて、すぐにお持ちします」
セルフサービスの水を入れ替えている灯に伝えて作ってもらい、持って行こうとするとお客さんが入ってきた。
まず2人組の女性グループが、すぐ後ろから4人組の男女のグループが入店。
アイスコーヒーを持った真白は慌てた。
何をしたら良いか分からなくなり、頭が真っ白に。
真白だけに。
…
すると彼の肩をポンポンと叩く者が
「日向くんは蒼にコーヒーを持って行って」
そう囁くと、
「いらっしゃいませ。こちらの2名さまからご案内致します。4名さま、恐れ入りますがすぐに参りますので少しお待ちください」
浅川がキビキビと案内していく。
作務衣がめちゃくちゃ似合っていた。
神々しい背中をボーッと見ていると、
「日向くん」
改めてそう言われてハッと我に返り、入江にアイスコーヒーを持っていく。
「お待たせしました」
とテーブルに置くと、
「ありがとう」
とだけ言った。
「日向くん、お客様にメニューをお願いします」
浅川からそう声がかかり、慌てて動き始める。
ワタワタとメニューを持って向かおうとすると厨房から顔を出した灯に捕まった。
「日向くん、落ち着こう。まず何を持っていくんだっけ?」
あ、水とおしぼり…
「そうそう。まだ慌てるような時間じゃないから。落ち着いて。ね」
いつかのバスケ漫画みたいなセリフを言われて、なんか落ち着いた真白は深く深呼吸をした。
「ありがとうございます。落ち着きました」
灯は真白の顔を見て、うんうんと頷いて顔を引っ込めた。
真白が後続の4人組にメニュー等を持っていくと、更なるお客さんが入店してきた。
2人組、3人組
ホールスタッフ真白の初めての仕事が今始まった。




