# 第8章 嫌とは言ってない
## 1
49日目、総務へ備品の申請を出しに行った。
窓口にいたのは宮下だった。総務の二年目で、以前から顔も名前も知っている。申請書の不備を一つ指摘されて、その場で直して、また出した。
「はい、通しておきます」
宮下は笑って言った。笑顔が多い人だった。LINEで業務の確認をしても、返信は早い。話しかければ、普通に返ってくる。「そうなんですね」と、相手の話に反応する。
智也は席に戻って、表を開いた。
宮下沙耶の行を作った。笑顔。返信が早い。会話が続く。玲奈のときと同じで、条件が揃えば可能性は生まれる。智也は、SEX期待値、15%、と入れた。神谷や小森の初期値より高かった。話しかけて普通に返ってくる、というのを、智也は関心の一種だと読んだ。
その笑顔も、早い返信も、宮下が誰にでもしていることだ、という可能性は、表の欄には入っていなかった。玲奈で二回目が決まったのが、大きかった。外見と、会話と、記憶と、金。条件を積めば、動く。動いたなら、次も動くはずだった。宮下は、その次だった。
夕方、業務の用件が終わったあと、智也は一度だけ誘った。
「宮下さん、今度、夜に飯でもどうですか」
宮下は少し考えて、言った。
「今ちょっと忙しくて」
本当に忙しそうだった。総務は今、研修や健康診断が重なる時期で、それは智也も知っていた。宮下は、じゃあいつ、とは言わなかった。代替日は、出なかった。
智也は、それを、忙しい、と受け取った。拒否ではない。時間が合わなかっただけだ。夜が駄目なら、別の時間がある。
## 2
50日目、智也はLINEで一度だけ送った。夜の食事が駄目なら、土日はどうか、と。
宮下は、休日は友人と予定があって、と返した。柔らかい断りだった。代替日は、やはり出なかった。
51日目は、何も送らなかった。返事を待った。前の小森のときのように、連投すれば切られる。それくらいは分かっていた。待っている自分を、智也は、しつこくない、と思った。
その日、玲奈からLINEが来た。二回目の候補日をいくつか、という話だった。智也は返した。玲奈は、会う前提で日を選んでいた。宮下の断りと、玲奈の日程調整は、智也の画面の上では、同じLINEという形をしていた。片方は会う話で、片方は会わない話だったが、智也はそれを並べて比べなかった。ただ、玲奈は進んでいて、宮下は進んでいない、という差だけを見た。
52日目、業務連絡の終わりに、智也は一度だけ聞いた。昼なら、と。
宮下は、昼休みも今は手続きの対応でばたばたしていて、と返した。
夜が駄目で、土日が駄目で、昼も駄目。智也は、宮下の空いている時間が、どんどん狭くなっていくのを感じた。狭くなっていくなら、もっと小さい条件にすればいい。会う意思がない、という読み方は、しなかった。時間の問題だと思っていた。
## 3
53日目、仕事帰りに、たまたま同じ方向で宮下と一緒になった。
エレベーターの扉が開くと、先に宮下が乗っていた。それだけのことだった。智也は、短く言った。
「今からちょっと、仕事帰りに一杯とか」
「あ、今日この後、走るんで」
宮下は、走る、と言った。何か練習しているらしかった。智也は、走る、とだけ受け取って、それ以上は聞かなかった。宮下が何のために走るのか、いつからそうしているのか、そういうことは、智也の表の項目になかった。空いているか、空いていないか。智也が見ていたのは、そこだけだった。
54日目、智也はLINEで、条件を下げた。飯じゃなくて、コーヒーだけでも、と。
宮下からは、少し間があって、返信が来た。今は練習が続いていて、と理由を一つ添えた、柔らかい断りだった。
智也は、飯をコーヒーに下げたことで、相手の負担を減らしたつもりだった。三十分のコーヒーなら、断る理由も減るはずだった。ただ、返信は、来た。返信が来る、ということを、智也は、完全な拒否ではない証拠だと読んだ。
宮下の側で何が起きていたかは、智也には見えなかった。宮下が、この人は自分と二人で行きたいのだ、と気づいたかどうかも、分からなかった。ただ、返事は毎回来た。智也にとっては、それが、まだ終わっていない、という意味だった。
## 4
56日目、智也は社内の会話で、短時間ならどうか、と六回目を聞いた。宮下は、柔らかく断った。
57日目、智也はLINEで、七回目を送った。「近くで十分だけ」。夜でも、土日でも、昼でもなく、今度は場所そのものを、近くにした。
その返事を待つあいだに、亮平に電話した。経過を話した。
『何回?』
亮平が聞いた。
智也は、数えた。
「七回」
『総理大臣でももうちょい暇だよ』
「嫌とは言われていない」
『……』
「忙しいって言っただけだろ」
『断られてる』
亮平の声が、少し変わった。
「条件が合わないだけかもしれないだろ。夜が駄目でも、近場の短時間なら」
『七回だぞ。七回変えて、全部だぞ』
「変えたのは俺で、断るかどうかは向こうだろ。まだ嫌とは」
『お前がヤりたいのは分かる。でも相手が嫌なら終わりだろ』
「分かってる」
『分かってねえから言ってる』
智也は、黙った。亮平は、宮下が何を考えているかは言わなかった。何回なら正解だとも、どう誘えばいいとも、言わなかった。ただ、嫌なら終わり、と言った。それだけだった。
智也は、それを完全には飲み込めなかった。嫌とは、言われていない。忙しい、としか言われていない。ただ、相手が嫌なら終わり、という言葉は、頭の中に残った。
## 5
57日目、宮下から返信が来た。
七回目の「近くで十分だけ」への、返事だった。
「ごめん。二人では行かない」
智也は、その一行を、読んだ。
近場でも、短時間でもなかった。二人では行かない、と書いてあった。十分を五分に、と下げられるような文ではなかった。条件の話では、なかった。
智也は、理由を聞かなかった。じゃあ複数人でとか、別の日にとか、そういうことも、書かなかった。何で、とも聞かなかった。
「分かりました。すみませんでした」
それだけ返して、送った。それ以上は、送らなかった。
表を開いて、宮下沙耶の15を、0に直した。誘った回数、七回。会えた回数、ゼロ。この章で使った金も、ゼロだった。
以降、智也は宮下を二人きりへ誘わなかった。総務の窓口で会えば、業務の話は普通にした。ただ、それ以上は、増やさなかった。
初回からの「忙しい」が、実は全部、時間の問題ではなかったのかもしれない。そこまでは、まだ完全には分からなかった。ただ、二人では行かない、という言葉だけは、条件を変えても動かせないものだ、ということは、分かった。
智也の目的は、消えていなかった。宮下が0になったから止まったのではなかった。宮下が、二人では行かない、と決めたから、止まった。
玲奈とは、まだ二回目の約束があった。日程も、決まりかけていた。宮下とは違って、玲奈は、会うと言っていた。会う意思のある相手なら、今までの条件は、全部効くはずだった。
九十日のうち、五十七日が過ぎていた。残りは、三十三日だった。智也は、玲奈との二回目のことを考え始めた。会えるなら、あとは、経験者らしく振る舞えばいい。そう思っていた。




