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# 第4章 清潔感

## 1


月曜の夜、智也は佳奈の行を閉じないまま、別のシートを開いた。


一番上に「清潔感」と打った。


そのままでは、また亮平の「いい感じ」と同じだった。一語では、やったかやっていないか判定できない。智也は下へ、思いつく限り分解した。


髪。眉。肌。爪。口臭。香り。服のサイズ。靴の状態。姿勢。体型。


一項目ごとに、横へ欄を足す。現状。対応。完了。それから、女性評価への影響(推定)。最後の欄まで作ったところで、これは推定でしか埋まらないな、と思ったが、消さなかった。空欄でも、欄があれば後で埋められる。


亮平に、清潔感というのは具体的に何をすれば出るのか、とだけ送った。


『髪切る、服のサイズ合わせる、あと眉とか。それくらいでだいぶ違う』


智也はそれを、助言としてではなく、要件として受け取った。髪、服、眉。三つはもう項目にある。


『そんな細かく分けなくていいって』


項目が十を超えたあたりで、亮平から一言来た。


『そこまでしろとは言ってない』


止めるほどのことでもない、という感じだった。智也は止めなかった。分けた方が、潰しやすい。仕事と同じだった。ばらばらの条件を一枚に並べれば、どこが手つかずか見える。見えれば片づく。


チェックリストができた。


一つも、まだチェックが入っていなかった。


外から一番変化が見えるのは髪だ。智也は美容院の予約を取った。


## 2


火曜、美容院へ行った。


何年も、伸びてから同じところで切るだけだった。今回は、どうしたいですかと聞かれて、答えられなかった。答えられないので、任せた。今こうで、これをどうにかしたい、とだけ言った。美容師は普通に切った。恋愛の話も、女受けの話も、しなかった。ただ切った。


帰宅して鏡を見た。前より短い。似合っているのかどうかは、自分では分からなかった。左右で少し長さが違う気がして、メモに書きそうになって、やめた。


水曜、眉を整えてもらった。木曜、ドラッグストアで口臭のケア用品と爪切りを買った。金曜と土曜は、服だった。


服が、一番こたえた。


店で店員にサイズを見てもらうと、今まで着ていたシャツが、肩も丈も合っていなかった。値段より、そのことに智也は動揺した。何年も、合っていない服を着て会社に行っていた。誰も言わなかった。言うほどのことでもなかったのか、言っても無駄だと思われていたのかは、分からなかった。


サイズの合うシャツを二枚と、パンツを一本と、靴を買った。試着室の鏡で、肩の線が体に沿っているのを見た。同じ人間が、同じ体で、線が変わるだけで少し違って見えた。智也はそれを、清潔感の項目の一つが埋まった、という意味で受け取った。


支出を表に打ち込んだ。美容院八千八百円。眉と身だしなみで五千五百円。スキンケア三千三百円。服一万九千八百円。靴で一万二千六百円。累計、五万円。九十日計画がなければ、一円も使っていない金だった。もったいない、とは思わなかった。五万円で残項目が減るなら、計算は合っている。そう思うことにした。


その週から、駅前のジムにも行き始めた。腕立てと、器具をいくつか。目的は体型で、体型は外見だった。すぐに変わるものではないのは知っていた。週に二、三回、と決めて、カレンダーに入れた。


チェックリストの項目に、順番にチェックが入っていく。残りが減る。減った分だけ、以前の自分より条件はよくなっているはずだった。SEXへ近づいた、という感覚を、智也はチェックの数で測った。


自分が変わった、とは思わなかった。項目が片づいた、と思った。


ただ、これで女の反応が変わったかどうかは、自分では確認できなかった。鏡は反応しない。


## 3


翌週の月曜、会社で用件があった。


営業部の受発注に、納期の確認を回す。担当は神谷だった。部署は違うが、月に何度か、こういうことで話す。


「この三件、納期そのままで大丈夫ですか」


「大丈夫です。あ、」


神谷が、画面から目を上げて、智也を見た。


「三崎さん、何か雰囲気変わりました?」


智也は少し間を置いた。


「髪切りました?」


「まあ」


「その方がいいですね」


神谷はそれだけ言って、もう画面に戻っていた。納期の話に戻り、確認が終わると、じゃあ、と言って自分の作業に戻った。会話は三十秒もなかった。


智也は席に戻って、表を開いた。


神谷真帆の行はまだない。それでも、メモに書いた。外見変化を認識。自発的な言及。


女が、俺の変化に気づいた。


そこまでは事実だった。神谷は確かに気づいて、確かに口に出した。智也はそこから、続きを書いた。清潔感の改善により、女性評価が上昇。SEX期待値上昇の根拠を確認。


神谷の「その方がいいですね」は五秒で終わっていた。智也のメモは、それより長かった。


清潔感は、効く。


その手応えだけで、次の日も、智也は姿勢を意識して過ごした。


## 4


火曜、また神谷と業務で会った。


用件が終わったあと、智也は前より少しだけ話を続けた。誘ったのではない。連絡先を聞いたのでもない。週末どこか行くんですか、というような、雑談だった。


「土曜、彼氏と内見なんですよ」


彼氏。


智也の中で、何かが一瞬止まった。


「引っ越すんですか」


「同棲しようかって話になってて。でも実家出るのも、通勤とか考えると微妙で」


神谷は、部屋が狭いだの、駅から遠いだの、彼氏は広い方がいいと言うだの、そういうことを少し話して、それから、あ、これ確認お願いします、と業務に戻った。


智也は普通に返事をした。理由も、何年付き合ってるのかも、聞かなかった。付き合って三年になる、とだけ神谷が言った。その先の家賃や通勤の話は、智也の耳を通り抜けた。神谷が何に迷っているのかまでは、智也には分からなかったし、分かる必要も感じなかった。


ただ、頭の中では、列が一斉に閉じていた。


彼氏あり。


対象外。


失恋とは思わなかった。付き合っていたわけでも、告白したわけでもない。ただ、条件が一つ、確定しただけだった。


## 5


火曜の夜、智也は表に神谷真帆の行を作った。


登録した。会話時間、笑顔、外見への言及、そのあたりはメモに残した。ただし、SEX期待値の初期値も最大値も、数字にしなかった。書く前に、恋人ありが確定していた。


一番右に、0と打った。0%。


誘った回数、ゼロ。会えた回数、ゼロ。


智也は、神谷の一言が無駄だったとは思わなかった。無駄にすると、この二週間でやったことの意味がなくなる。だから、切り分けた。


恋人がいるから、0だ。いなければ、清潔感の効果は残っていた。


外見を変えたら、女が気づいた。そこは合っている。神谷が智也とSEXする可能性を考えたかどうかは、別の話だったが、智也はそこを分けなかった。分けると、成功データが消える。


0という数字を打ち込んで、智也はファイルを保存した。神谷の行は、それで動かなくなった。


## 6


水曜の夜、智也は鏡の前に立った。


髪。眉。サイズの合ったシャツ。二週間前より、ましだった。腹はまだ柔らかいが、ジムはまだ四回しか行っていない。すぐに変わるものではない。それは最初から分かっている。


鏡を見ても、変わった、とは言わなかった。よくやった、とも思わなかった。ただ、チェックリストの完了項目と、神谷のメモを並べて眺めた。


外見を整えた。女は反応した。恋人がいたから、結果は0。


その三行は、智也の中では矛盾していなかった。むしろ、きれいにつながっていた。神谷は恋人という別条件で外れただけで、清潔感そのものは効いていた。なら、他の女にも効くはずだった。


清潔感は、効く。


反省はしなかった。神谷とSEXできなかったことを、痛いとも、寂しいとも思わなかった。二週間前より条件のいい自分がいて、次に埋める空欄を探すだけだった。


表の列を、左から見ていく。清潔感は、片づいた。次に空いているのは、会話。聞き上手。質問。相手の話。


そのあたりの語で、智也の目が止まった。


会話にも、正解があるはずだった。清潔感に髪や眉があったように、会話にも項目があるはずだった。相手の話を聞く。亮平もそう言っていた。聞けばいい。聞いて、覚えて、返せばいい。


九十日のうち、二十日が過ぎていた。


智也はスマホを取って、マッチングアプリの名前を検索した。写真は、もう、二週間前のものではなかった。


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