# 第3章 SEX期待値表
## 1
火曜の夜、智也はパソコンを開いた。
スマホのメモには、亮平の言葉の断片が残っている。普通に話す。気が合う。いい感じ。飯に行く。相手がいいなら。眺めても、そのままでは何も選べない。
Excelを新規で作った。
保存の名前を入れる欄で、少し止まった。
「女」。雑すぎる。
「女候補」。少しマシだが、候補が今のところ何人いるのかも分からない。
「SEX」。それだけだと、開くたびに自分でぎょっとしそうだった。
最終的に、
「SEX期待値」
と打って保存した。落ち着いて考えれば意味の分からないファイル名だったが、智也は真面目にそう名付けた。
一行目に列を作る。
名前。知り合い方。会話時間。笑顔回数。返信速度。接触頻度。恋人の有無。二人で会う可能性。SEX期待値。
会社で作る営業事務の管理表と、やっていることは同じだった。列を決めて、埋めて、並べて、比べる。顧客コードのところに名前が入るだけだ。仕事でこの作業をしているとき、智也は誰よりも速い。手が勝手に動いた。
打ちながら、一度手が止まった。
亮平が言った条件は「相手本人がいいと言う」だった。その一項目を、表のどこに入れればいいのか分からなかった。会う前に、相手が「いい」と言うかどうかは、測れない。
智也は数秒考えて、勝手に言い換えた。
了承される可能性を出せばいい。
そう決めて、一番右の「SEX期待値」に、その意味を押し込んだ。相手が了承するかどうかは分からないが、了承しそうな確率なら数字にできる。少なくとも、そう思うことにした。
女を可能性の列に並べているという自覚は、あった。ただ、分からないまま動くよりは、マシだった。曖昧なものを曖昧なまま置いておく方が、智也には耐えられない。
表の枠ができた。
一行も埋まっていなかった。
## 2
数字を入れられる女が、ほとんどいなかった。
智也はメモ帳に、候補の出所だけを書き出した。会社で顔と名前を知っている女性。昔もらってそのままの連絡先。これからアプリか何かで会うかもしれない相手。
書き出してはみたが、どれも表に名前を入れられるものではなかった。顔は浮かんでも、会話時間もゼロ、接触頻度もゼロで、埋める材料がない。ゼロの行を作っても意味がない。
実際に名前を入れられるのは、一人だけだった。
水野佳奈。
先週の飲み会を思い返した。
酒を注がれた。近かった。匂いを覚えている。それから、あの席で「絶対童貞だろ」と言われて、否定したのを、水野は聞いている。
最後の一つは、表から外した。水野が自分を童貞ではないと思っていたとして、それは数字にならない。むしろ、下手に触ると危ない項目だった。
残った三つを、根拠のように並べた。
物理的距離。会話発生。悪印象なし。
会話時間の列には、一分、と入れた。実際に何秒だったかは覚えていない。注いで、はい、どうも、それだけだ。笑顔回数はゼロにした。水野は智也に特別に笑ってはいなかった。返信速度も、二人で会う可能性も、恋人の有無も、全部空欄のままだった。埋まったのは名前と、知り合い方と、その一分だけだった。
智也は「SEX期待値」の列に、5と打った。
5%。高くはない。ただ、ゼロではない、という形にはなった。
ゼロではない、と表に書けたことで、少し落ち着いた。落ち着いてから、その5がどこから出た数字なのかを、自分でも説明できないことに気づいた。酒を注がれたことと、SEXする可能性のあいだに、式はなかった。
それでも智也は、5を消さなかった。
## 3
水曜の夜、亮平に電話した。
用件は短いつもりだった。長い相談会にする気はなかった。
「水野って覚えてる。この前話した、経理の」
『ああ、ビール注いだ人』
「その人、五パーにした」
少し間があった。
『五パー?』
「酒を注いだとき、距離も近かった」
『酒注いだだけだろ』
「物理的距離は近かった」
『その計算式、どこにあんの』
智也は答えられなかった。距離が近いと期待値が上がる、という式は、どこにも存在しない。自分で作ってもいない。
亮平は、表を消せとは言わなかった。正しい数字はこうだ、とも言わなかった。
『気になるなら普通に飯誘えば』
また「普通に」だった。智也は一瞬、先週の駅前の続きをやりたくなったが、やめた。
「今回は検証だから」
『女を検証対象にすんな』
亮平の言い方は軽かった。説教ではなかった。言うだけ言って、すぐ別の話にした。仕事で明日早い、というようなことを言って、電話を切った。
答えはもらえなかった。ただ、一度誘って反応を見る、というところだけは、智也にも実行できる形で残った。
5%なら、試す価値はある。智也は真剣にそう考えた。百回やって五回なら、二十回で一回。二十人に声をかければ、計算上は一回。そういう頭の使い方だけは、いくらでも動いた。
## 4
木曜、会社で用件があった。
経理へ回す売上の、計上月が一件合っていなかった。智也が四階へ上がると、水野がその担当だった。月に数回、こういう確認で短く話す。それ以上の関係ではない。
「この四八二三、先月計上でいいんですよね」
「納品先月ですよね。ならそっちで」
「じゃあ直します」
水野は自分の画面に目を戻しかけた。用件は終わっていた。
智也は、引き止めるほど近づかなかった。少し離れた位置から声を出した。
「水野さん、今週末、飯でも行かない?」
言い方は、自分でも硬いと思った。ホテルの話でも、恋愛の話でもない。ただ飯、とだけ言った。理由は付けなかった。付けると崩れる気がした。
水野は少し考えた。長くはなかった。
「ごめん、その週末予定あって」
「そっか」
智也は、代替日を聞かなかった。理由も聞かなかった。じゃあまた、と言って、階段の方へ歩いた。もう一言足そうとして、足す言葉が見つからなかったので、そのまま歩いた。
水野は席に戻りながら、こちらを一度見た。何を思ったかは分からない。智也の視界の端で、水野はもう画面を見ていた。
三階に降りる階段で、智也は数字のことを考えていた。断られた、という言葉は、頭の中で使わなかった。予定あり。代替日なし。持ち帰る材料が二つ増えた、と思った。
## 5
日曜の夜、智也は表を開いた。
水野の行。初期値、5%。
新しい材料を並べる。
誘いへの返答は早かった。予定あり。代替日なし。連絡先は取れていない。あれ以来、特別な接触はない。
一つずつ、意味を考えた。
返答が早いのは、迷わなかったからだ。迷わなかったのは、好意とは関係ない。ただ、その週末に本当に予定があって、即答できただけかもしれない。プラスにもマイナスにもしにくい。
予定あり。これは断りの理由だが、嫌いだから断ったとは限らない。マイナスにするには弱い。
代替日なし。
智也は、これを一番大きく引いた。会いたい相手なら、別の日を出す。出さなかった。ここが、智也にとって一番はっきりした減点だった。
それでも、ゼロにはしなかった。
嫌いとは言われていない。
そこだけを、智也は残しておきたかった。ゼロにすると、可能性が完全に閉じる。閉じたくなかった。
5から、3を引いた。理由は代替日なしだ。あとの材料は、上げも下げもしにくいので触らなかった。
最終値。2%。
その横の優先度に、「なし」と打った。
2%はゼロではない。ただ、あと九十日のうちの、残り八十日と少しを、この2%のために使うのは効率が悪い。智也はそう決めた。振られた、とは思わなかった。データが弱い。優先順位が低い。そう処理した。
処理したあとも、画面の2という数字を、少しのあいだ見ていた。
## 6
そのまま、表全体を眺めた。
空欄が多かった。
会話時間の列は、水野の一行以外ほぼ空。返信速度は取れていない。恋人の有無も分からない。そして、一番右の期待値。相手本人がいいと言うかどうかを押し込んだその数字だけは、会う前に埋まるはずがなかった。
表が役に立たなかった、とは思わなかった。役に立たなかったと認めると、火曜の夜に自分がやったことが全部無駄になる。
代わりに、こう結論づけた。
データが足りない。
そして、データが足りない原因を、相手の側ではなく、自分の側に寄せた。会える女がいないのは、自分に、女が会いたいと思う条件が足りていないからだ。
2日目の朝に検索した五つを思い出した。清潔感。会話。自信。余裕。経済力。
会話と余裕は、「普通」の中身が分からない以上、手がつけられない。経済力は、九十日で年収を上げるのは無理だ。
清潔感は、違った。
髪。眉。肌。爪。服。靴。口臭。香り。
分けられる。分けられるということは、一つずつ潰せる。潰せるということは、表にできる。
これは変えられる。
智也は、最初に手をつけるのは清潔感だ、と決めた。
正しい攻略法が見つかったわけではない。測れない人間関係の代わりに、測れる自分を選んだだけだ。ただ、智也の中では、一歩前進だった。
九十日のうち、もう五日が過ぎていた。
智也はブラウザを開いて、検索欄に「清潔感 最短」と打った。




