# 第2章 風俗行けよ
## 1
土曜の朝、目が覚めても、それは消えていなかった。
SEXしよう。
昨夜、床に座って決めたこと。酔いが抜けても取り消す気にはならなかった。取り消したところで、二十五まで九十日という数字は変わらない。ゼロも変わらない。
智也はベッドに寝たまま、スマホを持った。
まず、方法を知らなければいけない。
検索欄に「モテる方法」と入れた。
記事が出た。動画も出た。いくらでも出た。
一つ目は「清潔感がすべて」と書いていた。三つ目は「外見より中身、会話がすべて」と書いていた。どちらも「すべて」だった。
「自信を持て」というものがあった。すぐ下に「無理に自信を見せる男は嫌われる」というものがあった。
「積極的に誘え」。
「がっつくな、余裕を見せろ」。
一つの記事の中に、五つの見出しがあった。清潔感、会話、自信、余裕、経済力。読み終えても、その五つに重みの差があるのかどうか分からなかった。全部大事、と書いてあった。全部大事なら、優先順位はないのと同じだった。
智也は上体を起こした。
順番が書いていない。
清潔感が先なのか、会話が先なのか。自信を持ってから誘うのか、誘ってから余裕を見せるのか。どの記事も、自分の言いたい一つを「すべて」と言って終わっていた。全部やれ、とは書いてあるが、何からやれ、とは書いていない。
仕様が決まっていないのに動けと言われている感じだった。
智也は検索欄をもう一度触った。
「童貞 卒業 方法」
打って、消した。
「童貞が女とSEXするには」
打ちかけて、また消した。
童貞だと入力した状態で検索すること自体、なんとなく、一つ負けたような気がした。誰も見ていないのに。
昼になっても、今日の自分が何をすればいいかは分からなかった。分からないのは自分の気持ちではない。手順だった。
## 2
一般論は、いくらでも読める。
しかし、一般論を書いた人間に「じゃあ俺は今日何をすればいい」とは聞けない。聞くには、自分が何も知らない側だと明かすことになる。童貞だと知られずに初心者の質問をする方法はない。
智也は連絡先を開いた。
高瀬亮平。高校からの友人で、智也がどれだけ格好悪い話をしても、電話に出る数少ない相手だった。女の話なら、あいつが一番経験がある。
トーク画面を出した。
「SEXの方法教えて」
打った。送れなかった。消した。
「童貞の相談」
打った。消した。
最終的に送ったのは、
「相談ある。今日か明日会える?」
だけだった。
しばらくして返事が来た。明日の夕方なら空いている、という内容だった。
送ったあとで、智也は少し後悔した。
相談って何だよ。
自分で送った二文字を見て、自分で思った。何を相談するのか、口に出す形にすると、まだ何も決まっていなかった。
## 3
日曜の夕方、亮平の最寄り駅の近くの、安いファミレスで会った。
亮平は普段どおりに来た。服も髪も整っているが、そういう店にわざわざ気合を入れて来る男ではない。ドリンクバーのグラスを二つ持ってきて、片方を智也の前に置いた。
同じ二十代でも、亮平の隣に座ると、自分のシャツのサイズが合っていないことが急に気になった。智也はそれを、亮平が背が高いせいだと思うことにした。
注文して、先に亮平が言った。
「で、相談って何」
「昨日の飲み会で、ビールを注がれた。水野さんっていう女性」
「それが?」
「近かった」
亮平はストローをくわえたまま、智也を見た。
智也は続けた。
「一般論として」
亮平はストローをくわえたまま智也を見た。
智也は続けた。
「二十四で、そういう経験が少ないやつが」
「少ない」の一語を選んだ自分に、言いながら気づいた。ゼロなのに、少ない、と言った。
「急にちゃんとしたいと思ったら、何からやる?」
亮平はすぐ答えなかった。
「急にちゃんとしたいって何」
智也は答えられなかった。彼女を作りたい、とは言えない。SEXしたい、とはもっと言えない。質問がどんどん遠くなる。二十四で、経験が少なくて、急に、ちゃんと。全部ぼかしたので、何を聞いているのか自分でも分からなくなった。
料理が来た。食べた。亮平は仕事の愚痴を少しした。智也は相槌を打った。本題には戻れなかった。
食べ終わって、亮平が伝票へ手を伸ばした。
「まあ、また聞くわ」
腰を上げようとした。
## 4
「待て。まだある」
智也が言った。
亮平は動きを止めた。伝票を持ったまま、座り直した。
智也は会計を済ませて、外へ出てから言った。並んで歩き出して、亮平の顔を見ないまま。
「俺、童貞なんだけど」
少し間があった。
「知ってる」
智也は足を止めた。
「何で知ってんだよ」
亮平は、名探偵みたいな顔はしなかった。手品の種明かしをするような、面倒くさそうな言い方だった。
「高校から、お前そういう話だけずっと薄かったじゃん」
歩き出す。
「あと、作った話、細かいとこ聞くと毎回変だったし」
智也は何も言えなかった。何年もかけて積み上げてきた嘘が、実は最初から半分ばれていた。ばれた瞬間の恥ずかしさより、ずっとばれたまま普通に付き合われていた恥ずかしさの方が大きかった。
「交際経験もない」
言った。もう言うしかなかった。
「うん」
亮平は驚かなかった。かわいそうに、とも言わなかった。それだけは、少し助かった。
智也は前を向いたまま続けた。
「あと九十日で二十五なんだよ」
「うん」
「その間にSEXする」
亮平は横断歩道の信号を見上げた。
「何で二十五」
「知らん。二十五は、もう何か……」
言葉を探した。根拠はなかった。医者に言われたわけでも、統計を見たわけでもない。
「二十四までなら、まだ」
「まだ何」
「二十五からは嫌だ」
亮平は、それは変だとも、間違っていないとも言わなかった。
「お前の中ではそうなんだ」
信号が青になった。二人は渡った。
渡り終わったところで、亮平が言った。
「じゃあ風俗行けよ」
## 5
「違う」
智也は即座に言った。
「何が」
「風俗は違う」
「目的SEXだろ」
そのとおりだった。目的はSEXだ。だから亮平の言っていることは正しい。正しいのに、違った。智也は最初、うまく言えなかった。
「金払ってヤるのは、童貞卒業に入らない」
「誰が決めた」
「俺」
「じゃあ変えろよ」
「嫌だ」
亮平が少し呆れた顔をした。智也は本気だった。ふざけて言い張っているのではなかった。
歩きながら、智也は自分の中にあるものを、なんとか言葉にしようとした。
「風俗は課金だろ」
「は?」
「俺は無課金でクリアしたい」
「女をソシャゲに例えるな」
うまい説明ではなかった。自分でも、たとえが最悪なのは分かっていた。ただ、感覚としては、それが一番近かった。金を払って最後の場面だけ買うのは、飛ばしたことになる。出会って、話して、飯を食って、相手がいいと言って、それでする。その全部を通らないと、通ったことにならない。
なぜそう思うのかは、智也自身にもうまく説明できなかった。金で済ませたら、それは自分の勘定に入らない。誰が決めたルールでもない。智也が決めたルールだった。だから曲げる気もなかった。
亮平は、面倒くさそうに、雑に説明した。
「普通に、一般の女と会って、飯でも行って、相手がいいなら、そうなるだろ」
智也は、その最後のところだけを拾った。
「相手がいいなら」
「うん」
「本人がいいって言わないと駄目だろ」
「そりゃそうだろ」
亮平にとっては当たり前すぎて、確認する意味もない、という言い方だった。智也にとっては違った。智也はそれを、初めて条件として拾った。頭の中に、箇条書きが並んだ。
一、風俗じゃない。
二、一般の女。
三、相手本人がいいと言う。
四、実際にSEXする。
亮平が、思い出したように聞いた。
「彼女にするのは、別に条件じゃないんだ」
「別にいらない」
恋人も、好きも、将来もいらない。一回でいい。
亮平は「なぜ相手の了承がいるのか」を説明しなかった。智也も、それを深く考えなかった。当たり前のことだと思っていた。
条件は決まった。
決まっただけだった。その条件を満たす方法は、まだどこにもなかった。
## 6
駅前まで来た。亮平は反対方向の路線に乗る。別れ際だった。
智也は聞いた。
「で、どうすればSEXできる?」
「普通に話せ」
「普通を定義しろ」
「定義とかない」
「じゃあ何を根拠に女と飯行ってんの」
「話して、気が合えば」
「気が合うって何」
亮平は少し考えた。
「いい感じ」
「いい感じを定義しろ」
亮平は黙った。改札の方を見て、それから、諦めたように言った。
「……無理」
説明できない、という顔だった。
「相手によるだろ」
亮平は続けた。
「嫌そうならやめればいいし」
智也にとっては、何の手順にもならなかった。相手による、では、行動できない。気が合う、では、測れない。亮平は経験があるのに、その経験を、渡せる形にできなかった。
不満だった。しかし、亮平を役立たずだとは思わなかった。役に立たなくても、こいつの前でだけは、童貞だと言えた。それは今日、はっきりした。
「また聞く」
「勝手にしろ」
亮平は改札を抜けて、階段を上っていった。
## 7
月曜の夜、智也は部屋でスマホのメモを開いた。
書いたのは表ではなかった。亮平の言葉の断片だった。
普通に話す
気が合う
いい感じ
飯に行く
相手がいいなら
見返した。
何一つ、判断できなかった。
普通って何だよ。
自分についても、分からなかった。今の自分が女とどれくらい話せるのか。何が足りていないのか。誰と話せば可能性があって、誰は無理なのか。何をすると近づいて、何をすると遠ざかるのか。全部、感覚の言葉のままだった。感覚は、亮平のものであって、智也のものにはならなかった。
智也は仕事では、こういうものを表にしてきた。顧客ごとの締日。納期。合わない数字。ばらばらの条件を一枚に並べれば、どこがずれているか見える。見えれば直せる。
女は表にしたことがなかった。
智也はメモを閉じた。
分からないなら、分かる形にするしかない。
決意ではなかった。感動でもなかった。ただ、曖昧なものをそのまま放っておく方が、智也には気持ち悪かった。数字にすれば、少なくとも見える。見えれば、比べられる。比べられれば、順番がつく。
画面には、昨日からの検索履歴と、亮平の連絡先が残っていた。
智也はスマホを置いた。会社に行けば、顔と名前を知っている女は、何人かいる。




