# 第1章 童貞ではない男
営業から回ってきたメモには、こう書いてあった。
4823 例のやつ 二十日締めで
例のやつ、では入力できない。
智也は顧客コードを叩いた。四八二三。介護施設向けの交換フィルター。先月も同じ客の同じ商品で、納品先だけが二か所に分かれていた。施設が二つあって、請求は一本にまとめる。たぶん今月も同じだろう。
たぶんで入れると、来月になって経理から戻ってくる。戻ってくると、営業に聞くことになる。営業は「事務に送った」と言う。そこから二往復する。二往復で三十分は溶ける。
智也は席を立って、営業の島まで行った。担当は電話中で、受話器を耳に当てたまま指を二本立てた。二か所、という意味だった。智也は自分の席へ戻って二行入れ、備考へ「納品先分割・前月同条件」と打った。
三十秒で済むことを、来月やると三十分になる。それだけの話だ。
金曜の夕方の三階は、電話が鳴らなくなると急に広く感じる。端の蛍光灯が一本、わずかにちらついている。半年前からちらついている。誰も総務に言わない。智也も言わない。
「三崎」
押田が四階から降りてきていた。手にA4が一枚。
「これ、四八二三の売上、計上先月になってんだけど」
「納品が先月、請求が今月」
「合ってんの?」
「合ってる」
押田は紙を五秒見て、それから折った。経理は四階で、営業事務は三階にある。階段で一分もかからない距離に、同じ数字の呼び方が二種類ある。智也が入社してからずっとそうで、たぶん入社する前からそうだった。
押田は折った紙をポケットへ入れた。そのまま四階へ戻らず、智也の机の角に寄りかかる。
「今日来るよな?」
「何に」
「飲み」
「ああ」
行くと返事をした覚えはあった。営業の誰かが幹事で、上期の打ち上げということになっている。行っても行かなくてもいい会だ。ただ、断る理由を考える方が面倒だった。
「俺、明日フットサルだからそんな飲まないけど」
「ふうん」
「終わってから、夕方に人んちでBBQ」
智也は画面から目を上げた。
「一日に二個予定入れる意味分からん」
「普通だろ」
「嘘つけ」
押田は笑って四階へ上がっていった。
智也は保存して、Excelを閉じた。二十四歳の金曜。酒を飲んで帰る。それだけだ。
## 2
店は駅の方向に歩いて五分の、若手がよく使う居酒屋だった。半個室に長テーブル。生と瓶とサワーとハイボール。大皿の唐揚げと刺身の盛り合わせ。奥に座った真壁の声が、入り口からでもよく聞こえる。
十人。営業が三人、営業事務が智也を含めて二人、経理が三人、総務が二人。上期の打ち上げということになっている。会社が出す金は一円もない。
智也は真ん中より少し入り口寄りに座った。座る場所を選んだわけではない。空いていたのがそこだった。通路側だと、料理が来るたびに皿を回す係になる。
最初の三十分は仕事の話だった。営業が急に「今日中で」と言ってくること。その依頼が実は先週から分かっていたこと。経理の女性社員が「先週分かってたなら先週言ってほしい」と言って、営業の一人が「言うと忘れるんだよ」と言って、その場が一度笑った。総務の宮下が備品の申請書の話をして、営業の誰かが用紙の存在自体を知らなかった。また笑った。
唐揚げが半分になった。誰も智也に何も聞かなかった。智也もそれで別によかった。
真壁がハイボールの三杯目を頼んでから、話が変わった。
「おっしー、この前の子どうなった」
押田は枝豆を摘まんだまま少し黙った。
「二回目、ないです」
「アプリの?」
「そうです。一回飯行って、それで終わり」
「何した」
「何もしてないですよ」
「何もしなかったからだろ」
「ダイさんの恋愛論、全部昭和なんすよ」
周りが笑った。真壁も笑った。誰かを追い詰めて笑うわけじゃない。ただ声が大きくて、距離が近いだけだ。
一回飯を食って、それで終わり。
智也はそれを、押田の失敗として聞いていた。押田は一回会っている。会って、飯を食って、帰ってきて、それを金曜の席で普通に話している。明日はフットサルで、その後にBBQがある。同い年だった。
「三崎は?」
急に振られた。智也はグラスを置いた。
「何が」
「最近」
「別に」
「別にって顔じゃねえだろ」
「別に」
押田が横から入ってきた。
「三崎、大学ん時の年上の人いたじゃん」
「昔だろ」
「あの結構すごかった人」
「何が」
真壁が身を乗り出した。テーブルの向こうから、鶏皮の串を持ったまま。
「ダイさんが勝手にエロい女にしてるだけだから」と押田が言った。
「だって三崎が『色々教わった』って言ったんだろ」
「その言い方やめろ」
また笑いが起きた。智也も笑った。手の中でグラスが少し滑った。
バイト先の一つ上の女。派手め。半年。
半年だったか、七か月だったか。
自分で作った設定なのに、酔うと危ない。
智也は数えない方の頭で数えていた。高校の彼女。大学の彼女。バイト先の年上の女。社会人になってから、ほぼ付き合っていた女。四人。
四人とも、いない。
## 3
新しい瓶ビールが来て、店員はテーブルの向こう側、経理の並びの前に置いていった。手が届いたのが水野だった。
水野は瓶を取って、隣を見た。
「押田君、まだビール?」
「お願いします」
押田がグラスを差し出す。水野が注ぐ。
向かいの女性社員が手を振った。
「私はもういい」
「了解」
そのまま、水野の目がテーブルを一往復した。智也のグラスで止まった。半分より下だった。
智也は背中を椅子から離した。腹に力を入れた。何のためかは考えていない。身体が先に動いた。
「三崎君もビール?」
「あ、はい」
自分の声が思っていた位置より高いところから出た。低く出すつもりだった。出す前に出ていた。
水野が腰を浮かせて、テーブル越しに身体を近づけてきた。瓶が傾く。
近い。
髪が肩から前へ落ちて、水野が片手でそれを押さえた。首の後ろが見えた。シャンプーなのか柔軟剤なのか、それは分からない。匂いに店の油が混ざって、はっきり届いた。
胸は見ない。
見ないようにした結果、胸がどこにあるかだけを完全に把握した。
女の匂いだった。
泡が上まで来て、水野が瓶を戻した。
「はい」
「どうも」
水野はもう次を見ていた。
「真壁さんは?」
「俺も」
水野はテーブルを回って真壁に注ぎ、瓶を振って残りを確かめて、それから自分の席へ戻った。座って、経理の女性社員が話していた続きへ相槌を打った。智也の方は見なかった。
近くに瓶があった。それだけのことだった。それは智也にも分かっていた。
智也はグラスを持った。泡が指に付いた。冷たかった。飲むと、味は普通のビールだった。
匂いの方が、まだ残っていた。
押田が横から言った。
「三崎、今声高くなかった?」
「なってねえよ」
「なった」
「なってない」
真壁が反応した。
「何?」
「水野さんに酒注がれたら三崎の声上がった」
「上がってない」
真壁の声が一段大きくなった。
## 4
「お前さ」と真壁が言った。「女慣れしてる設定どこ行ったんだよ」
設定。
冗談だと分かっている。分かっているが、その二文字だけ、耳の内側に残った。
「設定じゃねえよ」
「じゃあ年上の人。何がすごかったんだっけ」
「別に」
「色々教わったんだろ?」
「まあ」
「何を?」
智也はグラスを置いた。
「……色々」
押田が箸を置いた。
「三崎、こういう話になると急に全部抽象的なんだよ」
「人によるだろ」
「ほら」
周りが笑った。総務の二人まで笑った。智也は笑わなかったが、口の形だけは笑いに近づけた。
真壁は面白がっていた。目の前で転がったものを転がしているだけで、そこから先を掘るつもりは、たぶんない。
「じゃあ女喜ばせるコツは?」
「結局相性だろ」
「相性以外」
「タイミング」
「また抽象的」と押田が言った。「じゃあ具体的に何すんの?」
具体的に。
智也の中には何もなかった。
こういう時は話を広げない。広げると、細かいところを聞かれる。細かいところを聞かれると、答えを作ることになる。作った答えは覚えていられない。だから相性で止める。タイミングで止める。ずっとそうやってきた。
ただ、今は押田が「具体的に」と言った。真壁が待っている。テーブルの端まで静かになっている。
知らない、とは言えない。それだけは言えない。
代わりに、いくつかの断片が出てきた。画面の中で誰かが答えていたインタビュー。どこで読んだか思い出せない記事の見出し。三十秒の広告。経験者ならこの程度のことは言うだろう、と思った。
「……照明」
一拍あった。
「照明?」と真壁が言った。
「暗い方がいいだろ」
「何で?」と押田が聞いた。
「雰囲気」
「戻った」
笑い声が起きた。真壁が椅子の背もたれへ体重をかけて、それから、何でもないことのように言った。
「三崎、お前絶対童貞だろ」
一瞬の笑い。二秒あったかどうか。
智也は笑えなかった。
考える前に口が動いた。
「なわけねえだろ」
少し強かった。
自分でも分かった。テーブルの温度が、ほんの半度だけ変わった。真壁の隣で、誰かが串を皿に置く音がした。
だから続けた。
「普通にあるわ」
普通に。
真壁が手を振った。
「何だよ、マジになるなって」
「ダイさん、うちの部の入金の件どうなりました」と押田が言った。
「あれな、営業が悪い」
「ダイさん営業じゃないですか」
真壁が笑い、真壁の隣が笑い、話は請求書の話になった。
## 5
飲み会は普通に続いた。
追加の唐揚げが来た。誰かが日本酒を頼んで、誰かが止めた。真壁は自分の担当している客の話を始めて、その客がいかに無茶を言うかを三分話した。押田は明日の集合時間をスマホで確認していた。水野は経理の女性社員と、通販で買った何かの話をしていた。届いた箱がまだ開いていない、というような話だった。
誰も智也を見ていなかった。
童貞。
智也の頭の中で、その二文字だけが回っていた。
表面は普通にしていた。笑った。飲んだ。相槌を打った。誰かの話に「マジすか」と言った。何の話だったかは覚えていない。
別に。
童貞だから何だ。
二十四なら普通にいる。統計を見たわけではないが、いる。だいたい、真壁の言い方が雑なだけだ。あれは根拠のある話じゃない。声が高くなったとか、話が抽象的だとか、その程度で決めている。
たまたまだ。
機会がなかっただけだ。
本気を出していないだけだ。
智也はハイボールを飲んだ。氷が溶けて薄くなっていた。
テーブルの向こうで、水野が髪を耳へかけた。話を聞きながら、片手で耳の上を撫でるみたいにして、そのまま手を下ろした。
智也の目が一瞬止まった。すぐ逸らした。
十時前に会計になった。一人四千円。智也は千円札を四枚出した。
「じゃ、お疲れ」
真壁が先に出た。もう智也の方は見ていなかった。あの一言を引きずっている様子は、どこにもなかった。たぶん明日には忘れている。
押田が鞄を担いだ。
「俺、明日朝早いから帰る」
「BBQまであんだろ」
「ある」
「頭おかしい」
「普通だって」
押田は改札を抜けて、反対方向のホームへ上がっていった。
智也は自分のホームで電車を待った。金曜の夜のホームには人がいた。全員が誰かと話しているわけではなかった。
## 6
電車を降りて、駅から十二分歩く。途中のコンビニは開いている。入らなかった。腹は減っていなかった。
アパートは築が古い。階段が金属で、上ると音が鳴る。夜中に帰ると自分の足音だけが響く。二階の角。
部屋に着いたのは十一時過ぎだった。
靴を脱ぐ。照明をつける。一Kの部屋が一秒で全部見える。畳んでいない洗濯物。飲みかけのペットボトル。ゴミの日を一回逃した袋。冷蔵庫が低く鳴っている。エアコンをつけると、その音が冷蔵庫の音に重なった。
上着を椅子の背にかけて、シャツをそのまま床へ落とした。
ベッドに座って、スマホを見た。何も来ていなかった。飲み会の礼を送るような関係の人間は、あの十人の中に一人もいない。
さっきの店の匂いが、まだ髪に付いていた。
水野が身体を近づけてきたときの距離。首の後ろ。髪を押さえた手。匂い。
水野、ではなかった。
女だった。
智也はスマホを持ち直した。
履歴に一貫性はない。昨日は熟女で、その前は制服で、その前が何だったかは覚えていない。指が勝手に動いて、いくつか開いて、いくつか閉じた。長い髪の女が映っているものを再生した。それ以上の理由はなかった。
音を切った。
終わったあと、智也は動画を止めた。
画面が止まる。部屋が静かになる。エアコンの音と冷蔵庫の音だけが残った。
さっきまで十人いた。
今、一人だった。
ティッシュを丸めて、手の届く場所のゴミ箱へ落とした。入らなかった。拾って、入れ直した。
自分の手。ティッシュ。スマホ。
温度のあるものは、この部屋に一つもなかった。
## 7
そのまま床に座って、スマホを見ていた。
画面の上に通知が一つ出ていた。カレンダーだった。何年か前に自分で登録して、そのまま毎年出てくるやつだ。
誕生日。
指で先の月へ送った。三か月ほど先のところに、その予定だけがある。他には何もない。予定のない三か月分の四角が並んでいた。
二十五。
智也は日付を見た。今日から、その日まで。
九十日。
指を止めた。
現在二十四歳。
SEX経験、ゼロ。
交際経験、ゼロ。
キス、ゼロ。
高校三年。
大学。
バイト。
会社。
ゼロ。
たまたま機会がなかった。ずっとそう思ってきた。今もそう思っている。
ただ、数字にすると少し様子が違った。
十年以上ある。
高校からでも十年近い。その間、女と二人でどこかへ行ったことがない。手を握られたこともない。誰からも、その相手として選ばれたことがない。一度も。
十年で、ゼロ。
一年に一回でも起きていれば十回だ。三年に一回でも三回。十年に一回でも、一回はある。
ゼロだった。
たまたまって、何年までたまたまなんだ。
智也は画面の四角を見ていた。
二十五でも同じことを言える。二十六でも言える。三十でも、たぶん言える。待っていれば、そのうち。
そのうちが来る根拠がない。
それだけだった。それだけのことが、急に、はっきりした形で目の前にあった。
このまま、一回もしないで終わる可能性。
ゼロではない。
たぶん、ゼロよりずっと高い。
## 8
床は冷たかった。エアコンが止まって、冷蔵庫の音だけになった。
スマホの画面が暗くなりかけて、智也は指で触って明るくした。
二十五。
九十日。
ゼロ。
待つ。何も起きない。
なら。
彼女を作ろう、ではなかった。
恋をしよう、でもなかった。
変わろう、でもなかった。
あと九十日。
智也は画面を消した。
SEXしよう。




