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# 第13章 待つ

## 1


87日目の朝、智也はカレンダーを見た。


誕生日まで、残り四日だった。


表を開いた。表に載せた女が、十四人。一対一で会えたのが、六回。二回以上会った相手が、二人。使った金は十万円に近い。並べれば、それなりの数字だった。九十日前の自分より、外見も会話もましになっている。それは、たぶん本当だった。


ただ、智也が見ている欄は、一つだけだった。


SEXの成立。ゼロ。


そこがゼロだった。他の数字が全部増えても、その一つがゼロだった。智也の物差しでは、それが全部だった。十四人、表に入れて、ゼロ。三か月使って、ゼロ。清潔感を整えても、会話を覚えても、金を使っても、余裕を作っても、最後の欄は動かなかった。全部、途中まで行って途中で終わった。一番近かったのは、相沢だった。あの、駅の近くだった。あそこで、自分の嘘で終わった。


焦り、というより、時間がはっきり見えていた。あと四日で、この一つのゼロを動かせるのか。動かせなければ、二十五になる。二十五になって、また、同じ部屋で同じ画面を見る。それが、四十でも五十でも続く。その想像だけは、いつまでも慣れなかった。


## 2


88日目、プロジェクトは最終局面だった。


試用の期間の、最後の確認をしていた。営業側の一覧と、経理側の確認件数が、一件だけ合わなかった。大きなトラブルではなかった。ただ、締める前に潰しておく必要があった。


「こっちの数字、一件多い」


智也が言った。


「営業側?」


「多分」


「多分で持ってこないで」


「今、見る」


智也が、顧客コードと、受注番号と、月を突き合わせた。差分を抜き出した。水野が、その一件を見た。


「これ、分割請求」


「ああ」


一つの売上が、経理側では、二つの請求に分かれていた。件数が、一件ずれる。金額の合計は合っていた。智也が、共通表に例外のコードを入れた。もう一度、確認した。合った。


「終わった」


智也が言った。


「終わったな」


水野が、椅子の背に、少し体を預けた。


「疲れた」


拍手も、握手もなかった。上司が、じゃあ来月からこれで、と言った。それで、終わりだった。


## 3


資料を片づけた。


共通表の最終版を保存した。手順書に、例外の客の一覧を貼り付けた。これで、毎月の確認が少し減るはずだった。減れば、いいことだった。


片づけながら、智也は一つ気づいた。


明日から、水野に聞くことが減る。


プロジェクトが終われば、営業事務と経理が毎日話す理由はなくなる。月に数回、業務の確認で短く話す。元の距離に戻る。この三週間ほど、一日に何度も話していたのが、また、月に数回になる。


接触の頻度が下がる。


智也は、それを数字で考えた。接触の頻度が下がる。会話の時間が減る。仕事という、毎日会う理由がなくなる。そう並べると、期待値が下がる、という話になるはずだった。ただ、その期待値の、元の数字が、水野については出てこなかった。下がる、と言うにも、元が分からなかった。


寂しい、とは思わなかった。会えなくなる、とも考えなかった。そういう言葉は、智也の中になかった。ただ、資料を片づける手が、少し遅くなった。もう終わった確認を、もう一度、開いて見た。会話の終わりを、少し引き延ばしていた。自分が、なぜそうしているのかは、智也には分からなかった。分かろうともしなかった。


## 4


夕方だった。片づけが、ほぼ終わっていた。


水野が、伸びをして言った。


「お腹すいた。今日、昼まともに食べてない」


「飯、行く?」


言ってから、あ、と思った。


計画したのではなかった。口が先に出ていた。いつもの、女相手の誘い方とは違った。声を低くもしなかった。段取りも組んでいなかった。ただ、腹すいた、と言われて、飯行く、と返していた。


水野が少し、こちらを見た。考えている顔だった。


智也は待った。


以前なら、ここで足していた。昼でもいい。コーヒーでもいい。近くでもいい。相手が迷った瞬間に、条件を下げて、下げて、いた。宮下のときが、そうだった。夜が、土日が、昼が、と、勝手に、自分で要求を小さくしていった。それが、相手の意思を変える手順だと思っていた。


今回は言わなかった。飯行く、とだけ言って、あとは、水野の返事を待った。数秒の沈黙があった。詰めたくなる気持ちはあった。何か言った方が、いい気がして、口を開きかけた。ただ、言わなかった。


「いいよ」


水野が言った。


智也は驚いた。


「何」


「別に」


「何でもない」


驚いたのを、水野に見られた気がして、智也は少し目を逸らした。


## 5


「いつがいい」


智也が聞いた。


「プロジェクト終わったし、今週末なら。土曜、昼、空いてる」


土曜。智也は、その日を、頭の中で数えた。


誕生日の、前日だった。九十日目だった。期限の、最後の日だった。


智也は、期限のことを、水野に話していなかった。水野が土曜を選んだのは、ただ、その日の昼が空いていたからだった。智也が二十五になることも、あと何日かも、水野には言っていない話だった。


「じゃあ、そこで」


智也は、声を普通に保った。焦って、別の日に、とは言わなかった。押しつけもしなかった。水野の、空いている日に合わせた。


期限、最終日。水野。昼。約束。


SEXの期待値を、頭の中で出そうとした。出なかった。ただ、智也は、可能性はある、と思った。ゼロでは、ない気がした。その気がした、というだけで、何パーセントかは分からなかった。


## 6


帰宅して、表を開いた。


水野佳奈。2%。最終更新日は古いままだった。数字を動かそうとした。やはり、動かなかった。閉じた。


過去なら、女とヤりたい、だった。女、という、大きなくくりだった。誰でも、可能性があるならよかった。


今は違った。


浮かぶのは、水野の顔だった。髪を後ろで結んだところ。へえ、という、あの返し。コンビニのかごの、冷凍パスタ。仕事中の、めんどくさ、という声。結んだ拍子の、匂い。


女とヤりたい、ではなかった。


水野とヤりたい。


智也は、そう思った。はっきり、そう思った。


次に、好きなのか、とは進まなかった。そういう言葉は出てこなかった。出てきたのは、別の問いだった。どうすれば、ヤれるか。土曜まで、あと数日。何を準備すればいいか。智也の頭は、すぐ、そっちに動いた。


## 7


亮平に電話した。


「水野と、飯行く」


『マジ?』


「何が」


『あの2%?』


「その呼び方、やめろ」


『お前がつけたんだろ』


「うるせえ」


亮平は、一瞬、何か言いかけて、やめたようだった。好きなんじゃないか、とも、本命じゃん、とも言わなかった。数字で呼ぶな、と言った智也のことを、少し妙に思ったかもしれなかった。ただ、それは、口には出さなかった。


『で、いつ』


「土曜、昼」


『昼か』


「昼」


亮平は、それ以上、水野が何パーセントか、とは聞かなかった。智也も言わなかった。二%、という言葉が、なんとなく、口に出しにくくなっていた。そのことに、智也は、自分でも、うまく説明がつかなかった。


## 8


「ラブホって、予約する?」


智也が聞いた。


『場合による。……お前、昼飯だろ』


「どこがいい」


『知らん。近いとこ』


「口コミ、3.1なんだけど」


『ラブホの口コミ、精査すんな』


智也は、もう、いくつか調べていた。設備。料金。支払いの方法。休憩の時間。部屋の写真。


『お前、水野と昼飯だよな』


「だから?」


『昼飯から、ラブホのレビューまで、飛ぶな』


「段取りは、早い方がいい」


『途中が、雑なんだよ、お前は』


智也は、それには答えなかった。昼飯とホテルの間が抜けている、という自覚は、あまりなかった。昼に会って、それから夜まで、どうやって続けるのか。そこは、智也の表には、まだ埋まっていなかった。


## 9


『あのな』と亮平が言った。『ホテルまで行ったって、帰ることあるからな』


「そこまで行って?」


『行って』


「ホテルの、前まで?」


『ホテル入ってからでも、ある』


智也には、それが、うまく飲み込めなかった。


「何で。そこまで行って」


『気が変わるから』


「そこまで、条件揃って?」


『人間に、条件揃ったとか、言うな』


智也は黙った。条件が揃えば、結果が出る。ずっと、そう思ってきた。揃ったところで、帰る。それは、智也の理屈の外にあった。知識としては、聞いた。ホテルまで行っても、帰ることがある。頭には入れた。ただ、腹には落ちなかった。そこまで揃って、帰る理由が、智也には分からなかった。


## 10


『ゴムは、絶対だからな』


亮平が言った。


「当たり前だろ。俺を、何だと思ってんだ」


『今までの行動から、総合的に判断してる』


「何だよ、それ」


亮平は、笑っていた。智也は、少し腹が立った。


## 11


「最悪、土下座でもすれば」


智也が、軽く言った。焦りが口に出た。


『土下座だけはするなよ』


亮平は、即座に言った。冗談の声ではなかった。


「するわけ、ねえだろ」


『今、言っただろ』


「比喩だよ、比喩」


智也は笑った。亮平も、それ以上は言わなかった。土下座、という言葉が、その場に、少し残った。智也は、それを、本気で言ったつもりはなかった。追い詰められた男が言う、ただの言葉、くらいのものだった。するわけがない。そう、思っていた。


## 12


『まあ、普通に行けよ』


最後に、亮平が言った。


「普通って、何」


『もういい』


電話が切れた。


亮平は、頑張れ、とも、成長したな、とも言わなかった。送り出す、という感じでもなかった。いつもの、電話の切り方だった。もういい、で終わった。智也は、それでよかった。励まされると、かえって緊張しそうだった。


## 13


その夜、智也は、一人で、ホテルを調べた。


昼に会う店から、駅へ行く道と、ホテル街は、方向が別だった。まっすぐ駅へ向かえば、ホテル街は通らない。少し、遠回りをする形になった。候補を、三つ出した。ホテルA、B、C。駅からの距離。昼の店からの、歩く時間。ホテル街の入りやすさ。部屋の写真。料金。休憩の時間。深夜の料金。風呂の広さ。支払いの方法。口コミ。


比較表を作った。列は、いつもの癖だった。項目を、並べて、埋めて、比べる。仕事と、同じ手つきだった。ただ、埋めているのは、ホテルの情報だった。


自然に見える度合い。近さ。値段。評価。ホテルAが、一番、無理がなかった。駅とは別の方向だが、昼の店から、歩いて数分。遠回りをしても、不自然にならない距離だった。看板も、派手すぎない。


ラブホの口コミ、精査すんな。亮平の声が、頭に浮かんだ。それでも、智也は口コミを読んだ。風呂が広い、清潔だ、というのが、いくつかあった。写真も、料金も、休憩の時間も、支払いの方法も覚えた。全部、頭に入っていた。


入ったことだけが、なかった。


## 14


89日目、仕事帰りだった。


智也は、まず、ドラッグストアに寄った。ゴムを買った。千二百円。種類が、思ったよりあった。何が違うのか、分からなかった。しばらく、棚の前で迷って、結局、真ん中くらいのやつを買った。迷っている自分が、少し間抜けだった。使うかどうかは、分からない。ただ、無いよりはいい。智也の理屈では、そうだった。


それから、智也は、そのあたりを、一度、歩いた。


昼に会う店の前を通った。まっすぐ駅へ行けば、ホテル街は通らなかった。駅とは、別の方向だった。智也は、その別の方へ歩いてみた。少し行くと、ホテル街の入り口があった。裏路地ではなかった。普通に、人も車も通る場所だった。近くに、コンビニがあった。小さな飲食店もあった。ホテルの看板が、いくつか見えた。


智也は、ホテルAの前まで行った。写真で見た、あの建物だった。看板も、料金の表示も、見た覚えがあった。入らなかった。ただ、前を通り過ぎた。


通り過ぎながら、少し恥ずかしかった。昼間から、一人で、ホテルの前を歩いている。誰かに、見られた気がした。見られていない、と分かっていても、姿勢を正した。何食わぬ顔で、そのまま、駅の方へ歩いた。


ルートは、頭に入った。昼の店から、ここまで、歩いて何分か。どう歩けば、遠回りが自然に見えるか。全部、確かめた。


## 15


家に帰って、智也はスマホを見た。


土曜の予定に、水野との昼食が入っていた。ホテルの候補は決まっていた。ゴムも買ってあった。ルートも歩いた。準備できるものは、全部、準備した。


一つだけ、準備できないものがあった。


水野が、SEXするかどうか。


それは、智也の準備の外にあった。ホテルも、ルートも、ゴムも、自分で揃えられた。水野の返事だけは、揃えられなかった。ホテルまで行っても、帰ることがある。亮平は、そう言った。頭では、聞いた。ただ、智也は、その不確かさを、まだ、本当には分かっていなかった。ここまで準備すれば、たぶん大丈夫だ、と、どこかで思っていた。


できることは、やった。


智也は、そう思った。


浮かんだのは、水野の顔ではなく、細かい癖だった。髪を結ぶところ。へえ、という声。コンビニの袋。あの、匂い。


水野とヤりたい。


もう一度、そう思った。


スマホの日付を見た。土曜まで、あと一日だった。明日が、九十日目だった。智也は、画面を消した。


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