# 第12章 水野佳奈
## 1
83日目の朝、智也はスマホのカレンダーを見た。
誕生日まで、残り七日だった。数字は確実に減っていた。表の女は全部ゼロで、新しい相手もいなかった。この一週間で何かが起きる見込みは、正直、薄かった。
智也は、深刻になりかけてやめた。朝から考えても、行動できるものがなかった。焦っても、相手がいなければ、焦りはただの焦りだった。
表を上から見た。神谷、0。小森、0。相沢、0。宮下、0。誘った回数は増えていた。使った金も増えていた。SEXの成立だけが、ずっと0のままだった。あと七日で、この0が1になる見込みは、どこにもなかった。アプリを開いても、新しくマッチした相手を七日で会って、そこまで持っていくのは、これまでの経験から言って無理だった。時間が足りなかった。
表の下の方に、水野佳奈の行があった。2%。読み飛ばそうとして、少し目が止まった。止まったが、何も入力しなかった。攻略の相手ではない。ずっと、そう決めてある。プロジェクトで、毎日話しているだけの相手だった。智也の頭の中で、水野の名前と、あと七日という数字は、まだ別々の場所にあった。並べて考える、ということをしていなかった。仕事の相手とSEXの計画は、別の欄だった。
## 2
その日、水野が、仕事の合間に、少し愚痴を言った。
「昨日また、姉に、転職すればって言われた」
「前も言われてたじゃん」
水野が、こちらを見た。
「覚えてたんだ」
「まあ」
「三崎君、人の話、覚えてるよね」
智也は少し引っかかった。
前なら、女の話を覚えるのは、聞き上手の技術だ、と考えた。覚えて、後で出せば好感度が上がる。ただ、水野の姉の話は表に書いていなかった。姉も転職も、期待値の列には関係がない。書いてもいないのに、覚えていた。
水野は、覚えてたんだ、と言っただけで、感動した様子はなかった。人の話を覚えてるよね、と言って、それから、すぐ次の確認事項に戻った。この客の計上月がどうの、という話だった。話は、それで終わった。
智也は、書いていない情報を覚えていたことを、少し妙に思った。アプリの相手のときは、覚えるために書いた。妹の試験のことも、撮影の異動のことも、メモに残して後で出した。それは、攻略のための作業だった。水野の姉の話は、その作業をしていなかった。それなのに、残っていた。ただ、それ以上は考えなかった。仕事が詰まっていた。締めが近かった。
## 3
84日目、智也は、複数の部署の修正内容を、一人でまとめていた。
経理側の例外の扱いは、水野に聞けば、たぶん五分で済んだ。ただ、智也は聞かなかった。過去の請求データを開いて、備考を読んで、メールをさかのぼって、自分で調べた。数時間かかった。
説明して、確認してもらって、という往復が面倒だった。この客がどうで、この処理がどうで、と説明しているうちに、自分で調べた方が早い、という気がしてくる。頼むと、相手の時間も使う。使わせて、待って、返ってきたものを、また確認する。だから、自分で全部やった。格好をつけていたわけではなかった。水野に、できない男だと思われたくない、とか、そういうことでもなかった。ただ、そういう性格だった。仕事は、いつもそうやってきた。
夕方、水野が、智也の画面を覗いた。手元の一覧と、智也の画面を見比べた。
「これ、昨日やってたの」
「うん」
「私に聞けばよかったじゃん」
「別にできたから」
「時間かかってるけど」
「終わったから、いいだろ」
水野が少し、間を置いた。
「三崎君って、思ってたより不器用だよね」
智也は、その言葉を受け取った。不器用。水野が言っていたのは、経理に聞けばいい仕事を、一人で何時間もかけて抱えたことだった。それは、分かっていた。頼るのが下手だ、という意味だった。分かっていて、それでも、少し別のところに刺さった。思ってたより、というところが引っかかった。思っていた、ということは、水野は智也について、何か思っていた、ということだった。その中身は、分からなかった。
## 4
「そう?」
「うん」
不器用。智也は、それを、恋愛のことを言われたように勝手に感じた。女の扱いが下手だ、と言われた気がした。実際には、水野は、経理に聞けばいい仕事を一人で抱えたことを言っていた。ただ、智也の中では、少し防御が働いた。
「まあ、昔はもうちょい遊んでたけど」
言ってから、少し後悔した。何の話だ、と自分でも思った。
「へえ」
水野は、それだけ言って、別の資料に目を移した。手は、もう次の作業に動いていた。
何だ、そのへえ。
智也は、水野の顔を見た。信じたのか、信じていないのか、分からなかった。呆れたのかもしれない。今の話、何、と思ったのかもしれない。ただ、水野は、それ以上、追及しなかった。昔は遊んでいた、という話を、掘り下げなかった。掘り下げられたら困っただろう、と智也は思った。掘り下げられなかったことに、少しほっとした。そのほっとしたこと自体が、経験者ではない、という証拠のようなものだった。
## 5
その夜、亮平に電話した。
プロジェクトのこと。残り日数のこと。他の相手が、全部だめになったこと。話しているうちに、水野の名前が出た。
「あの2%、今何%?」
「誰」
「経理」
「水野?」
「今、何%」
智也は少し黙った。答えようとして、答えが出てこなかった。
「知らん」
電話の向こうで、亮平も少し黙った。
「お前が?」
「うるせえ」
亮平は、それ以上、聞かなかった。好きなんじゃないか、とも、本命じゃん、とも言わなかった。数字が、と言いかけて、やめて、別の話に移った。週末どうする、というような、どうでもいい話だった。
智也は、自分が、知らん、と言ったことに、少し引っかかっていた。他の女は、全部、数字が言えた。神谷は0、小森は0、相沢は0。理由も言えた。何パーセントで、なぜその数字になったか、いつでも答えられた。数字は、そのためにあった。聞かれたときに答えるため。焦ったときに見て、落ち着くため。
水野だけ、言えなかった。今、何パーセント、と聞かれて詰まった。神谷や小森のときは、詰まらなかった。一番、話している相手のはずだった。一番、答えられそうな相手のはずだった。なのに、知らん、としか言えなかった。
亮平の、お前が、という言い方も、少し引っかかった。数字が得意な智也が、数字を言えなかった。亮平は、それを、少し面白がっているようでもあった。ただ、それが何なのかは、電話の間、考えなかった。亮平の、週末の話に、適当に相槌を打った。電話を切ってからも、水野の数字のことは考えなかった。考えると、面倒な気がした。
## 6
85日目、プロジェクトの手が、少し空いた。
仕事の帰り、水野がコンビニに寄った。智也も同じ方向だった。飲み物を買おうとして入った。水野が、冷凍のパスタと惣菜を、かごに入れていた。
「またそれ?」
「何で知ってんの」
「前も、買ってただろ」
水野が、こちらを見た。
「よく見てるね」
智也は、一瞬、固まった。
「たまたま」
「三崎君、怖」
「お前が、毎回同じの、買ってんだろ」
水野は、笑うでもなく、否定するでもなく、そのパスタをレジに持っていった。前も同じものを買っていた、というのは、智也が覚えていたことだった。監視していたわけではなかった。前に一緒に寄ったとき、水野のかごに、同じパスタが入っていた。それが、残っていた。
智也も、飲み物を買った。二人で、コンビニを出た。
用事はなかった。仕事は終わっている。プロジェクトの話も、もう、その日の分は終わっていた。ただ、駅が同じ方向だったから、そのまま一緒に歩いた。誘ったわけでもなかった。ただ、方向が同じだった。
## 7
駅まで、少し距離があった。
途中で、会話が途切れた。水野はスマホを見ていた。何か、通販の画面のようだった。智也は、無理に話題を作らなかった。
前なら、沈黙が怖かった。アプリで会った相手との沈黙は、失敗に近かった。会話が途切れると、期待値が下がる気がした。何か話さないと、次がない、と思っていた。だから、質問を用意した。沈黙を埋めるための質問だった。
水野の隣では、それがなかった。話すことがなければ話さなかった。無理に話題を探さなかった。水野も、沈黙を埋めなかった。スマホを見て、通販の画面を眺めていた。二人とも、黙って歩いた。その沈黙は、失敗ではなかった。ただの沈黙だった。それが、智也には楽だった。楽だ、と、はっきり思ったわけでもなかった。ただ、苦しくなかった。
駅に着いた。
「じゃあ」
「おう」
水野は、改札の方へ歩いていった。智也は、自分のホームの方へ向かった。誘わなかったし、誘われもしなかった。ただ、駅まで一緒に歩いて、別れた。何も起きないその時間が、智也には、別に苦ではなかった。
## 8
帰宅して、智也は表を開いた。
他の女の行は、全部、確定していた。動かす理由がなかった。水野佳奈の行の、最終更新日が、ずいぶん古くなっていた。2%。もう、何週間も触っていなかった。
智也は、更新しようとした。
材料はあった。LINEの返信は、相変わらず遅い。会話の時間は増えた。接触の頻度も増えた。ただし、仕事だからだ。笑う回数。二人で駅まで歩いた。過去に一度、断られている。自分には普通に話す。不器用だ、と言われた。
全部、頭の中で並べた。
上がる材料も、下がる材料もあった。並べて、足して、引いた。答えが出なかった。何%か分からなかった。
カーソルが、期待値の欄で点滅していた。
智也は、数字を入力しなかった。指が止まった。神谷のときは、恋人あり、で0にできた。相沢は、嘘の破綻で0にできた。宮下は、二人では行かない、で0にできた。水野は、どれも当てはまらなかった。0にする材料もなかった。上げる材料も、決め手がなかった。
業務の接触が多すぎて、データが偏っている。智也は、そう理屈をつけた。仕事で毎日会うから、笑う回数も、会話の時間も、他の女とは条件が違う。同じ物差しでは測れない。そういうことにして、欄を空けたまま表を閉じた。
他の女は、全部、数字が入った。会って、間もなくても入った。8%とか、15%とか、根拠の薄い数字でも、とにかく入れられた。入れると、少し落ち着いた。水野だけ入らなかった。一番、長く、一番、たくさん話している相手の数字が、一番、出なかった。
格好のいい話ではなかった。ただ、今は入れられない。それだけだった。カーソルの点滅していた欄は、空欄のまま残った。
## 9
寝る前、智也は天井を見ていた。
水野の、覚えてたんだ、という言い方が浮かんだ。それから、思ってたより不器用だよね、という言葉。よく見てるね、と言ったときの顔。
髪を後ろで結んだところ。コンビニのかごに入っていた、冷凍のパスタ。歩いているときの、横顔。
水野。
女、ではなく、水野、という名前で、頭の中に出てくることが増えていた。智也は、それに気づいていなかった。姉の話。転職。冷凍パスタ。めんどくさ、という言い方。自分を、不器用だと言った人。そういうものが、名前の周りにくっついていた。
智也は、それが何なのか、少し考えかけた。悔しいでも、寂しいでもなかった。好き、という言葉も出てこなかった。智也は、そういう言葉を探しもしなかった。ただ、水野のことばかり思い出していた。他の女のことは、思い出さなかった。神谷も、小森も、相沢も、宮下も、顔がすぐには出てこなかった。水野だけ、細かいところまで出てきた。
SEXしてえ。
最後は、そこに落ちた。水野と、とは、はっきりとは思わなかった。ただ、SEXしてえ、だった。ただ、その一般的な言葉の下で、思い出していた顔は、一つだった。
九十日のうち、八十六日が過ぎていた。残りは四日だった。プロジェクトは、あと少しで終わる。終われば、水野と仕事で話す理由もなくなる。智也は、そのことを、ようやく、少し意識し始めていた。あと少しで、毎日会う理由が消える。それが、どういうことなのかは、まだ分からなかった。




