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# 第11章 普通に喋る

## 1


プロジェクトは、日常になった。


76日目も、77日目も、同じような一日だった。朝に打ち合わせ。表の確認。営業への差し戻し。経理からの修正依頼。メール。他のメンバーとの短いやり取り。昼前に一件、夕方に一件、必ず何か止まって、必ず誰かに聞く。


水野とは、一日に何度も短く話した。


「水野、これ」


「今、無理」


「いつ」


「十分後」


「十五分待つ」


十五分後に持っていくと、件数が増えていた。


「何で増やしたの」


「経理から追加来たから」


「聞いてない」


「今言った」


そういう会話が、一日に何往復もあった。用件だけの、雑な会話だった。挨拶も前置きもなかった。智也は、その雑さが楽だった。


考えてみれば、女相手で、こんなに用件だけを喋れるのは珍しかった。アプリで会った相手には質問を用意した。話を往復させようとした。声を低くした。水野には何も用意しなかった。表を持っていって、これ、と言う。今は無理、と返る。いつ、と聞く。それで済んだ。準備がいらなかった。


二人だけになる場面は、特になかった。会議室にも、フロアにも、いつも他の社員がいた。経理の社員も、営業の社員も、上司も通りかかった。水野は他の社員とも普通に話していた。智也とだけ特別に話しているわけではなかった。ただ、プロジェクトの手を動かすのがこの二人だったから、話す回数が多かった。それだけのことだった。


九十日のうち、七十六日が過ぎていた。残りは十四日だった。他の女のことは、表の上ではもう全部ゼロで、新しい相手もいなかった。それでも智也は、まだ何かできるはずだ、と思っていた。ただ、仕事の日中は、その計画のことをあまり考えなかった。目の前の表の方が、締切が近かった。


## 2


仕事の上では、二人は噛み合っていた。


智也が営業側の散らばったデータを、一枚の表にする。水野が、その表を見て、経理側のルールで、合わない一件を止める。


「営業は、この処理しない」


「経理はする」


「じゃあ、どっち基準」


「両方」


「最悪」


「だから、プロジェクトやってるんでしょ」


水野は、智也の作った表を褒めなかった。ただ、ある日、その表を開いて、


「これ、使う」


とだけ言った。


「最初から使えよ」


「頼んでない」


そのやり取りの後、水野は、その表を使った。使ったとは言わなかったが、翌日、水野の確認資料が、智也の表の形に合わせて作り直されていた。智也は、それに気づいたが、何も言わなかった。言えば、また、頼んでない、と返ってくる気がした。


智也の整理は、水野の仕事を少し速くした。水野の指摘は、智也の表を少し正確にした。どちらか一方が、全部できるわけではなかった。二人で一つの表を、少しずつまともにしていった。智也は水野を、二%のまま見ていた。仕事が噛み合うことと、その数字は、別の欄のことだった。二%の相手と仕事の相性がいい。それは、智也の中では矛盾する話ではなかった。


## 3


78日目、営業事務のフロアで、別の部署の女性社員が、智也に話しかけてきた。


社内の申請のことで、少し込み入った相談だった。智也は、椅子を少し引いて姿勢を直した。


「まあ、分かるよ、それは」


声が少し低くなっていた。


「無理しなくていいんじゃない、そこは」


女性社員は、ありがとうございます、と言って離れていった。大した会話ではなかった。ただの、業務の相談だった。智也は、自分がどう喋っていたか意識していなかった。低い声も、引いた椅子も、無意識だった。


その少し後ろで、水野が、共通表の画面を開いて作業をしていた。智也は、水野がそこにいたことに気づいていなかった。


## 4


その日の夕方、水野に、共通表の一件を確認しに行った。


用件が済んで、智也が戻ろうとしたとき、水野が言った。


「三崎君、私には普通に喋るよね」


智也は止まった。


「普通って、何」


「何か、他の人の時、ちょっと違う」


「違わないけど」


「へえ」


水野は、それだけ言って、もう画面に目を戻していた。追及はしなかった。深く聞いてくる感じでもなかった。ただ、思ったことを一つ言っただけ、という顔だった。


智也は、その場を離れながら、頭の中で確かめていた。


何が違う。声か。姿勢か。喋る速さか。他の女相手のとき、自分は何をしている。低い声を作っている。腹を引っ込めている。分かる、とか、気にしない、とか、言っている。水野には、それをしていない。していないから、違わない、と言った。でも、違う、と言われた。


つまり、他の女相手のときの自分は、水野から見て変だった、ということだった。低い声も余裕も、外から見れば、格好をつけているように見えていた。智也は、それをうまくやっているつもりだった。うまくやっているつもりのものが、隣で仕事をしている水野には全部見えていた。


そのへえ、何だ。


信じたのか。信じていないのか。呆れたのか。どっちだ。智也は、そこまで考えてやめた。水野は、もう別の仕事をしていた。智也の喋り方について、それ以上、考えている様子はなかった。


水野が言ったのは、自分だけに智也が心を開いている、という話ではなかった。他の女には格好をつけて、自分には雑だ。水野が見ていたのは、たぶん、それだけのことだった。智也にも、それくらいは分かった。特別扱いされている、という話ではなかった。むしろ、逆だった。


## 5


その夜、亮平に短く電話した。


「女によって喋り方違うって、言われた」


『誰に』


「水野」


『あの2%の?』


「数字で呼ぶな」


『お前がつけたんだろ』


そうだった。智也は少し黙った。


「俺、女相手で喋り方、そんな違うか」


『違う』


「どこ」


『全部』


「具体的に」


『その聞き方が、もう怖いんだよ』


亮平は、それ以上、説明しなかった。水野が、とか、好きなんじゃないか、とか、そういうことは言わなかった。電話は、すぐ切れた。


智也は、自分が女相手で喋り方を変えている、というのが、少し意外だった。演技をしている、という自覚はあった。ただ、それが、隣にいた水野から見えるほど、はっきり出ているとは思っていなかった。仮面は、自分では、うまく着けているつもりだった。


## 6


80日目、プロジェクトが立て込んだ。


昼を過ぎても、水野は席にいた。手元に、コンビニの袋があった。中に、カット野菜と、菓子パンが一つ。


「それ、昼」


「うん」


「少なくない」


「後で、何か食べる」


「絶対、食わないやつ」


「三崎君、最近うるさいね」


智也は、気遣う男を演じていたわけではなかった。心配してますよ、という声も作らなかった。少ないものは少ない、と、見たまま言っただけだった。もし相手がアプリで会った女なら、こうは言わなかった。もっと、優しく聞こえるように言っただろう。水野には、そういう加工がいらなかった。


水野は、菓子パンを半分だけ食べて、袋を机の端に寄せた。残りは、たぶん、後でも食べないのだろう、と智也は思った。夕方になっても、その袋は同じ場所にあった。


作業が続いた。夕方近くになって、水野が、髪が邪魔そうにしていた。集中していて、暑かったのか、片手で髪を後ろにまとめて、手元にあったゴムで無造作に結んだ。


首の後ろが見えた。


腕を上げたときの、首から肩にかけての線。結んだ拍子に、少しだけ匂いがした。シャンプーか柔軟剤か、一日分の会社の空気が混ざった、そういう匂いだった。


智也の目が、一瞬、止まった。


「何」


水野が、こちらを見た。


「別に」


智也は、画面に目を戻した。


何で今、俺は、こいつの首を見ていた。


自分でも分からなかった。攻略の役に立つ情報ではなかった。表には書きようがなかった。ただ、見た。見て、少し身体が反応した。それだけのことだった。SEX期待値は、二%のまま動かなかった。


## 7


その日の、夕方だった。


水野が肩を回した。それから、眉間を指で押した。


「めんどくさ」


智也は、一瞬、その言葉を別の意味に取りかけた。何が。仕事が。俺が。


「今日、もう無理」


今日、もう無理。


「この表、明日じゃ駄目?」


表かよ。


智也は、内心で少し力が抜けた。水野は、表の話をしていた。ずっと、表の話だった。


「経理の締め、明後日だろ。今日中に一回、通しといた方がいい」


「……分かってる。分かってるけど」


水野は、そう言いながら、画面に向き直った。めんどくさ、と言いながら、ちゃんと、今日中に通すつもりらしかった。口では無理だと言って、手は動いていた。


水野は、智也の前で、少し気を抜いているようだった。めんどくさ、とか、もう無理、とか、外向きの言葉ではない言い方をしていた。本人は、たぶん、意識していなかった。二%の、攻略対象外の相手の前だから、智也も、それを特別なことだとは受け取らなかった。ただ、そういう水野を見ていた。


## 8


82日目、締めの山を越えて、少しだけ手が空いた時間があった。


水野が、コーヒーを飲みながら、雑談のように言った。


「うちの姉、この前も、嫌なら転職すればとか言うんだよね」


「転職の話、してんの」


「してない。向こうが勝手に言う。姉って、すぐ辞めればとか言うんだよ」


「辞めればいいじゃん」


水野が少し、こちらを見た。


「三崎君も、同じこと言う」


「嫌なんだろ、仕事」


「別に、嫌ではない」


「じゃあ、いいじゃん」


「そうなんだけど」


水野は、それ以上、続けなかった。別に嫌ではない、けど、辞めない。その二つが、水野の中でどうつながっているのか、智也には分からなかった。深く聞きもしなかった。姉がいて、姉に転職を勧められていて、本人は別に嫌ではないと言う。それだけの、短い話だった。


智也は、辞めればいい、と言った自分と、姉が同じことを言った、というのを、少しおかしく思った。会ったこともない水野の姉と、意見が合ったことになる。ただ、水野は、その二人の言うことを、両方とも聞き流していた。辞めればいい、という言葉が、一番役に立たない言葉なのだ、ということが、水野の顔を見ていると、なんとなく分かった。


智也はメモを取らなかった。表にも書かなかった。SEXの役に立つ情報ではなかったからだ。姉の話も、転職の話も、期待値の列には関係がなかった。だから記録しなかった。ただ、聞いた。聞いて、そのままにした。


## 9


その夜、帰宅した。


本当なら、次の相手のことを考えるはずだった。残りは、あと数日だった。アプリを開くとか、表を見直すとか、そういうことをするはずだった。


ただ、智也の頭に、ふと、昼間の水野が浮かんだ。


髪を後ろで結んだところ。首の後ろ。めんどくさ、という言い方。机の端に寄せた、菓子パンの袋。別に嫌ではない、と言った、姉の話。


何で、そこを覚えてるんだ。


もっと、覚えておくべきことは、あったはずだった。締めの日付とか、例外の客のコードとか。そういうものは、表に書いてある。書いてあるから、覚えていなくていい。水野が髪を結んだことは、どこにも書いていなかった。書いていないのに、残っていた。


智也は、それが何なのか、少し考えかけた。悔しいとか、寂しいとか、そういう言葉が出かかった。人の話した細かいことを、後から覚えている、というのは、前にもあった。アプリで会った相手の、妹の試験のことを覚えていた。あれは、メモに書いた。書いたから、覚えていた。


今回は、書いていなかった。髪を結んだことも、めんどくさ、という言い方も、菓子パンの袋も、姉の話も、どこにも記録していなかった。記録していないのに、全部残っていた。それが、前とは少し違った。


出かかった言葉は、いつものところに落ちた。


SEXしてえ。


そこに戻った。水野と、とは思わなかった。ただ、SEXしてえ、だった。その夜、智也が思い出していたのは、他の誰でもなく、髪を結んだ水野の、首の後ろだった。それが何を意味するのかは、智也には、まだ分からなかった。分かろうともしなかった。


九十日のうち、八十二日が過ぎていた。残りは八日だった。プロジェクトは、あと少しで終わる。終われば、水野と毎日会う理由もなくなる。智也は、まだ、そのことを深く考えていなかった。


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