# 第10章 攻略対象外
## 1
64日目の朝、智也は出勤前に表を開いた。
上から見ていく。神谷、0。小森、0。相沢、0。宮下、0。並んでいるのはゼロばかりだった。SEXの成立、0。使った金は十万円に近い。残りの日数は二十六日だった。
数字が減っていた。時間も減っていた。増えているのは支出だけだった。
智也は少し、深刻な顔になりかけた。二十六日で何を積めば、ゼロがゼロでなくなるのか。外見も、会話も、余裕も、金も試した。全部、途中まで行って途中で終わった。玲奈のときが一番近かった。一番近いところで、自分の嘘で終わった。このまま九十日が過ぎるのかもしれない。四十歳になっても五十歳になっても、この部屋でこの画面を見ているのかもしれない。
SEXしてえ。
そこで止めた。長く考えると行動できなくなる。朝から、これ以上はまずかった。
表の下の方に、水野佳奈の行があった。2%。なし。智也はそれを読み飛ばした。攻略の対象ではない。ずっと前にそう決めてある。
## 2
その日、上司から短いプロジェクトの説明があった。
営業事務と経理で、請求と入金のデータの見方を揃える、という仕事だった。同じ売上を、営業側は売上月と呼び、経理側は計上月と呼ぶ。締日も客ごとに違う。毎月、同じ確認を何度もしている。先月も、同じ客の請求月と経理側の計上月が、何件かずれた。修正して、客に確認して、営業に確認して、経理でやり直した。管理の責任者が、毎月同じことしてないか、と言った。それで始まる話になった。
大きなシステムを入れ替える金はない。だから、今のやり方のまま、部署の間の受け渡しと、確認する項目だけを揃える。期間は一か月弱。上司はそういう説明をした。
智也は、面倒だ、と思った。通常業務の上に乗ってくる。締めの前は、ただでさえ確認が増える。ただ、断る理由はなかった。上司は、三崎、こういう表を作るの得意だろ、と言った。得意だった。Excelで散らばったものを一枚にするのは、智也の仕事の中で、たぶん一番できることだった。
チームの名前を確認した。営業事務から智也。経理から水野。営業事務の上司が一人、経理の上司が一人。営業からも一人。会議には全員が毎回出るわけではなく、実際に手を動かすのは、智也と水野が多くなりそうだった。
水野。
頭の中で、二%、と出た。それ以上の何かは出なかった。誘って、断られて、なしにした相手だった。あのときは少し格好をつけた気がする。今は、同じ表を触る相手、というだけだった。数字は二%のまま、動く理由がなかった。
会議室で、水野と目が合った。水野は軽く会釈した。智也も返した。それだけだった。前に一度誘ってきた営業事務の三崎君、という程度のことだろう、と智也は思った。思って、すぐ資料に目を戻した。
## 3
初回の打ち合わせで、現行のフローを確認した。
水野が経理側の処理を説明した。智也は営業側の管理表を出して突き合わせた。同じ客の、同じ売上のはずが、列の名前も、順番も、基準も、少しずつ違った。
「この数字、何」
智也が経理側の表の一列を指した。
「入金基準」
「売上月と違う?」
「違う」
「分かりづら」
「経理では普通」
「営業には普通じゃない」
「だから今、整理してるんでしょ」
会話は普通に続いた。智也は声を低くしなかった。余裕を演じもしなかった。相手の話に、必要以上に笑わなかった。仕事の話を、仕事の速さでしていた。水野が数字の話を始めると、口数が増えた。締切いつですか。その数字、どこから出しました。一回確認します。用件だけの、短い言葉だった。智也は、その短さがやりやすかった。
水野が少し、こちらを見た。何か言いたそうな顔ではなかった。ただ、少し間があった。智也は、その間の意味を考えなかった。次の列の確認に移っていた。
例外の客が、思ったより多かった。この客は二十日締め。ここは納品の翌月に計上。この取引先は、請求書を二つに分ける。手順書には書いていない。全部、水野の頭の中にあった。智也は、それを一つずつ聞いて、表の備考に書いた。
「これ、全部覚えてるのか」
「覚えてるっていうか、毎月やってるから」
「手順書は」
「あるけど、例外は載ってない」
「載せろよ」
「載せる時間があったら苦労しない」
智也は、それには何も返さなかった。似たようなことを、営業事務の側でも思っていた。
## 4
作業が進むと、営業側のデータが、あちこちに散らばっているのが分かった。
智也は、それを一枚の比較表にまとめた。客ごとに、売上月、計上月、締区分、金額を横に並べた。半日で作った。
水野が、その表を見た。
「これ、作ったの」
「見づらかったから」
「頼んでないけど」
「でも見やすいだろ」
「……まあ」
水野はしばらく表を見ていた。それから、指を止めた。
「これ、違う」
「どこ」
「ここ。売上月と計上月、ずれてる」
智也は、その行を見た。合計は合っていた。合っていたから、その奥までは見ていなかった。
「よく分かるな」
「経理だから」
智也が散らばったものを一枚にすると、水野が、その一枚の中の一件を止める。智也には、その一件がなぜおかしいのか、すぐには分からなかった。合計は合っている。数字としては正しい。ただ、その正しい数字が、現実の取引と合っていなかった。水野には、それが見えた。この客は締日が違うから、この行は本当は先月分だ、というふうに。
智也は、散らばった現実を表にする。水野は、表を現実に戻す。どちらか一方が、全部できるわけではない。仕事の上では、この二つは噛み合った。ただ、それだけだった。智也は水野を、二%のまま見ていた。二%の相手と仕事が噛み合うことに、矛盾は感じなかった。数字と仕事は、別の欄だった。
## 5
70日目、智也は共通表の作りを少し変えた。
例外の客の確認が遅い、と智也は思った。だから、列の順番を変えて、要確認の列を左端に足して、入力の規則も付けた。智也の側では、その方が確かに速かった。
翌日、水野が表を開いて止まった。
「これ、変えた?」
「変えた」
「何で先に言わないの」
「こっちの方が早いから」
「早いかどうかじゃなくて」
「でも、前のやり方、無駄だろ」
水野の口数が減った。声が少し低くなった。
「変えるなら、先に言って」
「言うと、遅くなるだろ。やってから見せた方が早い」
「早いかどうかの話、してない」
智也は引かなかった。ここで折れる理由はなかった。効率は上がっている。上がっているものを下げる話は、おかしい。相手が女だから格好をつけて折れる、ということもしなかった。以前、玲奈の前では少し声を低くした。神谷にも余裕を作った。水野には、それがなかった。水野は二%だった。攻略の相手ではない。だから、飾らずにそのまま言い返した。智也にとっては、それが一番楽な話し方だった。
水野は、それ以上、言い返してこなかった。うん、分かった、とも言わなかった。ただ、口を閉じて、自分の画面に戻った。話は、途中で切れたまま宙に残った。
初めて、二人は真正面からぶつかった。
## 6
その日、智也は少し引っかかっていた。
何であんなに怒るのか、分からなかった。効率は上がっている。表は良くなっている。良くしたのに、怒られた。亮平に電話するほどのことでもなかった。これは、SEXの話ではない。仕事の話だった。だから、亮平ではなく自分で考えるしかなかった。仕事の合間に、表を見ながら考えた。
水野は、そのあと口数が減った。返事が短くなった。用件だけを言って離れていく。こっちを責める言葉は言わなかった。ただ、必要なこと以外、話さなくなった。経理の別の社員とは普通に話していた。智也にだけ短かった。
智也は、それを、恋愛の脈なし、とは数えなかった。表には書かなかった。もう二%で、なし、にしてある。上げ下げする話ではなかった。恋愛の話ではなかった。ただ、怒っている、と思った。怒っている、という、それだけの認識だった。
考えてみると、誰かが自分に対して、面と向かって、はっきり怒っている、というのは久しぶりだった。会社で智也は目立たない。大きな失敗もしないが、大きな成果もない。怒られることも、褒められることも、あまりない。水野は怒っていた。智也の作った表のことで、はっきり怒っていた。それは智也にとって、少し慣れない感覚だった。
## 7
72日目、智也は別の資料を見ていて気づいた。
自分が変えた表の列の位置が、水野が経理の別の担当に渡していた説明のメモと、合わなくなっていた。水野は、その担当に、変わった場所を説明し直していた。
経理のフロアへ行ったとき、水野は席にいなかった。別の経理の社員が、智也に言った。
「水野さん、さっき、三崎君の表の説明、もう一回やってたよ」
悪気のある言い方ではなかった。ただの、状況の説明だった。智也は、その言葉をそのまま受け取った。
水野の机に、旧い列番号のメモが、修正の線を引かれて残っていた。直された番号は、智也が変えた場所とぴったり合う。その裏で、水野が本来その時間にやるはずの仕事が、後ろへずれていた。時計は、一時を回っている。水野の昼は、まだのようだった。
俺のせいか。
智也は、そう気づいた。
女を傷つけた、とは思わなかった。そういう話ではなかった。自分が、先に言わずに表を変えた。だから、水野が別の担当に説明し直した。だから、水野の仕事が後ろにずれて、昼が遅れた。順番につながっていた。全部、智也の独断から始まっていた。
水野が、なぜ、変えるなら先に言って、と言ったのか。抽象的な話としてではなく、具体的な、一つずつの手間として分かった。列を一つ動かしたことが、水野の側では、説明し直し一回と、資料の直し一回と、後ろにずれた仕事一つになっていた。智也の側で速くなった分を、水野の側の時間で払っていた。
水野の事情や、性格の背景は、智也は知らなかった。人の時間を雑に使う人間を、水野がどう思っているかも知らなかった。ただ、事実として、自分が水野の時間を余計に使わせた。それだけは、はっきり分かった。効率が上がったこと自体は、間違っていない。ただ、上げ方が、他人の時間を勝手に使っていた。その二つは、別のことだった。
## 8
翌日、智也は水野のところへ行った。
「昨日、悪かった」
水野は、画面から目を上げた。
「別に」
少し、間があった。
「次から、先に言って」
「分かった」
智也は、そこで、でも効率は上がった、と言いかけた。言いかけて、口の中で少し止めた。それから、小声で言った。
「効率は、上がったけど」
「聞こえてる」
水野が言った。怒った声ではなかった。呆れた、という感じの、短い言葉だった。智也は何も返さなかった。大丈夫、とも、気にしないで、とも言われなかった。水野は、大丈夫だとも、気にしていないとも口にしなかった。ただ、次から先に言って、とだけ言って、それで終わった。
大きな仲直りはなかった。握手も、笑い合いもなかった。智也は、正しいことをしたのに怒られた、とは、もう思わなくなっていた。正しいことを、間違ったやり方でやった。それだけのことだった。水野は、そのあと、また普通に用件を頼んできた。用件が済めば離れた。業務は続いた。それが、二人の間の元の距離だった。
## 9
75日目、また水野から声がかかった。
「三崎君、これ確認して」
「何で俺」
「営業側、分かるでしょ」
「水野がやれば」
「分かんないから聞いてる」
智也は、その一件を確認した。営業側の備考を見て、客の締区分を照らして、水野に返した。水野は、うん、と言って、自分の作業に戻った。特別な会話ではなかった。ただ、用が済んで、それで終わった。喧嘩の続きもなかった。ただ、また普通に、用件を頼まれた。それだけだった。
夕方、水野が、経理の別の社員に、また何か頼まれていた。水野さんなら分かるから、と言われて、分かりました、と答えていた。断らないんだな、と智也は思った。それ以上は考えなかった。水野の仕事の抱え方は、智也の表の項目にはない話だった。
帰宅して、智也は表を開いた。水野佳奈、2%、なし。目には入った。
更新はしなかった。仕事で喧嘩したから下げる、という話ではなかった。上げる話でもなかった。そもそも水野を、SEXの候補として今、考えていなかった。だから、動かす数字がなかった。
水野は面倒だった。こっちにはこっちの言い分もあった。ただ、話は早かった。用件を言えば、用件が返ってくる。格好をつける必要もなかった。
九十日のうち、七十五日が過ぎていた。残りは十五日だった。智也は、その十五日で、まだ何かできるはずだ、と思っていた。ただ、その相手が誰なのかは、表のどこにも書いていなかった。プロジェクトは、まだ半分残っていた。明日も、水野とは仕事で会う。




