# 第14章 90日目
## 1
九十日目の朝、智也は鏡の前に立っていた。
髪を直した。三か月前より短い。眉も整えてある。シャツの襟を指で直した。横を向いた。腹を見た。少しだけ締まっていた。見違えるほどではなかった。ただ、三か月前よりはましだった。
悪くない。
智也はそう思った。自分を点検していた。品物を出す前に確かめるみたいだった。少なくとも、童貞には見えない。たぶん、そう見えるはずだった。
外見の準備はできた。
## 2
出かける前に、必要なものを確かめた。
財布。スマホ。それから、ゴム。
ゴムを一瞬手に持った。ちゃんとつけろよ、と亮平が言っていた。当たり前だろ、と智也は思った。それを財布に入れた。使うかどうかは分からなかった。ただ、無いよりはいい。
もう一つ、癖で表を開いた。
他の女の行は全部ゼロだった。神谷。小森。相沢。宮下。理由もいつでも言えた。数字はそのためにあった。焦ったときに見て、落ち着くためのものだった。
水野佳奈。二パーセント。最終更新は四十日前だった。智也は数字を変えようとした。最近の返信。会話。プロジェクト。今日の昼食の約束。全部、頭の中で並べた。上がる材料も下がる材料もあった。並べて、足して、引いた。指を期待値の欄に置いた。
何パーセントか分からなかった。
一番話している相手の数字が、一番出なかった。閉じた。時計を見る。もう出る時間だった。今日で九十日目だった。
## 3
待ち合わせの場所には、少し早く着いた。
昼過ぎの駅前だった。人が多かった。佳奈から、着いた、とだけLINEが来た。人の中から探した。
見つけた。仕事のときより少し私服だった。派手ではなかった。智也は普通にその姿を見た。脚。服。髪。見るものは見た。そういう視線は消えていなかった。
佳奈が近づいてきた。
匂いがした。シャンプーか柔軟剤か、外の空気が混ざった、そういう匂いだった。前にもこれを嗅いだことがあった。飲み会で酒を注がれたときだった。同じ匂いだった。ただ、それだけのことだった。
「今日、ちゃんとしてるね」
佳奈が言った。
「今日?」
「いつもより」
「いつも、ちゃんとしてるけど」
「へえ」
智也はそのへえを、以前なら分析した。今日はしなかった。
「そのへえ、何」
「別に」
「絶対、何かあるだろ」
佳奈は笑うでもなく、店の方へ歩き出した。智也がこの日のために準備してきたことを、佳奈は知らない。智也はそれを知っていた。
## 4
店は普通の店だった。
高い店にはしなかった。入りやすくて、少し落ち着いて話せる、それくらいの店だった。
席に着いて、智也は一瞬だけ声を低くしようとした。余裕のある感じを出そうとした。
「今日、何か変じゃない?」
佳奈が言った。
「別に」
「そう」
智也はやめた。低い声を引っ込めた。演技はこの相手にはいらなかった。むしろ邪魔だった。
そこからは普通に話した。プロジェクトの後の話。経理の、あの社員がどうした、という話。
「昨日、カレー作った」
「珍しい」
「三日分」
「何で、三日分」
「鍋が、大きかったから」
「理由に、なってないだろ」
「三崎君に、言われたくない」
智也は質問を連打しなかった。仕事、休日、趣味、家族、と、リストを消していくような、あの聞き方はしなかった。相槌を打って、必要なところだけ一つ聞いて、自分の話も少しした。会話は往復した。テーブルの上でボールが両側に行き来した。面接にはならなかった。
店は普通だった。佳奈は普通に食べていた。三万円とは何だったのか。智也は少し思った。服と高級店とタクシーで、三万円を使ったことがあった。高い店で、高くなくてよかった、と言われた。あの三万円はどこにも届かなかった。今日のこの普通の店の方が、話が続いていた。それはもう分かっていた。分かっていても、頭の中で金額を数える癖は残っていた。
## 5
昼食の後半だった。
佳奈がまた、姉の話をした。
「それ、前に、姉ちゃんにも同じこと言われたって、言ってなかったか」
智也が返した。
「よく覚えてるね」
「まあ」
Excelには書いていなかった。姉の話もカレーの話も、書く欄がなかった。書いていないのに出てきた。智也はそれを少し妙に思った。ただ、それ以上は掘らなかった。次の話に移った。
店が狭かった。一度、膝が触れた。
「ごめん」
「うん」
うん?
以前なら、ここで期待値を計算した。今日は身体が少し反応して、それで会話に戻った。計算はしなかった。
## 6
店を出た。まだ昼過ぎだった。
「このあと、何かある?」
「特に」
「コーヒー、飲む?」
佳奈はすぐ答えなかった。
智也は待った。以前なら、ここで足していた。近くだけ。十分でも。嫌ならいい。今日は言わなかった。コーヒー飲む、とだけ言って待った。
「いいよ」
佳奈が言った。
コーヒーへの、いいよ、だった。それ以上の意味に、智也はしなかった。それでも少し期待した。
## 7
カフェに入って、それから街を歩いた。
書店に寄って、雑貨の店を覗いた。特に目的はなかった。何かを買うわけでも、どこかへ行くわけでもなかった。ただ二人で、時間を過ごしていた。
「最近、仕事ちょっと、めんどくさい」
佳奈が言った。
「いつも、言ってるじゃん」
「そうだけど」
「辞めれば」
「簡単に、言うね」
「嫌なら、辞めればいいだろ」
「三崎君って、そういう時だけ、雑だよね」
智也は佳奈を救わなかった。転職の話を深く聞きもしなかった。佳奈も全部は話さなかった。
街のどこかで、カップルが歩いていた。
「三崎君って、付き合うと、どうなるの」
佳奈が軽く聞いた。
智也は一瞬止まった。以前なら、ここで架空の恋愛の話をした。今日はしなかった。
「知らん」
「何それ」
「自分じゃ、分かんないだろ」
本当のことは言わなかった。童貞だ、とも言わなかった。以前なら、ここで高校の彼女がどうの、年上の女がどうの、と話を作った。相沢のときは、作った話が途中で合わなくなって終わった。今日は作らなかった。知らん、で止めた。作らなかった代わりに、本当のことも言えなかった。そこはまだ、変わっていなかった。
## 8
気づくと、夕方になっていた。
「もう、夕方」
「そうだな」
途中まで智也は時計を見ていた。何時か確かめていた。ただ、いつからか見なくなっていた。会話の間、時間のことを忘れていた。
佳奈が歩き疲れて、髪を後ろで結んだ。手元にあったゴムで無造作にまとめた。仕事のときと同じやり方だった。
首筋が見えた。また、それだった。何で俺は、これを毎回見ているのか。結んだ拍子に、あの匂いが少しした。
SEXしてえ。
智也は佳奈を見ていた。眠そうだった。歩くのが少し遅くなっていた。前にも同じ飲み物を買っていた。左の靴紐が少し緩んでいた。疲れると語尾が雑になった。胸の位置も目に入った。そういうものが全部、混ざっていた。攻略の役に立つ情報は一つもなかった。表には書きようがなかった。それでも全部、残っていた。ただ、現実にそこにいる水野だった。
## 9
六時ごろ、佳奈が言った。
「お腹すいた」
「昼、食っただろ」
「もう六時」
智也は少し迷った。ここで解散もあった。
佳奈が続けた。
「ここまでいたなら、ご飯食べる?」
智也はその一言を受け取った。水野が延長した。数字にしようとして、しなかった。ただ、期待が上がった。
「食う」
## 10
夜の店は昼より、少し距離が近かった。
佳奈は軽く酒を飲んだ。酔いつぶれるほどではなかった。智也も飲んだが、酔わなかった。会話は昼より雑になった。
「今日、もう無理」
佳奈が言った。
一瞬、智也は別の意味に取りかけた。
「明日、仕事したくない」
仕事の話だった。智也は内心で、少し力が抜けた。
佳奈が肩を回した。髪をまた直した。欠伸を隠しきれていなかった。グラスを持つ手。近くで話す声。手を伸ばせば届く距離に、現実の身体があった。画面の中の裸なら、いくらでも見てきた。ただ、目の前で生きて動いている身体は、初めてだった。
「もう一杯、飲む?」
佳奈が言った。
帰らない。智也は思った。ここで初めて、はっきり思った。
いけるかもしれない。
まだ確信ではなかった。ただ、そう思った。
## 11
店を出たのは、九時ごろだった。
普通なら駅だった。少し間があった。
「ちょっと、歩く?」
智也が言った。
佳奈はすぐ返さなかった。
智也は待った。十分だけ、とも、近くだけ、とも言わなかった。待った。
「いいよ」
散歩への、いいよ、だった。SEXへの、いいよではなかった。智也は期待した。ただ、確率は計算しなかった。
## 12
夜の街を歩いた。
会話は減った。以前の智也なら、沈黙に耐えられなかった。何か話題を探した。今日は歩いた。佳奈も無理に話さなかった。
道路の音がした。ネオンがあった。生暖かい夜だった。美しい夜景も月もなかった。ただの夜の街だった。
「最近、仕事、ほんと、めんどくさい」
「いつもだろ」
「そうだけど」
それ以上は言わなかった。智也は佳奈を救わなかった。
近くを佳奈が歩いていた。匂いがした。歩幅が少し合っていた。時々、腕が近くなった。触れそうで、触れなかった。智也は触れなかった。
水野とヤりたい。
智也は思った。女とヤりたい、ではなかった。九十日前は、女という大きなくくりだった。誰でも、可能性があればよかった。今は違った。水野と、だった。ただ、それを好きだから、とは思わなかった。そういう言葉は出てこなかった。探し方も知らなかった。ただ、水野とヤりたかった。それだけは、はっきりしていた。
## 13
十時を過ぎて、小さなバーに入った。
ずっと歩き続けるわけにもいかなかった。軽く飲める店だった。一杯飲んで、それからもう一杯頼んだ。気づくと、十一時半に近かった。
佳奈は帰るとは言わなかった。智也も急かさなかった。会話はさらに短くなった。佳奈は少し疲れていた。智也はそれに気づいた。以前なら、疲れてる、脈なしか、と数値化した。今日は、疲れてる、と思った。水を勧めた。それ以上の世話は焼かなかった。
時間のことがまた、頭に戻ってきた。残りが少ないことを思い出した。今日で二十五になる。今日、何も起きなければ、二十五の童貞になる。焦りが少し戻った。ただ、智也は時計を細かくは見なかった。見れば佳奈に気づかれる気がした。あと、どれくらいだ、と口に出したくなる気持ちを抑えた。それは佳奈には、関係のない話だった。
## 14
店を出た。駅はすぐそこだった。
智也は知っていた。駅はこっちだった。ホテル街は別の方だった。
智也が選んだ。
「駅、あっちじゃない?」
佳奈が言った。
「ちょっと、遠回りしよ」
佳奈は智也を見た。
「ふうん」
ついてきた。
少し歩くと、ホテル街の入り口だった。裏路地ではなかった。人も車も通っていた。コンビニがあった。小さな飲食店もあった。ホテルの看板がいくつか見えた。
佳奈が一度、その方に視線を向けた。何も言わなかった。
気づいた、と智也は思った。それでも佳奈は歩いていた。帰るとは言わなかった。智也の期待が上がった。
## 15
ホテルが見えた。
二人。夜。酒。長い時間。ホテル街。帰ると、言っていない。
条件は揃っている。
智也はそう思った。九十日間、ずっとそう考えてきた。条件が揃えば、結果が出る。今、一番揃っていた。
目の前のホテル。写真で見た建物だった。口コミも読んだ。部屋の写真も見た。風呂が広いことも知っていた。平日深夜の料金も、支払いの方法も知っていた。
入ったことだけがなかった。
会話が一瞬、途切れた。智也はポケットのスマホを開いた。
23:52。
あと、八分。
間に合った。
本当に。
間に合った。
九十日間の緊張が、少しだけ緩んだ。画面を消した。
## 16
智也は、ホテル行かない、とは、言わなかった。
「もうちょっと、一緒にいる?」
佳奈が、こちらを、見た。
「ん?」
「時間、大丈夫なら」
直接、ホテルとは、言わなかった。場所と、視線で、意味は、伝わるはずだった。余計な説明は、しなかった。
言いながら智也の声は、少し低くなっていた。間を意識していた。言葉が、遠回しだった。平静を、装っていた。目の前にホテルがあって、余裕のある男を、また演じ始めていた。
佳奈は、少し沈黙した。
「……やっぱ帰ろうかな」
## 17
智也はその意味をすぐ理解した。
追わなかった。触らなかった。前に、立たなかった。説得も、しなかった。
「そっか」
少し、間があった。
「分かった」
大丈夫、とは言わなかった。大丈夫では、なかった。気にしないで、とも言わなかった。気にしていた。その二言だけ、言った。
## 18
正しい。
高瀬も、そう言う。しつこくするな。相手の意思を、尊重しろ。分かっている。俺は九十日間、それくらいは学んだ。
童貞。
二十四。
あと八分。
三万円。
十二万六千円。
十四人。
六回。
二回。
ゼロ。
悔しい。恥ずかしい。惨めだった。悲しい気も、した。腹も、立った。誰に腹を立てているのかは、分からなかった。
ヤりたかった。
## 19
待って、とは言わなかった。帰らないで、とも言わなかった。
智也は、佳奈の進路を塞がなかった。触れなかった。追わなかった。
足を、曲げた。
膝を地面についた瞬間、思っていたより痛かった。
「っ」
声が、漏れた。
右手を、ついた。左手を、ついた。
ポケットから、スマホが滑り落ちた。アスファルトを、擦った。画面を下にして止まった。
拾わなかった。
頭を下げた。
アスファルトが、見えた。自分の手が、見えた。落ちたスマホが、見えた。彼女の靴が、見えた。
「一回」
一回なら、要求が小さいと思った。
「いや、先っちょだけでもいい」
「ゴムもちゃんと着ける」
「嫌って言ったらすぐやめる」
「だから」
続きが、出てこなかった。
「……だから」
額を、アスファルトに、つけた。
「ヤラせてください」




