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慈愛に満ちた表情は、たまに母がしていたそれとよく似ている。こういう顔をされると、元来生真面目なシブキでも気が緩んでしまう。
しかしひとつだけ気になるのは、クサキが「私は」と言ったことだ。クサキ以外の誰かには迷惑をかけたのか。誰が当てはまるかも、薄々、勘づいていた。
「姉さん、勇輝は?」
「うん、呼んでくるわね。今まで見たことないくらい慌ててたからねぇ、勇輝くん。あなたもまあ、ちょっと顔色はよくないけど……大丈夫でしょ。早く元気な顔見せて安心させてあげなさい」
「わかった。ありがとう」
部屋を出ていったクサキの背中を見送ったあと、シブキの視線は窓の外に向く。
オレンジ色のコントラストが眩しい。もう夕方だ。空の輝きに顔をしかめながら、覚醒したばかりの頭で思考を巡らし始める。
「……気絶、してたのか」
そんなことは今更だ。今更なのも承知の上だ。しみじみと言わなくたって気づいている。自覚している。
わからないのは、理由だ。
「あの程度で?」
誰もいない部屋、物もほとんどない質素な部屋。だからだろうか、自分の声がいやに響く。わざわざ脳から口へ零したはずの音が、また脳に浸透して戻ってくるような反響。
奇妙な感覚に不快感を覚えつつ、それでも彼は言葉を連ねるのをやめない。寝起きの脳ではこうでもしないと考えられない。どうしても、気がかりだった。
「毒は浴びたがほとんど吸ってない。食らってから討伐までの時間も短かったはず」
考えれば考えるほどおかしなことばかりだ。件のオオアゲハは、予兆すら見せずに現れた。その空間に突然、現れたのだ。
それは人だろうが龍だろうが異獣だろうが、質量を伴うものであれば本来あり得ない現象。常識ごと空間をぶち抜いてそこに現れた。それだけでも十分に異常なのだ。
「あの短時間で、酸欠で意識を失くすほどやられたのか」
オオアゲハの毒の影響は確かに持続的なものだが、酸欠を引き起こすほど肺細胞を破壊するにはそれなりに時間がかかる。
まして高い治癒力が自慢の水龍なら、あの程度は秒で回復する。少なくとも今回のようなケースでは気絶になんて至らない。
「疲れてた? そこまでじゃない。目目連に受けた傷も完治してる。じゃあなんで……」
答えは単純、そのオオアゲハが普通ではないからだ。それはシブキも理解していた。
理解こそしていたものの、妙に納得がいかない。何かが歪に思えた。
何より、異獣がそのような変異を遂げている理由がわからない。生き延びるため? それならとっくの昔に変化していておかしくないだろう。
異獣は本来実体を持たない波動の塊だ。彼らにとって、変異というのはそう難しいことではない。
しかし彼らの力は各種の波動の質量に比例する。つまりオオアゲハという種である以上、普通のオオアゲハよりもはるかに強い個体が生まれることはあり得ない。人間から龍が生まれないのと同じ原理だ。
誤差レベルの違いなら突然ある。しかし今回のオオアゲハのそれは、明らかにそんな小さなものではなかった。俗に、進化、といっても過言ではないくらいのものだ。
悶々としているシブキの耳に、ぎぃ、と扉の開く音が届いた。




