第8話 所長、そのシュークリームはお腹を壊しません
事務所の隅に置かれた小型の冷蔵庫。
その扉を開けるたび、ずっと視界の端に入っていたものがあった。
地元の有名洋菓子店のロゴが印刷された、少し控えめな紙袋。数日前、気の利く所員が「皆さんでどうぞ」と差し入れてくれたシュークリームだ。
差し入れられた当日は仕事の山場を迎えており、「あとで落ち着いたらいただこう」と棚上げした。
翌日は外回り、その翌日は急なトラブル対応。
そうして慌ただしい日常の波に飲まれているうちに、気づけばシュークリームの存在は私の意識から完全に抜け落ちていたのだった。
ふと小腹が空き、冷たいお茶でも飲もうと冷蔵庫を開けた時、その紙袋と再会した。
嫌な予感がして袋の隙間から覗き込む。
しっかりとした焼き色のついたシュー生地が並んでいる。
私は紙袋を引っ張り出し、側面に貼られた消費期限のシールに目を走らせた。
――三日前。
「うわ、やってしまった……」
思わず声が漏れた。
賞味期限ではなく、明確な「消費期限」である。
しかも一日ならまだしも、三日。
カスタードクリームという傷みやすい生菓子において、三日というタイムラグはなかなかのリスクだ。
落胆しながら袋の中身を改めると、小ぶりなシュークリームが二個、ぽつんと残されていた。
(誰か一人の食べ残しにしては中途半端だな……)
そう思い、ちょうど給湯室を通りかかった差し入れ主の神代 七海さんに「これ、誰か食べ忘れてるよ」と声をかけた。
すると、彼女は申し訳なさそうな、けれどどこか拍子抜けしたような顔で微笑んだ。
「あ、所長。それ、最初から所長の分として二個残しておいたんですよ。『いつもお世話になっているので、ぜひ所長には二個食べてほしい』って、思って」
「……えっ?」
驚愕した。
一個は自分の分だと思っていた。
だが、二個とも自分のために残されていたものだったとは。
私の多忙を気遣い、わざわざ多めに確保してくれたという神代七海さんの優しさ。
そして、私が食べるのを心待ちにされて(あるいは忘れられているのではないかとハラハラしながら)見守られていた二個のシュークリーム。
視線を落とすと、消費期限切れ三日目のシュークリームたちが、どこか健気で、同時に少しだけ危険なオーラを纏ってそこに鎮座していた。
三日過ぎた生菓子を二個。
お腹の健康を考えれば、無理をせず「ごめん、期限を切らしちゃって」と謝って処分するのが大人の英断かもしれない。
胃腸の強さに絶対の自信があるわけでもない。
だが――これは単なる生菓子ではないのだ。
忙殺される私に向けられた、所員たちのあたたかいおもてなしの心、その結晶なのだ。
それを「期限切れだから」とゴミ箱に放り込むことが、どうしても私にはできなかった。
人は時に、衛生管理のガイドラインよりも、人の気持ちを優先しなければならない瞬間がある。
「……ありがとう。ありがたくいただくよ」
私は力強く頷き、シュークリームをデスクへと持ち帰った。
意を決して、一つ目の袋を破る。
慎重に匂いを嗅いでみるが、変な酸っぱさはない。
一口かじると、香ばしい生地の中から、ねっとりと濃厚なカスタードクリームがあふれ出してきた。
(……いける。いや、美味しいぞ)
熟成された(気のせいかもしれない)クリームは、心なしか普段より深みのある味わいに思えた。
一滴のクリームも残すまいと指についた分まで舐め取り、勢いのまま二個目も口へ運ぶ。
あっという間に完食した。
胃袋の中に収まった「三日前の優しさ」を感じながら、私は静かにほうじ茶を啜った。
結局、その後お腹を壊すこともなく、私は無事に午後からの業務をこなすことができた。
デスク越しに見える神代 七海さんの笑顔が、いつもより少しだけ温かく見えたのは、きっとシュークリームの甘さのせいだけではないはずだ。
――と、所長の頭の中を勝手に妄想し終えた七海は、ふと我に帰った。
「お腹を壊さなかったのは当然です。神代の血を引く歴史ある魔法使い。その私が、愛を込めて、常に回復魔法をかけ続けているんだもの!」
歴史ある血筋の中で、突如として神代に近い強大な力を得て生まれてきた七海は、その力の使い方を……たぶん知らない。
恋と妄想に生きる七海に幸在らんことを。




