第7話 居酒屋の冷奴
焼き鳥居酒屋の、少し油の匂いが混ざった賑やかな空気の中で、私はメニュー表を指差した。
「すみません、この冷奴と、あとネギまを――」
「ちょっとあなた、豆腐なんて家に帰れば冷蔵庫にあるじゃない」
妻、恵玲奈は軽快で、何の悪気もない声が私の言葉を即座に遮った。
妻は綺麗な女性だった。
顎にある小さなほくろがまたかわいい。
そう思って結婚したけれど……。
「焼き鳥だって、家の冷凍庫に鶏肉があるでしょ。わざわざここで頼むことないじゃない。……すみません、枝豆とフライドポテトと、あとコロッケとハラミ串ください」
テーブルに運ばれてきたのは、どこにでもある枝豆とフライドポテトだった。
私は黙って枝豆を口に運ぶ。
家にある豆腐と、いまここで食べる冷奴は、まったく別の食べ物なのに。
私が食べたかったのは豆腐という物質ではなく、「今、この空間で自分の意志で選んだ冷奴を味わう」という、ごくありふれた日常のささやかな情緒だったのだ。
我が家の財布の紐は、すべて家事専従者である妻が握っている。
会社員としての私の給料に加え、親から受け継いだ土地の運用益もある。
老後の心配など一切いらないくらいの貯蓄は十分にあるはずだった。
それなのに、旅行に出かければ「移動費が浮くから」と格安の夜行バスに乗せられ、寝不足のまま観光地を歩き、素泊まりの宿でコンビニのおにぎりをかじる。
帰りの夜行バスから降りたそのままの足で出勤した時の、あの灰色の朝の空気を私は一生忘れないだろう。
そのくせ、妻が推している男性アイドルグループのライブとなれば話は別だった。
彼女は一言の躊躇もなく飛行機の手配をし、ファン同士のオフ会や限定グッズには湯水のようにお金を使う。
「自分の好き」には無限の予算がつくのに、「私の好き」は冷蔵庫の中身と比較されて即座に却下される。
削られているのは、数百円の冷奴代ではない。
「自分という人間が、自分の人生の決定権を持っている」という当たり前の尊厳だった。私の心は、何年も前からずっと栄養失調だった。
「ごちそうさま。美味しかったね」
店を出て、駅までの夜道を二人で歩く。
満足そうにスマホで推しのSNSをチェックする妻の横顔を見ながら、私の心には冷たい風が吹き抜けていた。
その時だった。
雑居ビルと雑居ビルの間の、街灯も届かない真っ暗な路地の奥から、不意にフワリと香ばしい醤油と薬味の匂いが漂ってきた。
(……ん?)
吸い寄せられるように視線を向けると、暗闇の中に、ぽつりと小さな赤提灯が灯っていた。
こんな路地の行き止まりに店なんてあっただろうか。
提灯には掠れた文字で『冷成堂』(れいなるどう)とだけ書かれている。
「ねえ、あなた? どうしたの?」
先に歩いていた妻が立ち止まり、不審そうに振り返る。
私は妻の制止も聞かず、吸い込まれるようにその狭い路地へ踏み出し、赤提灯の下にある暖簾をくぐった。
そこはカウンターが数席しかない、ごく普通の古びた居酒屋だった。
奥の厨房には、黙々と包丁を握る、どこか気品のある年配の店主が一人。
「いらっしゃいませ」
低い声に促され、私は導かれるようにカウンターに腰掛けた。
追いかけてきた妻が、私の隣で眉をひそめる。
「ちょっと、何してるのよ。さっき食べたばかりじゃない。帰りましょうよ」
私は妻の声を無視して、静かに店主へ告げた。
「……冷奴を、ひとつください」
「かしこまりました」
妻が「だから家に豆腐が――」と口を開かけかけたが、店主は素早い手つきで、ガラスの小鉢に盛られた冷奴を目の前にポンと置いた。
刻みネギと生姜が添えられ、上からタップリと濃い醤油がかかっている。
ごくありふれた、どこにでもある冷奴だ。
私は箸を伸ばし、一口、口に運んだ。
ひんやりとした豆腐が舌の上で崩れ、豆の甘みと薬味の香りが鼻に抜ける。
(……美味い)
ただの冷奴だった。
特別な豆腐でも、高級な醤油でもない。
だが、その一口が喉を通った瞬間、私の胸の奥で固く結ばれていた「何か」が、スッと解けていくような感覚があった。
「あのさ」
私は箸を置かないまま、隣の妻をまっすぐに見つめて言った。
「来月の週末、君が推し活で博多に行くとき、俺も新幹線で京都に行くよ。一番いい旅館に泊まって、美味しいものを食べる。君の遠征費と同じ金額を、俺も自分のために使う」
妻は信じられないものを見るような目で固まり、それから金魚のように口をぱくつかせた。
「なに言ってるの? そんなの勿体ないじゃない、家でお肉でも焼けば――」
「家にあるかどうかじゃないんだ」
私は言葉を遮り、人生で初めて、妻に対してはっきりと微笑んでみせた。
「もうこれ以上、非日常を日常化して、せっかくの機会を台無しにしたくないんだ」
妻は私の気圧されたような表情に絶句し、それ以上何も言えなくなった。
「ごちそうさでした」
私は冷奴をきれいに平らげ、千円札を一枚カウンターに置いた。
「ありがとうございました。……また、お会いしましょう」
見送る店主の視線を背中に感じ、冷たい夜風を浴びながら大通りへと戻る。
胸の奥のモヤモヤが消え去り、不思議なほど足取りは軽かった。
◇
ベッドの上で目が覚めた私は、それが全て夢であるという現実に突きつけられた。
「……はあ」
ついに夢で再現できるまでになっていたらしい。
本当は結婚なんてしていないし、妻はもちろん、彼女だっていない。
ただ、あんな啖呵を切れる自分を、頭の中で何度も再生しては悦に入っているだけなのだ。
私はこの先、本当に結婚して、家庭を持ったりするのだろうか。
理不尽な妻はいやだけど、実は、そんな生活でもいいから誰かと過ごす毎日に憧れていたりもする。
はは、今の私には夢のまた夢だな。
溜息をついたその時、部屋の重厚なドアが静かに開いた。
「殿下、お目覚めですか」
低い声を響かせて、従者レイナルドウが入ってきた。
「おはようレイナルドウ、昔の夢を見たよ」
「また前世の頃の夢ですか?」
「ああ、前世では言えなかった元妻に、夢ではビシーッと言ってやったさ」
「それはよろしゅうございます」
「ああ、ちょっと寂しい気もするけどね」
レイナルドウは呆れたように小さく息を吐くと、手元の羊皮紙を広げた。
「ところでオーレリアン殿下、本日のスケジュールを読み上げます。
まず午前中は、チェスター侯爵家のキャサリンご令嬢との、王宮庭園での乗馬。彼女は乗馬が得意だそうですから、どうか置いていかないであげてください。
お昼からは、隣国の第一皇女・ベアトリス公女殿下をお迎えしての、歓迎晩餐会。国の命運がかかった大事な外交ですので、絶対にサボらないでください。
そして夜は、ラドクリフ伯爵家のエレナ様が主催される、新作ドレスのお披露目夜会へのご出席です。顎に小さなホクロのある殿下お気に入りのご令嬢ですので、エスコートのダンス、ステップを間違えないようお願いいたします。
――以上、三つでございます。殿下、現実逃避のポーズをとるのはおやめください」
「オーケー、レイナルドウ。それからさ、今日の夕食には冷奴を出してくれないか」
「ひややっこ? なんでございますか、それは?」
「ううん、なんでもない。言ってみただけだよ」
僕の名はオーレリアン・ド・ヴァロワ、19歳。
ヴァロワ王国の第一王位継承者にして、異世界転生者だ。
前世は理不尽な妻から虐げられていたけど、今世では超モテモテのハイスペック王子をやっている。
目が覚めた瞬間、美しいメイドたちが着替えや洗顔をすべてやってくれたり、見たこともない魔獣の肉や、光る果物など、前世の常識を超えるメニューが食卓にならんでいる。
すれ違う騎士や使用人たちが、全員僕に跪いて最敬礼をしてくれるし、トイレと風呂以外、常に護衛の騎士や隠密に見守られているのだ。
それから、エルフの親善大使や、ドワーフの名工など、異種族との会食が日常茶飯事だし、コスプレ状態のきらびやかな衣装や、魔力を込めた宝飾品を身につけているんだ。
そういえは、「オセロ」や「サウナ」を再現しただけで、国中が大騒ぎになったっけ。
前世のトラウマのせいで結婚には踏み切れないけど、ご覧の通り毎日が非日常さ。




