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第5話 ハウス、犬も食わない僕らの夜



1. 職場の犬



その日、僕の視線の先で、世界の幸福を一身に集めていたはずの背中が、丸ごと机にのめり込んでいた。



新婚。


この春に結婚したばかりのパートのYさんは、つい昨日までオフィスに砂糖を撒き散らすようなノロケ話を振りまいていたはずだった。


それがどうしたことか、今はデスクに突っ伏したまま、微動だにしない。



「……どうしたんですか?」



不審に思って声をかけると、彼女は顔を伏せたまま、地を這うような声で言った。



「なんでもない」



全然なんでもなくない人のトーンだった。


だが、それ以上踏み込むのも躊躇われ、僕は自分の仕事に戻った。



しかし、問題はそこからだった。


一度ならず、二度、三度。


彼女は定期的にフリーズし、そのたびに机に顔をうずめた。


当然、彼女のところで書類の流れが完全にストップする。


さすがに見過ごせなくなり、僕は再び彼女のデスクへ歩み寄った。



「あの、Yさん。本当に大丈夫ですか? 仕事、滞っちゃってますけど……」 


すると、ゆっくりと上がった彼女の顔には、この世の終わりと怨嗟を煮詰めたような表情が浮かんでいた。そして、僕を真っ直ぐに見据えて、言い放った。


「ハウス」


……この人、たまに人間を犬扱いするのだ。


僕はそっと自席(ケージ)へと引き下がった。





2. 居酒屋の愚痴と、ちゃんぽんの夜


「飲みに行こう」


就業チャイムと同時に、Yさんから低音ボイスで誘われた。


さすがに、いま不穏な空気を纏いまくっている人妻と二人きりで飲みに行くのはリスクが高すぎる。


あらぬ疑いをかけられても堪らない。


僕は機転を利かせ、後輩のM君を「美味しい店があるんだよ」と半ば強制的に巻き込み、3人で居酒屋の暖簾をくぐった。



席につくやいなや、Yさんは生ビールを煽り、事の真相をぶちまけた。



「あのマザコンが! 喧嘩したくらいで実家に逃げ帰るなんて、信じられる!?」



どうやら、旦那さんと大喧嘩をかましたらしい。


しかも旦那さんは荷物をまとめて実家に帰還中とのこと。


新婚早々の家出である。


ビールジョッキを叩きつけるように置くYさんの勢いに、僕とM君はひたすら縮こまり、「はぁ」「大変ですね」と交互に頷くマシーンと化した。



夫婦喧嘩は犬も食わない、とはよく言ったものだ。


さっき犬扱いされた僕としては、なおさら食う気になれない。


ただただ、二人が早期に仲直りしてくれることを切に願うばかりだった。




悪酔いの一歩手前でくだを巻くYさんをM君と一緒にタクシーに押し込み、見送った後。


僕は一人、別の店へ入った。


なんだか、このまま真っ直ぐ家に帰る気になれなかったのだ。


カウンターに座り、ビールと白ワインを同時に注文する。



カウンターの上に並ぶ、黄金色と透明なグラス。


交互に口を付ける。


ちゃんぽんは翌日に響く。


明日も普通に仕事だ。


そろそろ帰らなければいけないことは、頭では分かっている。


でも、飲まきゃやってられない日だって、僕にだってある。


一人きりのマンションが、妙に寒々と感じられる夜。


(……誰か僕に、帰れって言ってくれないかな)


心の中で、ぽつりと呟く。


誰か僕に、「ハウス」と言ってください。






3. 占いと拒絶


それから、数日が経った。


夫婦喧嘩の果てに旦那さんが荷物をまとめて出て行ってしまった、パートのYさんのその後である。


風の噂によると、旦那さんからは何度か謝罪の連絡が入っているらしい。


しかし、Yさんの方の怒りは未だに沸点を超えたままで、連絡はすべて完全に無視。


鉄壁のシカトを貫いており、別居状態は今もなお継続中だった。


オフィスでのYさんは、相変わらずどこかトゲトゲしている。


そんな彼女が、昼休みにふと僕の席にやってきた。


「ねえ」


「はい、なんでしょう」


「私、この膠着状態を解決するために、次の休みに占いを予約したの」


一瞬、耳を疑った。


夫婦の危機を、スピリチュアルな力で突破しようというのか。


せめて話し合えばいいのに、と思いながらも、僕は「へえ、そうなんですね」と無難な相槌を打った。


すると、Yさんは真剣な顔で僕を覗き込んできた。



「ついでに、あなたもどう? 一緒に行かない?」



なぜ僕が。



旦那との復縁(あるいは決別)の占いに、なぜ職場の同僚(しかも犬扱いした男)を同伴させようとするのか。


彼女の思考回路は相変わらず謎に満ちていた。


「いえ、僕は遠慮しておきます。丁重にお断りします」


僕は大人の、社会人としての最大限に丁寧な笑顔をつくり、両手を振って拒絶した。


これ以上、彼女の巻き起こす暴風雨に巻き込まれるのは御免だった。


「ちぇ、つまんないの」


Yさんはつまらなそうに首をすくめ、自分のデスクへと戻っていく。


その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。


占いの結果がどうあれ、彼女の家庭に平穏が戻ることを、僕は犬のようにただ祈るばかりだ。


そして願わくば、明日の仕事が彼女のところで止まりませんように。




4. 結局、占いの館で


「本当に、ただの付き添いだからね」


そう釘を刺したはずだったのに、気づけば僕は、休日の怪しげな雑居ビルの地下にいた。


丁重に断ったはずの僕を、Yさんは「一人じゃ怖いから」という、普段の彼女からは想像もつかないか細い声(おそらく演技だ)で引っ張り出したのだ。


薄暗い一室の奥に、お香の煙に燻された老占い師が座っていた。


Yさんは席に着くなり、旦那との別居の経緯をまくし立てた。


「あのマザコン、いつ帰ってきますかね? それとも、もう別れた方がいいんでしょうか」


老占い師は、じっとYさんの顔を見つめ、それから背後に立っていた僕に視線を移した。


その瞬間、部屋の空気がわずかに冷えたような気がした。


「旦那さんはね、もうすぐ帰ってきますよ」 


占い師はしゃがれた声で言った。


「でもね、奥さん。あなたが本当に向き合うべきは、旦那さんじゃない。あなたのその……『言葉の癖』だ」


「は? 言葉の癖?」


Yさんが眉をひそめる。



「あなたは無意識に、身近な人間を『飼い慣らそう』としている。言葉に、妙な力が宿り始めているんだよ。それを改めないと、いずれ本当に……」



「はあ? 何言ってるんですか、変な占い。もう帰ります!」



怒ったYさんは立ち上がり、僕の腕を引っ張って部屋を飛び出した。


料金だけはきっちり机に叩きつけて。


雑居ビルを出ると、すっかり日が暮れていた。


占い師の不気味な言葉のせいで、僕の背中には奇妙な寒気が残ったままだ。一刻も早くこの場を離れたい。



「あー、胸クソ悪い! やっぱり占いなんて信じるんじゃなかったわ。付き合わせちゃってごめんね」



Yさんはふん、と鼻を鳴らし、いつもの調子を取り戻して言った。



「まぁ、気晴らしにはなったんじゃないですか。じゃあ、僕はこれで……」



「何言ってんの、今から飲みに行くぞ!」



グイと腕を引っ張られる。


しかし、あの占い師の言葉が頭をよぎり、僕は必死に抵抗した。



「いえ、今日は帰ります」



そう言って、僕は彼女に背を向け、駅の改札に向かって一歩を踏み出した。



「 マテ!」



背後から、Yさんの鋭い声が響く。


その瞬間。


僕の足が、ピきりと凍りついたように動かなくなった。


頭では「帰るんだ」と命令しているのに、筋肉が、関節が、一ミリも動かない。


まるで地面から強固なコンクリートが生えてきて、僕の靴底を完全に固めてしまったかのように、一歩も前に進めなくなったのだ。 


逆らおうと力を入れると、喉の奥から奇妙な衝動がせり上がってくる。


あの占い師の言葉が、耳の奥で蘇る。


『言葉で、見えない首輪を繋いでいるんだよ。それを改めないと、いずれ本当に……』


僕は恐怖に駆られながら、近づいてくるYさんにこう叫んだ。



「ワン!」



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