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第4話 鉄の扉と、お釣りのこない春の風

鉄の扉と、お釣りのこない春の風



季節は春。


芽吹く街路樹の柔らかな緑が、かえって紗雪(さゆき)の目にはひどく眩しすぎた。



「お二人での生活でしたら、こちらなど大変おすすめですよ」



案内された物件は、非の打ち所がないほど素敵だった。


窓から差し込む陽光は暖かく、新しい暮らしの予感に満ちていた。


しかし、その帰り道のことである。


店員の何気ない一言、あるいは夏乃介(なつのすけ)の些細な視線の動きだったか。


紗雪の心に棲まう、異常なまでの被害妄に関するスイッチが突然入った。



「あなた、今あの人のこと鼻の下伸ばして見てたでしょう!?」



勘違いは一瞬で火が付き、怒りの炎へと変わる。


道端で、大声で夏乃介を罵り始めた。


通りすがる見知らぬ人々が、一斉に怪訝な視線をこちらに向ける。


夏乃介はただ、嵐が過ぎ去るのを待つように立ち尽くしていた。



「もう勝手にしなさいよ!」



紗雪は一人、足早に背を向けて立ち去った。


取り残される夏乃介。


どうせ今回も、数日すれば彼が平身低頭で謝ってきて終わりだ。


紗雪はそう高をくくっていた。



しかし。


数日が経っても、一週間が経っても、端末に謝罪の便りは一行も届かない。


こちらから連絡を乞うなど、肥大化したプライドが許すはずもなかった。


だが、あの素敵な物件を他の誰かに取られてしまうのだけは耐えられない。



二週間後。


紗雪はしびれを切らし、一人でその物件を契約するために不動産屋へと足を運んだ。



「……え? すでに契約済み、ですか?」



窓口で告げられた言葉に、紗雪はガックリと肩を落とした。


その時、先日部屋を案内してくれたあの店員が外回りから戻ってきた。



「あれ? どうされました? なにか問題でも……?」



事情を察した店員は、不思議そうに目を丸くして言った。



「あの日、案内が終わってすぐに戻ってこられた彼氏さん、その日のうちに仮契約をされまして。審査が通った三日後には本契約を済まされましたが……ご存知なかったですか?」



なんだ、そうだったの!?


紗雪の胸に、一気に喜びが湧き上がった。


早く言ってくれればいいのに。


彼女は店を飛び出すなり、意地を張っていたことなど忘れて夏乃介に連絡を入れた。


しかし、呼び出し音は虚しく響くだけで、彼は出ない。


メッセージを送っても、いつまで経っても『読まれた証』さえつかなかった。


胸騒ぎがして、もう一度不動産屋へ引き返した。



「あの、入居予定日はいつですか?」



店員は首を傾げながら、書類に目を落とした。



「予定日も何も……もう、ご入居されていますよ」



えええええ!?


なんなの夏乃介!!



喜びは瞬時にして、裏切られたという激しい怒りへと変貌した。


またいつものように、夏乃介というサンドバッグにこの感情をぶつけなければ、乱れた心は壊れてしまいそうだった。


紗雪は新しい新居のアドレスへと急いだ。



ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――。



狂ったように、連続で十回以上も呼び鈴を鳴らす。


ガチャリ、と重い鉄の扉が開いた。



「夏乃介! ふざけんな!」



開口一番、紗雪の怒鳴り声が廊下に響き渡る。


対する夏乃介は、ただ沈黙したまま彼女を見つめていた。



「なんとか言いなさいよ! ふざけないで!」



「……部屋に上がって。外に響くから」



夏乃介はため息をつき、ドアを開けた。


紗雪はフンと鼻を鳴らし、我が物顔で室内に踏み込む。



「で、どういうつもりよ? 私に黙って一人で引っ越すなんて。連絡も無視しやがって」



腕を組んで睨みつける紗雪に、夏乃介は静かに扉を閉め、振り返って言った。




「そういうところだよ、紗雪」



「あ!?」



「近所迷惑も顧みず、そうやって大声で罵倒する」



「私を怒らせたあんたが悪いんでしょうが!」



「そうかな?」



「あ!? 私のプライドを蔑ろにするあんたのせいよ!」



「僕にだって、プライドはあるよ」



夏乃介の静かな声が、かえって不気味だった。



「何ですって!?」



「人前で罵られたり、怒られたり。そんなことをされて、僕のプライドが傷つかないと思っているの?」



「だから、いつも言ってるでしょ! 私は怒りっぽいけど、それは性格だから気にしないでって!」



「言葉の暴力を受けて、気にしないで、なんて……話にならないよ」



夏乃介は冷たい目で紗雪を見据えた。



「それだけじゃない。君は怒ると、僕がそこにいないかのように振る舞ったり、デート中でも勝手に一人でどこかへ行ってしまったり。一緒にカフェに入っても、一人で本を読み始めて『あなただからいいでしょう』って二時間も放置したりする。……そんな人と、一緒には住めない」



紗雪の怒りは頂点に達した。


激しい罵詈雑言を、機関銃のように浴びせまくる。


もう自分でも何を口走っているのか分からないほどだった。



「君とはあの日、別れたつもりだ。だって、君が『もう別れましょう』って書き置きを送ってきたじゃないか」



「そんなの、いつものことでしょう! 私は認めない!」



「別れよう、っていう脅しはね、相手がまだ君のことを好きな時にしか使えないんだよ」




「え……?」





一瞬、頭が白くなった。



「帰ってくれ。君とはもうこれ以上話すことはない」



夏乃介はそう言うと、紗雪の腕を掴み、玄関の方へと引っ張った。



「ちょっと、何するのよ! 離しなさいよ!」



「帰ってと言っているんだ。近所迷惑だから」



抵抗する紗雪を、夏乃介は淡々と、しかし強い力で玄関口まで押し出す。



「ちょっと待って、じゃあ、なぜこの物件を一人で契約したのよ! ここは3LDKよ、一人で住むっていうの?」



「今はね」



「何それ。じゃあ、私が同居してあげるわよ」



「お断りだ」



有無を言わさず三和土(たたき)へと押し出され、外廊下に足を踏み外した拍子に、夏乃介の手が離れた。



「サヨウナラ」




ガチャリ。





冷酷な音を立てて、目の前でドアが閉まった。




チェーンが掛けられる金属音まで聞こえる。



「開けなさいよ! 夏乃介!」




締め出され、怒り狂った紗雪は、その頑丈な鉄の扉を、親の仇のように渾身の力でドカドカと激しく蹴り飛ばした。






帰り道、怒りのエネルギーだけで歩きながら、紗雪は歯噛みした。



(許さない。絶対に許さない。夏乃介のくせに……!)



しかし、怒り疲れ、虚しさが襲ってきた。



(……もう, あきらめよう。夏乃介なんかより、もっと素敵な人はいくらでもいるわ)



彼女の頬を涙が伝い落ちた。






それから一ヶ月の間、紗雪は地獄のような日々を過ごした。



毎日のように夏乃介の動向を詮索しようとしたが、彼の様子はさっぱり分からない。


寂しさと怒りが交互に押し寄せ、夜もまともに眠れない。



「なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ……」



傷ついた心を引きずり、完全に干からびかけていたその時、端末に思いがけない着信があった。夏乃介からだった。




『会いたい』




短いその文字を見た瞬間、紗雪の口元が醜く歪んだ。



(それ、みなさい! やっぱり後悔していたのね! ふふん、今回はすぐには許してあげないんだから。だって、この私をあれほど傷つけたんだもの)







指定されたのは、二人が初めてデートをしたあの懐かしい店だった。



案内された個室の扉を開けると、そこには緊張した面持ちの夏乃介が座っていた。




紗雪はわざと高圧的に椅子に腰掛け、メニューを睨みつけた。


夏乃介は一杯の水を前に、ただ静かに彼女を見つめている。



「紗雪……」



「何よ。謝るなら早くしなさいよ。聞いてあげてもいいわよ?」



(もう、少し焦らしてから許してあげようかしら)



と、紗雪が心の中で算段を立てた、その時だった。




「僕はあの新居のドアの、『修理代』を請求しにきたんだ」




「……は?」



手に持っていたメニューがバサリと倒れる。



「君があの日、十回以上激しく蹴り飛ばしたから、鉄の扉がベコベコに凹んじゃってさ。管理会社から三十万円の請求書が届んだよ」



「はあ!? なに言ってるの、そんなことでわざわざ呼び出したわけ? 冗談じゃないわよ、そんなの払うわけ――」



「あとね、僕、結婚するんだ。彼女のお腹に子供ができてね」



「ええーっ!?」



あまりの衝撃に頭の回転が止まる。



「け、結婚? 子供? は? だって別れてまだ一ヶ月半くらいよ!? もう新しい女ができたの!?」



「うん。だからさ、これから結婚資金でお金が必要なんだよ。余計な負担は出来ないんだ。何よりパートナーがそれを許さない。ドアの修理代の三十万円、ちゃんと請求してって。今月中に僕の口座に振り込んで」



「ちょっと待ちなさいよ! 妊娠何ヶ月よ!」



「三ヶ月だけど」



「……え。ちょっと、計算がおかしいじゃない。三ヶ月ってことは、私と付き合ってる時と完全に被ってるよね!? 二股してたわけ!? 相手は誰!?」




夏乃介は、少しだけ気まずそうに、しかしハッキリと言った。




「……あの物件を案内してくれた、不動産屋の店員さん」




「おまえ……やってくれたなーーーっ!!」




「いや、誤解しないで。彼女とは君と付き合う前から知り合いでさ。ずっと割り切った関係だったんだ。だからあの物件選びの時も、彼女にお願いしたんだよ」



「はあ!? じゃあ何、あの不動産屋でのやり取り、二人して私を騙して白々しく接客してたわけ!?」



紗雪は目の前が真っ暗になった。



店員の愛想のいい笑顔が思い返され、反吐が出そうだった。


かなりの悪だ、こいつら。



「そう。お互い完全に割り切ってた。でも最近、妊娠がわかってさ。だったら責任とって結婚しようかってことになったんだよ」



「うるさい! 二人まとめて慰謝料よ! 私たちは半同棲三年、事実婚よ! 私はあんたとあの女に、三十万円ずつ、きっちり六十万円請求するわ!!」



「ええ!? ちょっと待ってよ紗雪!」



「ふん! バカ!」



紗雪は伝票を叩きつけ、一人で店を飛び出した。





夜風の吹く道を、紗雪は一人で歩いていた。



「馬鹿みたい、私……」



ぽつりと言葉が漏れる。


だが、不思議と胸の奥はすっきりとしていた。


お金のことなんて、本当はどうでもよかった。


何より、あの最悪な男たちに対して、最後にきっちり一矢報いてやったという事実が、彼女のプライドを奇妙に救い上げていた。



少しだけ、気持ちが軽くなった。



足取りも軽くなり、まるで滑るように足が前に進む。



(ふふふ。うふふ。私の人生、これからもっといい男を見つけてやるんだから)



ズルッ。



「あ痛てっ!」



本当に滑った。



道路の白線の上で派手に足を取られ、そのまま体勢を崩して転がってしまった。



「痛たた……もー、何よこれ。あーあ、私の人生って、これから一体どうなるんだろうな……」



泥のついた服を気にしながら顔を上げると、道路の向こうから、眩い光が急速に近づいてくるのが見えた。



(何? あの光。……もしかして、私の新しい幸せの幕開け?)



――いや、大型トラックのヘッドライトだった。


自分が転倒して車道のど真ん中に飛び出しているのだと理解した瞬間、彼女の視界は、逃れようのない白い光に完全に包み込まれた。






激しい衝撃の後、深い闇が訪れた。



感覚が消え去り、時間の概念さえも失われたような、果てしない静寂。



(私、死んだのかな……。それとも、まだ夢の中にいるの?)



意識の糸をたぐり寄せるようにして、紗雪はゆっくりと目を開けた。



「……う、頭が痛い……」



気がつくと、彼女は冷たく硬い大理石の床の上で倒れていた。



(確か、私、滑って転んで、トラックが目の前に迫ってきて……)




「――よくぞ目覚めた、異世界の勇者よ!」



え?


体を起こすと、視界を埋め尽くしたのは、息をのむほど絢爛豪華な大広間だった。



辺りには中世の騎士のような鉄の甲冑を着た男たちと、豪奢なローブをまとった老人たちが、厳粛な面持ちでずらりと並んでいる。



そして正面の、ひときわ高い玉座から、威厳に満ちた(しかしどこか偉そうな)声が響き渡った。



「我が名はグランゼリア王国が第十三代国王、アルトリウス・ヴァン・グランゼリア。此度は我が国の、いや、この世界『エスタニア』の存亡をかけ、古の秘術をもってそなたを召喚させてもらった。魔王を倒し、世界を救ってくれ!」




「えええーーーっ!?」



「そっちーーー!?」



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