第3話 飴と鞭 ― 咲先輩からのメッセージ ―
デスクの上に、コロンと小さくて可愛い焼き菓子の袋が置かれていた。
時計を見ると、定時の17時を少し過ぎたところだった。周りの席の先輩たちは、すでに帰り支度を始めている。
お菓子の袋には、上品な手書きのメッセージカードが添えられていた。
「いつもありがとうございます」
送り主は、隣の席のしっかり者で、少し生真面目な先輩の「咲さん」だ。
「あ、咲さん、ありがとうございます!」
僕が声をかけると、咲さんはパソコンの画面を見たまま、小さく頷いた。
普段はクールな人だから、個人的にお菓子をくれるなんて珍しい。
僕は嬉しくなって、すぐに袋を開けてお菓子を一つ口に放り込んだ。
サクサクとした食感と、バターの甘い香りが口いっぱいに広がる。
仕事の疲れが癒やされていくのを感じながら、カードを裏返した。
そこには、小さな文字で追伸が書き添えられていた。
「追伸:例のプロジェクトの件も、そろそろお願いしますね」
心臓が、ドキンと嫌な音を立てて跳ねた。
口の中の甘い焼き菓子が、急に砂のようにパサパサとした味に変わる。
なるほど、このお菓子の最大の目的は、これだったわけだ。
仕事が人より少し遅い僕に、咲さんはすっかり痺れを切らしている。
これはただの差し入れじゃない。
物腰の柔らかい「催促」なのだ。
「はは、がんばりまーす……」
僕は小さく呟き、慌てて未完成の業務ファイルを画面に開いた。
今夜は少し残業をして、この仕事を片付けてから帰ることにしよう。
オフィスから一人、また一人と人が減り、静けさが広がっていく。
カチカチという僕のマウスの音だけが、広い部屋に寂しく響いた。
気がつくと、時計の針は22時を回ろうとしていた。
「よし、これで半分は終わったぞ」
僕は伸びをして、机の上のコーヒーを一口飲んだ。
そのとき、ふと、隣の咲さんのデスクに目が留まった。
彼女は18時ごろに「お先に失礼します」と帰ったはずだ。
なのに、彼女のデスクの上のパソコンの電源が、まだ入っている。
画面は真っ暗だが、起動していることを示す小さなランプが青く光っていた。
消し忘れたのかな、と思って僕が席を立ち、咲さんのデスクに近づく。
画面を閉じてあげようとした瞬間、真っ黒いモニターに僕の顔が映った。
いや、僕の顔だけじゃない。
僕の「真後ろ」に、誰かが立っている。
後ろに立っていたのは、咲さんだった。
オフィス特有の薄暗い画面越しに、彼女の冷ややかな目線とバッチリと目が合う。
ヒッ、と短い悲鳴が喉の奥で引き裂かれた。
慌てて振り返る――が、そこには誰もいない。
ただのガランとした、静まり返ったオフィスだ。
「え、うそ……見間違いか?」
心臓のバクバクが収まらない。
しかし、どうしても気になって僕は会社中を探すことにした。
1階、2階、3階、4階、5階――息を切らしながら全てのフロアを徹底的に探しまくったが、彼女の姿はどこにもない。
途方に暮れて1階のロビーへ降り、夜勤の警備員に「咲さんを見かけませんでしたか?」と聞いてみたが、彼は怪訝な顔で「いや、だいぶ前に退社カードを通して帰られましたよ」と首を振るだけだった。
完全にノイローゼ気味になりながら、僕は1階の奥にあるトイレへ向かった。
顔でも洗って落ち着こうと思ったのだ。
しかし、一歩トイレに足を踏み入れた瞬間、全身の血が凍りついた。
個室の手前の洗面台の前に、咲さんが直立不動で立っていた。
「わあああっ! さ、咲さん!? 男性トイレで何してるんですか!?」
僕が仰天して叫ぶと、咲さんは一切口を開かず、ただ無表情のままスッとトイレの出口を指差した。
その奇妙な威圧感に押されるようにして、僕が指された方向を見る。
すると、信じられないことにトイレのすぐ外の廊下にも、もう一人の咲さんが立っていた。
そして彼女もまた、廊下の奥の先をじっと指差している。
背筋にゾワリと寒気が走り、慌てて後ろの洗面台を振り返る。
だが、さっきまでそこにいたはずの咲さんは消えていた。
驚いてまた前を向くと、今度は廊下にいたはずの咲さんも一瞬で姿を消していた。
恐る恐る廊下に出ると、少し離れた暗がりに、またしても咲さんが現れた。
今度は、非常階段のドアを指差している。
ここで、僕の頭の中でバラバラだったピースが不吉な形となって繋がった。
(わかった……。咲さんは、死んだんだ)
きっと、さっき会社を出て帰る途中で、不審者に襲われるか何かの事件に巻き込まれて殺されてしまったに違いない。
だからこうして幽霊となって現れ、僕に犯人の手がかりや、自分の遺体がある場所を示しにきたんだ。
「わかったよ咲さん、僕があなたの無念を晴らすよ……!」
僕は涙目で必死に覚悟を決め、彼女の背中を追った。
咲さんは消えては現れ、無言のまま次々と進むべき方向を指し示していく。
階段を駆け上がり、廊下を曲がり、彼女の案内に導かれて、たどり着いた場所は――
5階にある僕自身のデスクの前だった。
「え……?」
僕は呆然と立ち尽くした。
犯人の手がかりどころか、完全にスタート地点に戻ってきている。
いったいどういうことだ。
混乱する僕の耳元に、突然、冷たい吐息のような掠れた声が届いた。
「……や……れ」
「え? え?」
首を振ると、僕の椅子のすぐ真後ろに、いつの間にか咲さんが立っていた。
「早く……やれ……」
「な、何を……?」
咲さんは僕のパソコンの画面をギロリと睨みつけ、これまで聞いたこともないようなドスの利いた声で怒鳴った。
「プロジェクトの資料を早くやれよ!明日の朝までに終わらせろボケェ!」
ビシィッと僕のキーボードを指差したかと思うと、咲さんの姿は煙のように掻き消えた。
あまりの恐怖と理不尽さに脳の処理が追いつかなかったが、僕は恐る恐る自分のデスクの椅子に座り、震える手で咲さんに直接電話をかけた。もう確かめるしかない。
コール音が響く。お願いだから出てくれ。
『……はい』
出た! 生きている!
「もしもし、あ、咲さん!? 夜分遅くに本当にすみません!」
『どうしたの? 星野くん。こんな時間に』
電話の向こうの咲さんは、少し眠そうだが至って普通の、いつもの咲さんだった。
「いえ、あの……本当に信じてもらえないかも知れませんが、いま、社内に咲さんがいたような気がして……」
僕が半泣きでそう打ち明けると、電話の向こうで咲さんは「あー……」と、面倒くさそうにため息をついた。
『ああ、ごめん。私、時々生霊飛ばしちゃうみたい。昔からなんだ。気にしないで』
「あ、なーんだ、そうでしたか。わかりました。では、失礼します」
僕は電話を切った。
ボーゼンとした後、仕事を再開した。
キーボードを叩き続け、深夜3時にようやくプロジェクトの資料が完了した。
時計を見て頭を抱える。
今から自宅に帰っていては、数時間後の始業に間に合わない。
少しでも睡眠時間を長く確保するため、僕は会社を出て、近くにあるビジネスホテルへ駆け込んでチェックインした。
案内された部屋につき、どっと押し寄せる疲労感とともにベッドにどさりと腰掛ける。
その時、ズボンのポケットでスマホがぶるりと震え、一件のメッセージングアプリの通知を知らせた。
「咲さんからだ……」
恐る恐る画面を開く。
そこには、
『お疲れ様』
という、短い一言だけが送られてきていた。
「はあ?お疲れ様じゃねーよ。草葉の陰から俺を見てんじゃねーよ!ボケェ!」
という、僕の心の声が、咲先輩に届きませんよーに。




