第12話 私の王子様は半分男
車で三時間ほど走った山あいに、その牧場レストランはあった。
青々とした放牧地を見下ろすログハウス風の店で、名物は直営牧場の牛肉を贅沢に使った「牛ステーキ丼」。
あの日は、私と当時の彼氏、そして私たちの共通の先輩である健司さんと由佳さん夫婦の四人で訪れていた。
「丼は絶対に一人一つ、ちゃんと頼んだほうがいいよ」
道中、助手席の由佳さんがわざわざ念を押した。
理由ははっきりしている。彼氏には、私が外食で頼んだ料理を断りもなく半分奪っていく悪癖があったのだ。
店に入って木のメニューを開くと、選択肢は極端だった。名物の「牛ステーキ丼」と、なぜか隅に小さく書かれた「野菜カレー」の二種類だけ。
遠路はるばる肉を食べに来て、カレーを選ぶ人間などいるはずもない。
私と健司さんたちは迷わず牛ステーキ丼を頼んだ。
ところが、彼氏だけが平然と店員に告げた。
「僕は野菜カレーで」
「え? せっかく来たのに名物を食べないの? ここの牛肉、本当に美味しいんだよ?」
由佳さんが驚いて訊ねると、彼氏は事もなげに答えた。
「彼女から牛ステーキ丼を半分貰うから大丈夫です」
胃のあたりがきゅっと縮んだ。
湯気の立つステーキ丼が運ばれてくると、彼氏は私の前に置かれた丼へ迷わず手を伸ばし、自分の手元へとスライドさせた。
そして端からきっちり半分をスプーンで掬って胃袋に収めると、残りの半分を私の前に押し戻した。
「はい、ぴったり半分こね」
そう言って、彼は届いたばかりの自分のカレーを食べ始めた。
「カレー一口食べる?」
悪気のない顔で差し出されたスプーンに、私は決して口をつけなかった。
理由は二つある。
一つは、今食べたくないものを食べる義理などないから。
もう一つは、ここで受け取らないことが、彼の身勝手なルールへのささやかな抵抗だったから。
見かねた健司さんが苦言を呈した。
「いつもそうやって彼女のご飯を取るけど、本当にお行儀が悪いよ」
注意された彼氏はあからさまに不機嫌になり、カレー皿にスプーンを当てる音だけを響かせて黙り込んだ。
それ以来、私は彼氏や友達と外食するたびに「私が注文したものは私が一人で食べる。食べたかったら自分も同じものを頼んで」と釘を刺すようになった。
彼氏は半分の強奪こそやめたものの、それでも一口、二口は必ず私の皿に手を出してきた。
さらに彼は、私が大盛りを頼むのを異常に嫌った。
奪われて空腹になるのを防ごうと、私が予め大盛りを注文しておくと、なぜか普通盛りが運ばれてくる。
そんなことが何度もあった。
私の知らない間に、彼が店員へ勝手に変更を伝えていたのだ。
問い詰めると、彼は平然と言い放った。
「大盛りにすると味が薄くなるから嫌なんだ」
自分が後から食べる前提で、自分の好みを押し通していたわけだ。
大盛りで味が薄くなるなど、彼の思い込みに過ぎないというのに。
思えば、付き合ってすぐに彼の異常さには気づいていた。
最初からやたらと怒りっぽく、自分の要求を通すために狡猾な交換条件を突きつけてくる男だった。
「君が行きたいA店に夜行こう。その代わり、今は僕が行きたいB店に付き合って」
そう言っておきながら、夜になると「やっぱりA店はやめよう」と言い出す。約束が違うと責めると、
「あの時はああ言ったけど、A店は共通の知人がやってる居酒屋だし、二人の関係を見せびらかすみたいで良くない。行くと言ったのは、君の気持ちに寄り添ってあげただけだ」
と恩着せがましい理屈を並べ、約束を反故にした。最初から行く気などなかったのだ。
彼には会社にやたらと憧れている先輩がいて、その人に異様なほど気を遣っていた。
一緒に旅行した時など、その先輩への土産選びだけに二時間も費やした。
その間、私はまるで透明人間のように扱われた。
散々付き合わされた末、彼が満足げに選んだのはネズミの形をしたマグカップだった。
「先輩はこういうのが好きなの?」と聞くと、
「わからない。でも、使わなくてもインテリアになるし、僕が貰ったら嬉しいから」
と答え、そこから延々と自説を語り続けた。
健司さん夫婦と貸別荘に泊まった時もそうだった。
夕食の買い出し中、由佳さんが「前に作ってくれた料理をまた作ってほしい」と言ってくれたので材料をカゴに入れようとすると、彼氏が血相を変えて割り込んできた。
「材料を戻して。みんなでお金を出すんだから、君が作りたい物を買うのは良くない」
「食べたいって言ってくれたのよ」と言い返しても、
「向こうは君に気を遣って言っただけだ。いいから戻して! 君は間違ってる!」
と怒鳴り散らす。
由佳さんに事情を話すと「え? なんで? 本当に食べたかったのに」と困惑された。
それでも、作れば彼が不機嫌になって場を壊すのは目に見えていた。
私は黙って材料を棚に戻した。
彼は常にその場を支配しようとし、勝手に計画を狂わせる。
だからそれ以降、友人たちと別荘へ行くときは事前にメニューを決め、誰が何を担当するかまで文書にして共有し、彼が口を挟めないよう防衛線を張るようになった。
その旅行中、立ち寄った観光スポットでの出来事も忘れられない。
健司さん夫婦と彼氏が喫茶コーナーで話し込んでいた。
すでに出発予定の時刻を過ぎていたため、幹事だった私は「そろそろ出発しよう」と声をかけた。
健司さんと由佳さんは「そうだね、出発しようか」と席を立とうとした。
すると彼氏が座ったまま私を怒鳴りつけた。
「まだここに居たいと思っている人がいるんだから、声をかけるのは間違ってる! 次の予定が押すなら取りやめるか、別荘の到着時間を遅らせればいいだけだろ!」
ここに居たいのは、どう見ても彼一人だった。
「臨機応変って言葉を知らないのか! 自分勝手も大概にしろ!」
声を荒らげ続ける彼氏に、健司さんは「お、おい、何を言ってるんだ?」と困惑し、由佳さんは「明るいうちに着いて、夕暮れを見ながらバーベキューをするのが今回の目的だったはずだけど、取りやめるって……」と驚きを隠せなかった。
結局、買い物を済ませて別荘に着いた頃には、すっかり夜になっていた。
夕暮れのバーベキューは、懐中電灯で手元を照らしながらの闇鍋ならぬ闇焼肉になった。
決定打となったのは、彼氏の自宅での出来事だった。
遊びに来た私を放ったまま、彼はスマホで電子書籍の漫画を読み始めた。
そのまま二時間。
テレビもない静まり返った部屋で、私はただ座っているしかなかった。
「漫画はそろそろやめにしない? 私が遊びに来てるんだし」
限界を迎えてそう告げると、彼は信じられない言葉を返してきた。
「二人でいるからって、ずっと相手をしなくちゃいけないのか? 家族だったら、みんなそれぞれ好きなことをしてるだろ」
なぜ家族を引き合いに出すのか分からなかった。
招いておきながら二時間も放置して、何を言っているのか。
「これ以上読むなら帰る。ここにいる意味がない」
私が立ち上がると、彼は「わかったよ!」と怒鳴り、当てつけのように洗濯を始めた。
ところが、洗濯機の前から一向に戻ってこない。
不審に思って見に行くと、彼は回る洗濯機の前に立ったまま、夢中でスマホの画面をスクロールしていた。
私に気づくと慌ててスマホを洗濯物の上に放り投げ、家事をしているふりを取り繕った。
洗濯をするふりをして、漫画の続きを読んでいただけだったのだ。
支配欲が強く、場の空気を読めず、とんちんかんな命令を下し、他人の時間を平気で奪い、食い意地が張り、怒りっぽく、人前ですぐに私を叱り、責める。
もう、我慢の限界だった。
私は何も言わずに部屋を出て、そのまま家に帰った。
それ以降、彼からの連絡には一切出なかった。
きっぱりと関係を清算すると、心は驚くほど軽くなった。
頼んだ料理を誰にもスライドされず、時間も奪われない生活は、平和そのものだった。
けれどその一方で、ふとした瞬間に妙な寂しさが胸をかすめることもあった。
あんな男だったけれど、不器用に選んだネズミのマグカップや、時折見せる妙に無邪気な笑顔など、好きだった部分がまったくなかったわけではない。
理不尽に振り回された記憶ほど、なぜか奇妙な愛着の澱を残すものらしい。
別れて半年ほど経った頃、健司さん夫婦と飲む機会があった。
お酒が進む中、健司さんがふと思い出したように言った。
「そういえば、あいつ……会社を辞めたらしいよ」
「えっ、あんなに社内の先輩に媚び売ってたのに?」
「ああ。突然退職届を出して、荷物もそのままに消えたらしくてさ。俺たちのメッセージアプリも全部ブロックされて、どこへ行ったのか誰も知らないんだって」
あのプライドの塊のような男が、職も人間関係も投げ出して失踪するなんて。
まさか私との別れがそこまで堪えたのか、それとも別のトラブルを起こしたのか。
今、彼はどこにいるのだろう。
実家……?
そういえば彼は、出身地の話になるといつも「すごく遠いところ」としか言わなかった。
地名を聞いても「言ってもわからないよ」とはぐらかす。そのくせ、たまに夜空を見上げては妙にしんみりしていた。
わずかな後味の悪さを抱えたまま、私たちはその夜、彼の噂話を切り上げた。
真相を知ったのは、それからさらに一年後のことだった。
その日、私は健司さん夫婦の家に夕食に招かれていた。
健司さんが焼いた肉をつまみながら、つけっぱなしのテレビを背に他愛もない話をしていた時のことだ。
突然、速報のチャイムが鳴った。
バラエティ番組が途切れ、緊張した面持ちのアナウンサーが映し出される。
『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。先ほど、国際天文学連合と各国政府が合同で記者会見を開き、地球外知的生命体との交信に成功したと発表しました』
「え、なにこれ。映画の宣伝?」
由佳さんが箸を止めた。
チャンネルを変えても、どの局も同じ会見を映している。
南米アンデス山脈の電波天文台が受信していた信号の解読に、ついに成功したのだという。
人類の歴史が塗り替わる瞬間だった。
私たちは三人とも、言葉を失って画面に釘付けになった。
会見場では、白髪の天文学者が興奮を抑えきれない様子で語っていた。
『――地球から数万光年離れた星間文明「バイセクト星人」。彼らの生態は極めて特異であり、すべての個体が“他者が確保したエネルギーのちょうど半分を物理的に奪取・共有する”ことで生命を維持する、超共生型の高等知性体であることが判明しました』
画面が切り替わり、精密なCGで描かれた宇宙人の生態図が映し出される。
「他者の皿の半分を確保しない限り、自分の食事に手をつけることができない」
「時間の概念が極端に歪んでおり、他者の予定を半分削ることで空間移動を行う」
「交換条件の概念を持つが、その条件は常に自個体に有利なように事後的に改定される」
「精神的負荷がかかると、周囲の通信(漫画アプリなど)をハッキングして現実逃避する」――。
(……ん?)
私と健司さんの視線が、ゆっくりと交差した。由佳さんも同じ顔をしていた。
スタジオに戻ると、解説の専門家が深刻な顔で続けた。
『さらに驚くべきことに、彼らの調査員が地球人に擬態し、長期にわたって潜伏していたことも明らかになりました。この調査員は「一人一食」「約束の時間を守る」といった地球社会の過酷な文化に耐えかね、母船へ緊急帰還したとみられます。なお、この人物はバイセクト星第一セクター(管区)を治める王家の王子であったとのことです。こちらが、帰還直前に母星へ送信された最後の通信ログです』
画面に、宇宙文字を日本語に訳したというテキストが映し出された。
《地球人、特に雌体の個体は極めて凶暴かつ頑迷である。こちらが親愛の情を込めてステーキ丼をジャスト50%シェアしてやったにもかかわらず、激しい敵意を示した。なお、当方が確保したカレーは当方のエネルギーであるため、共有の対象外である。さらに雌体は、栄養の過剰確保(通称「大盛り」)によって半分の基準値を不当に引き上げようと企てたため、事前に阻止した。また、こちらの高次精神活動(電子コミックの閲覧)を妨害し、生命維持に必要な洗濯偽装プロトコルすら見破った。これ以上の潜伏は我が精神核に著しい損傷を及ぼす。我は母星へ帰還する。追伸:地球のネズミ型マグカップは素晴らしい工芸品である》
スタジオのコメンテーターたちは
「ステーキ丼とは何かの暗号でしょうか」
「洗濯偽装プロトコルなる技術の解明が急がれます」
と、大真面目に議論を始めた。
リビングは静まり返っていた。
最初に口を開いたのは健司さんだった。
「……あいつじゃん」
「あいつだよね」
由佳さんが真顔で頷く。
「……あいつ、宇宙人だったのかよ。しかも王子って」
私の一言で、三人同時に吹き出した。世界中が人類史上最大の発見に震えているその時、このリビングだけが、まったく別の理由で笑い転げていた。
「俺、あいつに『お行儀が悪い』って説教しちゃったよ。外交問題にならないかな」
健司さんが涙を拭きながら言った。
あのプライドの高さも、怒りっぽさも、何でも自分基準で決めたがる支配欲も、異常なまでの「半分こ」への執着も、大盛りを拒む謎理論も、都合が悪くなると洗濯機の前に逃げ込んでスマホを見る奇行も。
モラハラでもクズ男でもなく、ただ単に「地球の風習に馴染めなかった、哀れなバイセクト星の王子様の文化摩擦」だったのだ。
そう思えば、あの理不尽極まりない二年間の交際も、壮大な異文化交流ボランティアだったような気がしてくるから不思議だ。
「さ、デザートにしよう」
由佳さんがキッチンから箱を持ってきた。中には小ぶりなチョコレートケーキが三つ並んでいる。
「今日は一人一個ずつね。半分こはなし」
ナイフは入れない。
丸ごと一個、自分のためだけにお皿にのせる。
誰にも半分奪われない、完璧な円形の甘味を頬張りながら、私は窓の外の夜空の、さらにその先の銀河の彼方へ向けて、心の中で小さく呟いた。
「バイセクト星では、誰にも怒鳴られずに美味しく半分こできてるといいね」
あの時食べ損ねた牛ステーキ丼の半分よりも、ずっと清々しい味がした。




