第13話 所長、その古代暗号は世界を滅ぼしません
1、 終末のスクリプトと、最後の誓い
2029年の初夏。
静まり返った所長室の空気。
38歳になった私の日常は、相変わらず埃っぽい古代の文献と共にある。
机の上に広げた出土資料の写本と睨み合っていた私の視界の端で、携帯端末が、不意に脈打つように震えた。
ふと視線を落とす。
画面は底知れぬ漆黒に塗り潰され、その中央には、見慣れたアプリのアイコンなどではなく、青白い光を放つ線描が浮かび上がっていた。
「……ん?」
思わず資料から目を離し、眼鏡のブリッジを押し上げた。
液晶の硝子の奥で、光の筋が生き物のように蠢き、交差していく。
二つの三角形が頂点で接し、砂時計のようにも、無限を示す記号のようにも見える、鋭利な幾何学文様――。
「こ、これは……まさか、ダガズ……!?」
学究の徒としての血が、瞬時に沸騰した。
北欧の原初ルーン文字において「完全なる一日」「無限の循環」を意味する文字【ᛞ(ダガズ)】。
だが、ただの文字ではない。
左右対称に結ばれたその結節点は、現代物理学でいうアインシュタイン=ローゼン・ブリッジ――空間の表裏を繋ぐ「ワームホール」、あるいは光すら脱出を許さぬ「ブラックホール」の歪んだトポロジーそのものの形状を帯びていた。
――ズ、ズズ……ッ!
突然、足元から地響きのような低い唸りがせり上がり、所長室の床が小刻みに波打ち始めた。
地震か、と身構えた刹那、異変はさらに牙を剥く。
机の上に置いたスマートフォンの直上――わずか数十センチの虚空が、まるで墨汁を垂らした水面のように歪み、青黒い空間の渦がキリキリと音を立てて巻き始めたのだ。
「な、なんだこれは……!? 空間が、捻じれている……!?」
机の上の書類や羽ペンが、引力に引かれるようにふわりと浮き上がり、端末の真上の渦へと吸い寄せられていく。
画面の中では、収縮するダガズ・ルーンの周囲に失われた原初語のスクリプトが猛烈な勢いで吐き出され、血のような朱色の数字が刻まれた。
『00:03:00』
刻一刻と、無慈悲に減算されていく数字。
それに同期するように、室内の重力が軋み、蛍光灯の光が明滅を繰り返す。
液晶に表示された文字と、目の前で起きている現実の空間崩壊。二つが完璧に連動している以上、もはや悪質な悪戯や機器の誤作動などではない。
かつて古代文明が粘土板の奥底に封じ込めたとされる、天変地異の予兆――地球規模の地殻反転と重力崩壊を告げる「神話の終末プロトコル」が、現代の電子機器を依代にして、物理空間へ実体化し始めているのだ。
「事象の地平……無限循環の回帰……! このカウントがゼロになった瞬間、局所特異点が臨界を迎え、地球の質量が極微の点へと圧縮される……!!」
呆然と見入っているうちに、画面の数字はすでに『00:01:12』まで減っていた。
もはや一刻の猶予もない。
私は一人で抱えきれない恐怖と驚愕に喉を詰まらせ、裏返った声を張り上げた。
「か、神代さん! 神代さん、今すぐ来てくれないか! 緊急事態なんだ、これを見てくれ!!」
バタンッ! と勢いよく扉が開き、28歳を迎えていっそう華やかさを増した研究員・神代七海が、ぱっと顔を輝かせて駆け込んできた。
「所長! 私に御用ですか? なんなりとお申し付けください♡ お茶ですか? 愛の告白ですか? それとも――」
「告白どころじゃないよ、地球が終わるかもしれないんだ! ほら、これを見て!」
私が青ざめた顔でスマホと宙に浮かぶ渦を指差すと、七海は机に身を乗り出し、目を丸くした。
「わっ、部屋が揺れてるし、机の上が浮いてますよ!? それにこの模様、すっごく禍々しい光を放ってます……!」
「ダガズ・ルーンだ! 文字の幾何構造が重力場と特異点の数式に直結している! 見てごらん、空間そのものが削り取られているんだ! 強制終了も通らない、あと一分足らずでゼロを迎えてしまう……! 神代さん、机の下に隠れて!」
浮き上がる資料をかき分け、私が彼女を庇うように腕を伸ばしたその時だった。
激しい揺れの中で、七海が不意に私の腕を力強く掴み、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返してきたのだ。
その頬は紅潮し、凛とした決意の光が宿っていた。
「所長! 私、ずっとずっと所長が好きでした! 愛してます!」
「えええええっ!? い、今それ言う!?」
「今だから言うんですよ所長! 私と結婚してください!!」
世界が崩壊する瀬戸際で飛び出した、まさかの求婚。
想いを寄せ始めてから延べ五年、積もりに積もった想いの丈を叩きつけられ、思考回路が完全にショートした私の口からは情けない声が漏れ出た。
「ちょ、ちょっと考えさせてくれ! じ、時間が欲しい!」
「時間なんてないじゃないですか! あと三十秒で地球が滅亡するんですよ!? 独身のまま宇宙の塵になるおつもりですか、所長!!」
「い、いや、でもね、神代さん! 職場の上司と部下の関係もあるし、心の準備が――」
「男なら、今ここで決断しろーーーーっ!!」
七海が軋む机をバンッと叩いて私の襟首を掴み上げた。
残り時間は、あと十秒。
空中の渦が激しく唸りを上げ、朱色の数字が無慈悲にゼロへ向かって駆け下りていく中、死の恐怖と彼女の尋常ならざる気迫に呑み込まれた私の理性が、パチンと弾け飛んだ。
「……わ、分かった! 結婚しよう、神代さん! 君を一生大切にすると誓う!!」
「所長……っ!」
刹那、七海の顔が眼前に迫った。
互いの呼吸が触れ合い、吸い寄せられるように唇が重なり合う。
地球最後の日に交わされる、熱く、甘く、永遠のように長い口づけ。
世界の終焉など、もうどうでもよかった。
暗黒の特異点へと沈みゆく惑星の運命よりも、いま唇に伝わる柔らかな熱のほうが、遥かに強烈に胸を焦がしていた。
まさにその時――。
「失礼します、所長。例の月次報告書の確認印をお願い……ん? ……んんん!!?」
ノックもそこそこに書類を抱えて入ってきた倉田職員が、戸口で文字どおり硬直した。
開いた口が塞がらず、抱えていたバインダーが床へと派手な音を立てて落下する。
ハッと我に返り、私と七海は飛び退くように唇を離した。
「く、倉田くん!?」
「しょ、所長ぉおお!? 神代さん!? お、お二人で執務机の前で、一体なにして……!?」
「倉田くん、落ち着いて!」
私は乱れたネクタイを直す余裕もなく、絶望の形相で叫んだ。
「地球はもう終わりなんだ! 時空の特異点に呑まれてすべてが圧縮される! 君も思い残すことがあったら、今のうちに叫んでおくといい!!」
「は、はあぁ!? な、何言ってるんですか所長、頭打ったんですか!?」
「本当なんですよ倉田さん! ほら、このダガズ・ルーンのカウントダウンを見て――」
七海が机の上のスマホを指差した。
私も、倉田も、そして七海も、三人揃って息を呑みながら画面を凝視する。
そこには――。
『00:00:00』
とっくに、ゼロを刻み終えていた。
空中に渦巻いていた暗黒の裂け目はいつの間にか消え失せ、浮いていた書類はバサバサと静かに机の上へ落ちていた。
窓の外には、いつもと変わらぬ穏やかな街並みが広がり、所長室の換気扇がカラカラと暢気な音を立てて回っている。
重力の崩壊も、地球の消滅も、何ひとつ起きていなかった。
2、 祖父からの通信
――ピロリロリ〜ン♪
凍りついた空気を叩き割るように、あまりにも間の抜けた電子メロディが朗らかに鳴り響いた。
画面を覆っていた禍々しい紋章は煙のように掻き消え、そこには、ひらがなばかりの拙い文章が並んでいた。
『もしもし まさるくん
あたらしい けいたいに したら がめんが びかびか ひかって もじが ばくはつ しています
いま へんな 動くクマと 花火の絵が いっぱい でて とまりません たすけて ください
あと たいまーが とまらず うどんが のびきって もちになりました』
「…………」
「…………」
「…………」
所長室に、底知れぬ静寂が落ちた。
私はゆっくりと息を吐き出し、脱力とともに机に両手をついた。
「……おじいちゃん、か……」
「お、おじい様……?」
七海が頬を真っ赤に染めたまま、小さく呟く。
「うん。あの複雑怪奇な紋章は……祖父が新しく買ったシニア向け端末で、動く絵文字を乱打して、それが重なり合ってバグを起こした残骸だったみたいだね。カウントダウンも、カップうどん用のキッチンタイマーが暴走していただけらしい。……じゃあ、さっきの揺れや空間の歪みは、局地的な微小地震と静電気による錯覚だったのかなあ……?」
倉田が呆然とした顔で私と七海を交互に見やり、それから床の書類を拾い集めながら、極めて乾いた声で呟いた。
「……あの、お邪魔だったようなので、出直していいですか?」
「ま、待って倉田くん! これは不可抗力というか、誤認というか、極限状態の錯誤というか……!」
「いいえ所長! 男に二言はありませんよねっ!? 誓いましたよね、一生大切にするって!!」
「か、神代さん、落ち着いて! あれは世界が滅亡する前提の特例措置というか……!」
「ひどい! 私の純情を弄んだんですかーっ!?」
七海が涙目で詰め寄り、私が冷や汗を流しながら後ずさりする阿鼻叫喚の所長室。
「もう知りません! 所長のばかーっ!」
七海は両手で顔を覆うと、所長室を飛び出していった。バタン、と扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
私は己の深読みと職業病を呪いながら、世界は平和であり、私の日常の平穏だけが完膚なきまでに滅亡したことを、骨の髄まで思い知らされていた。
3、 所長室の外側で
「ふう……っ、あ、危なかった……!」
涙目のまま所長室を飛び出し、後ろ手に扉を閉めた瞬間。
廊下の壁にぺたりと背中を預けた神代七海は、肩で息をしながら、自らの右手を胸元でぎゅっと握りしめていた。
その指先には、まだ微かに青白い魔力の残滓がくすぶっている。
「田舎のおじい様から届いた不審な電波に乗って、悪質な情報系の呪霊が回線をジャックしかけていました……! もう少しで所長の脳へ精神攻撃が直撃するところだったなんて」
彼女は額の汗を指先でぬぐい、自らの手のひらを見つめて誇らしげに息をつく。
「でも、廊下から遠隔で、おじい様のメールの文字配列に私の結界術を上乗せして、古代ルーン文字【ᛞ】の封印式に変換した私の機転、完璧でした! 呪霊の核を押し潰すために重力場を展開したせいで、ちょっと部屋が揺れたり空間に渦が開いちゃったりしましたけど……結果オーライです!」
所長が「本物の天変地異の予兆」だと信じ込み、恐怖の底に叩き落とされていたのは、七海にとってまさに渡りに船だった。
「呪霊の最後の足掻きも、無害な『うどんの絵文字』に書き換えて無事に消滅させましたし……それに」
彼女は先ほど触れ合った唇の感触を思い出すようにそっと指先をあて、ふにゃりと頬を緩めた。
「所長、一生大切にするって言ってくれた……! 延べ五年、待った甲斐がありました……キスもしちゃった……! もう絶対に逃がしませんからね……ふふ、ふふふふふ♡」
背後で完全に浄化された呪霊の残滓が、チリチリと静かに虚空へ溶けていく。
世界の滅亡を防ぎ、そしてついに生涯の誓約を勝ち取った七海は、昇天しそうなほどの幸福感に包まれながら、所長にお茶を淹れるべく給湯室へと小走りに駆けていった。
4、 エピローグ:不可逆の波紋
給湯室から戻ってきた七海が、茶柱の立った熱い湯呑みを嬉々として私の机へ置いた。
その頬にはまだ微かな朱が残り、口元は隠しきれない笑みを湛えている。
先ほどまでの死に物狂いの絶望が嘘のように、所長室には再び穏やかで、けれどどこか居心地の悪い甘やかな沈黙が流れていた。
「……あの、神代さん。さっきの約束なんだけど、極限状態での錯誤というか――」
「所長、言い訳は見苦しいですよ♡ ほら、熱いうちにどうぞ!」
すっかり外堀を埋められた私が小さく頭を抱えたその時だった。
部屋の隅に置かれた小型テレビから、突如として甲高いアラート音が響き渡った。
『――番組の途中ですが、緊急報道特別番組をお伝えいたします』
アナウンサーの切迫した硬い声が、室内の空気を一瞬で凍りつかせる。
画面には「緊急速報」の禍々しいテロップが躍り、中継カメラの映像へと切り替わった。
『現在、都心部をはじめとする各地の地表に、原因不明の巨大構造物が出現しています。繰り返します、街のただ中に突如として――』
ヘリコプターからのノイズ混じりの映像。
そこに映し出されていたのは、現実世界の硬い地表に、音もなくその不気味な質量を現した――漆黒の直方体。
――『モノリス』。
画面越しですら、それがこの世の法則を拒絶していることが見て取れた。
世界のコードに生じた物理エラーは、単なる物質の破壊などではなく、この世界を世界たらしめている「情報」そのものの完全な融解となって、冷たく現世の肌を侵食していく。
出現したその瞬間から、周囲の実数データが次々とその固有の意味を失っていた。
中継映像の端に映る街頭の信号機は、赤・青・黄のすべてを同時に点灯させたまま凍りつき、ビルの電光掲示板には意味を剥ぎ取られた「0」と「1」のバイナリコードが、まるで血を流すように激しく奔り出している。
『各地で観測機器に異常が発生しています! 世界中の時計が不揃いな時刻を示し始め、人々の携帯端末に表示された銀行口座の数字は、一斉に「NaN(非数・未定義)」という冷酷なエラー文字へと書き換わって――』
アナウンサーの声が乱れる。
空間の物理法則までもが、その確かな「定義」を失っていく。
浮き上がったゴミや、路上に放置された車両が、上下の感覚を失ったように宙で静止する。
しかし、それは何か見えない大きな法則に拘束されているかのように、人や建物へ衝突することはなく、不自然なほど静かな軌道を描いてただ漂っていた。
「……嘘、でしょ……?」
お盆を抱えたまま、七海の唇から微かな息が漏れた。
さっきまでの浮かれた色は瞬時に消え去り、彼女の瞳は画面の漆黒の直方体――そして、それが撒き散らす圧倒的な「情報の歪み」へと釘付けになっていた。
やがて彼女は、震える指で自分のスマホを取り出し、祈るように画面を見つめた。
「……陽菜ちゃん、どうか無事でいて」
聞き慣れない名前だった。後になって知ったことだが、東京の居酒屋で働く、彼女のいとこの娘の名前だという。歳はほとんど変わらないのに、続柄の上では七海のほうが「叔母さん」にあたるらしいが、本人たちは「七海ちゃん」「陽菜ちゃん」と呼び合う仲なのだそうだ。
それは、どこか遠くで誰かが境界を越え、見えない時計の針がひとつ、静かに進んだ頃のことだった。
「神代さん……」
「……はい」
祖父のうどんのタイマーは、確かにただの勘違いだった。
だが――液晶の画面の向こう、私たちの感知し得ない世界の深層で、不可逆の歯車はすでに、音もなく狂い始めていたのだ。
小説「シュレーディンガーの居酒屋 〜イマジナリー・ラインの観測〜」
神代の血を引く歴史ある魔法使いにして、長沢陽菜の、ほぼ同い年の叔母(正確には従叔母)――神代 七海参戦。 か?




